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第11話:不穏な噂

 ミュルグレス王国の北の辺境、クレラント領。

 収穫期に雨が少ない上に、夏は涼しく乾燥した気候。しかも領土は広大で、小麦の栽培に非常に適した土地である。酪農も盛んであり、上質な牛乳や卵は貴族たちからの人気も高い――。

 王妃教育で学んだ上に、名産品をお菓子に使いたいなと妄想していたおかげで、クレラント領の知識はしっかりと頭に入っている。


 そう思っていたのだが、机上で理解したつもりになっただけだった。

 実際に自分の足でクレラントの町を歩いてみると、王都や伯爵領にはない、まったりと穏やかな空気が流れている。

 緑の広がる牧場、畑を耕す農夫、農産物が並ぶ大きな市場……。私の目に映る景色は、どれも新鮮だ。見たところ、大きな貧困格差もなさそうで、領民たちの親しげな会話も耳に心地良い。


(みんな笑顔でいい町だな~。でも……)


 ほのぼのとした気持ちで町を見回した後、さりげなく視線だけを隣の人物に移す。

 私に町を案内してくれているのは、さきほどからひと言も発さない、仏頂面の旦那様だ。


 本音を言えば、同行を買って出てくれたのだから、もう少しガイド的なことをしてほしい。沈黙がひたすら気まずく、私は緊張しっぱなしだ。


(うぅ……何か話さないと……)


「えーっと……今日はお時間を割いてくださって、ありがとうございます」


「問題ない。俺の菓子のための買い物だろう」


「そうです……けども……」


「なら、何も気にするな」


「は……はい」


 会話終了のお知らせと、再びの沈黙。

 旦那様は眉一つ動かさず、終始スン……とされている。

 町行く人々の楽しげな会話との温度差に、私は心の中で悲鳴を上げた。


(ぬぉぉ……っ! ぺしゃんこのケーキくらい会話が膨らまない……。私の周りって、家族もキースも基本的にお喋りだから、この間が耐えがたい……)


 すると、私が渋い表情をしていたことに気が付いたのか、旦那様がおもむろに口を開いた。


「……君が菓子を作り始めたきっかけは何だ? ハートヴァルド家は食事にも厳しいと聞いていたが」


「えっ。は、はい‼ そうですね……。特に面白味のない話ですけど……」


 旦那様の気遣いが有難い。私が語りやすい話題を選んでくれた気がする。


 この機会を逃してはならないと思った私は、宮廷パティシエの師匠にしか打ち明けたことのなかった、10年前の思い出を話すことにした。

 契約結婚の相手なのだ。人となりは分かってもらっていた方がいい。


「10年前、アロンダイト帝国で大きな軍事演習会があったのはご存じでしょうか? 私は軍務卿の母に同行していたのですが、会場でうっかり迷子になってしまって……」


 魔法大国アロンダイト帝国は、軍事力も大陸一。鶴の一声で集まった各国の主力が、競い合い、個々の武や戦術を磨く――。

 今でも数年起きに催されるイベントだが、10年前のそれは一段と規模が大きく、会場であった国境砦は幼かった私にとって、まさに巨大な迷宮だった。


 魔法石でできた防御壁が珍しく、ついつい母の傍を離れてしまったせいで、自分が今どこにいるかも分からない。

 噂では、国境砦には侵入者を二度と生きて逃がさない魔術があるとかないとかで、もしかしたら私は既にその術中にいるのでは……? もう家族に会えないのでは……? と、一人、不安でたまらなくなっていた時だった。


「ひとりぼっちで心細かった私を、帝国の魔術師の女の子が助けてくれたんです。すっごく華奢で可愛い子で。多分、私よりちょっとお姉さんだったと思います。」


「……ほう」


 旦那様の紅色の瞳が、興味深そうな光を放つ。

 相槌は簡素だが、つまらないと思われてはいなさそうだなと、私は少しだけほっとしながら話を続けた。


 今となっては記憶がぼんやりとしているものの、その魔術師の女の子は大変な美少女だった。肩にかかるサラサラの黒髪と、傷ひとつない色白の肌。腕なんて、私が握手したら、あっさりと折れてしまいそうな細さ。不釣り合いなほど背の高い魔法の杖を持っていて、それを重たそうに携えていた。

 当時から筋トレや剣術の稽古に精を出していた私の目には、彼女はおとぎ話のお姫様のように映った。とても同世代の同性だとは思えなかったことを覚えている。


 存在はファンタジーだが、魔術師の親に連れて来られたと話す彼女と、私はすぐに仲良くなった。自分と同じ境遇であることに親近感を抱き、砦の中を案内してもらいながら、楽しい話をたくさんした……気がする。


 幼かった私の記憶にはムラがあり、今でも強烈に覚えていることといえば、「人生初のお菓子」だ。


「その魔術師の女の子が、クッキーをくれたんです! 生まれて初めて食べたお菓子でした」


 あの衝撃は、忘れもしない。

 二枚のクッキーに挟まれたチョコ――つまり、チョコサンドクッキーを魔術師の女の子は、私に分けてくれた。


 資源が豊かな帝国でも、チョコレートは安価ではない。彼女はそれなりの身分のようだったが、当時幼かった私はそんなことには気が回らず、とにかく魅惑的な甘い香りに心がメロメロだった。


 サクッと一口頬張った時の、感動たるや。

 軽やかなクッキーの食感。鼻に抜けるバターの芳醇な風味と小麦粉の素朴な旨み。混然一体となるチョコレートの甘さとクッキーの包容力が、私の脳を痺れさせた。


 あの味を――『口福』を知らなければ、今、私はパティシエを目指してはいなかっただろう。

 思い出すだけで、じゅるじゅると涎が止まらない。


 その後、私は無事に母と合流したのだが、その子との出会いとクッキーの話は伏せていた。万が一、母が「よくも娘に菓子を与えたな!」と、彼女を咎めるようなことがあったら困ると思ったからだ。


 しかし、いつか彼女にお礼をしたい気持ちは、10年間ずっと忘れずに胸の奥に抱えていた。


「それはもう、口の中がすっごく幸せで……。いつかその子にもう一度会って、手作りのお菓子でお礼ができたらいいなと……。あ、でもうっかり名前を聞き忘れちゃったんですよ~」


「なるほど。いい出会いがあったんだな」


 たははと自虐的に笑っていた私に、柔らかな眼差しが注がれていた。

 目を細めて顔をほころばせる旦那様と視線が重なると、私は思わずドキッとしてしまった。「は……はい……」と、なんとか絞り出した声は、自分でもびっくりするほど消え入りそうで情けないものだった。


 旦那様は基本的に仏頂面で、何を考えているのか分からない。

 だが、間違いなく整った顔立ちの美形男性なので、不意打ちの笑みの威力は計り知れないものだった。


(旦那様、呆れて笑ってるのよね……? いけない、しゃべりすぎちゃった……)


 多分、こっちの解釈が合っているはず。

 私は勝手に熱くなった頬をもにゅもにゅと両手で解すと、得意の精神統一で心を落ち着けた。


「旦那様のお話も聞きたいです。えっと……、お生まれはどちらですか? 王国のどの辺りでしょうか? 郷土菓子があれば、お作りすることもできますよ!」


「俺は――」


「領主さま~!!」


 旦那様が躊躇いがちに口を開こうとした時、ちょうど市場の方から明るい声が飛んできた。

 私と旦那様が振り返ると、クレラント領の町の人々が元気いっぱいにこちらに手を振っていた。


「領主さま、町の視察ですか? ウチのパン食べてってくださいよ!」

「俺んとこも、いい野菜が採れたんすよ!」

「領主さま、また剣術おしえて!」


「ありがとう。また寄らせてもらう」


 ふっくらと焼けたパンを抱えるおかみさん。瑞々しい野菜を掲げる若店主。小さな子ども。他にも、赤ちゃんを抱っこしたママさん、気難しそうなおじいさん……多分、野良猫でさえ、旦那様を歓迎していた。

 旦那様はそんな領民、一人一人に頷きながら応えていく。


(えっ⁉ あれっ⁉ 空気……和やか……??)


 私は、旦那様を中心に流れる穏やかな空気に目を見張っていた。


 噂と違う。私がここに来る前に耳にしていた旦那様の噂は、血も涙もない「冷血辺境伯」だった。てっきり、領民たちからも鬼のように恐れられているのかと想像していたが、どうやら思い込みだったらしい。

 町のどこを見渡しても、旦那様を恐れる人はいない。

 聞こえてくるのは、彼に対する日頃の感謝ばかりだ。


 そうか、と腑に落ちた。

 この町に漂うまったりと穏やかな雰囲気は、領主の旦那様の善良な仕事によるものだ。領地の平和は領主が作る。当然のことなのに、私は勝手に噂に怯えていた。


(恐ろしいのは外敵に対してだけで、旦那様はいい領主様なんだわ。なのに、私は偏見を――)


 自分の未熟さを反省し、私は唇をきゅっと噛み締めた、ちょうどその時だった。


「領主様。もしやお隣のご婦人は、“悪の【剣姫】”……では?」


 とある町人の男性からかけられた言葉に、私の表情は固まった。


 噂は恐ろしい。

 どこまでも追いかけてくるから――。


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