第9話:帰路の包囲網と、ただいまの温度
深夜一時十分。
都心の夜景を背に南下する丈二の首筋で、RWRの振動モーターがけたたましく警戒音を刻んでいた。
襟元のインジケータは、東京湾口を挟む東西二方向からの強い電波照射を捉えている。
(方位一八〇および二四〇。照射角の変化が速い……洋上の低空哨戒機、それに沿岸部へ緊急展開した警戒機か。病院への急降下から離脱までの短時間で、こちらの南下針路を完全に読まれたな)
往路とは状況がまるで違っていた。
背負っていた源三の生命維持結界という最大の重量物を下ろしたものの、往復一千キロの暴風雨突破で体内魔力は底を突きかけている。全身の筋繊維は熱を持ち、肺が焼きつくように酸素を求めていた。
さらに最悪なのは風向きだった。
台風の反時計回りの渦により、北上時は追い風だった強風が、南下する帰路では時速百キロ近い猛烈な「向かい風」へと反転していた。
(向かい風で対地速度は二百キロ前後まで落ちる。このまま直進すれば、南方の海上監視線に追いつかれ、低空レーダーで神黒島までの航跡を一本の線で引かれてしまう)
国家側に神黒島を特定されるわけにはいかない。
島が割れれば、渚や茂吉たちを巻き込み、平穏なオタクライフどころか島全体の日常が崩壊する。
(……なら、追跡側の『アルゴリズム』の隙を突く!)
丈二は右腕を突き出し、推進ゲートの出力をあえて半減させた。
高度を八百メートルから一気に二百メートル、さらには波頭すれすれの極低高度へと滑り込む。
ザパァァン! と巨大なうねりが砕け、塩水の飛沫が視界を白く染める。
追尾レーダーの電波は、激しい波浪反射のノイズの中に埋没し、RWRの連続振動が散発的なパルスへと変わった。
(シークラッターに紛れるだけじゃ追尾は切れない。……予測進路を物理的にへし折る!)
丈二は自作RWRの受信強度を凝視した。
照射波がもっとも強まり、追尾フィルターが次の一手を確定させる直前の一瞬――。
「……今だ!」
指先を鳴らし、残存魔力を座標跳躍へと注ぎ込む。
(――『短距離転移』!)
パチンと空間が爆縮し、丈二の身体は海面から真横へ三百メートル、波の谷間へと瞬間移動した。
転移直後、数秒間にわたって進路と速度を不規則に変え、波の飛沫に紛れて航跡の連続性を完全に断ち切る。
防衛省の地下スクリーン上では、追尾していた目標のプロットが突然途切れ、激しい雨雲と波の反射雑音の中へと溶け落ちたはずだった。
首元のRWRが、ふつりと沈黙した。
(切れた……! 今のうちに台風の西側、気圧傾度の緩いスパイラル・バンドの隙間へ潜り込む!)
丈二は海面を蹴り、漆黒の闇の中へと低空のまま姿を消した。
午前六時四十五分。
向かい風を押し返し、台風の進路を大きく迂回しながら飛び続けた丈二の視界に、ようやく見慣れた神黒島の断崖絶壁が飛び込んできた。
東の水平線からは分厚い雨雲を突き破り、鮮烈な朝日の光条が海面を黄金色に染め上げている。
港外の波を越え、黒い影がボロボロになりながら潮見丸の波止場へと転がり込んだ。
着地と同時に膝が崩れ、冷たいコンクリートの上に手をつく。
呼吸は荒く乱れ、全身の魔力回路が焼け焦げるような脱力感に襲われていた。
(『交換収納』……解除……)
擦り切れたスーツをアイテムボックスへ戻し、元の濡れた作業着姿へ切り替える。
重い足取りで波止場を歩き、番屋の引き戸に手をかけた。
ガララ……と弱々しく戸を開けると、事務所の中は昨夜のままの空気が張り詰めていた。
白熱電球の下、茂吉が腕を組んで目を閉じ、その向かいで渚が毛布を肩に羽織ったまま、じっと黒電話の受話器を見つめていた。
戸の開く音に、渚が弾かれたように顔を上げた。
「……ジョージ!」
渚が椅子を蹴るようにして駆け寄ってくる。
その顔は涙と隈でぐしゃぐしゃだった。
「じいちゃん、助かったわよ……! さっき慶應の先生から電話があったの! 『手術は無事に終わった。今はICUで安定している。搬送が間に合ったから助かった』って……!」
「……そうか。間に合って、よかった」
丈二はへたり込むように壁に背を預け、安堵の息を吐き出した。
茂吉がゆっくりと立ち上がり、無言で丈二の肩をがっしりと抱きしめた。
「……よくやってくれた、ジョージ。本当に……ありがとな」
海の男の太い手が、小刻みに震えていた。
丈二は息を整えながら、ふと思い出したように渚へ視線を向けた。
「そういえばさ……じいさんの胸元にあった書類の袋、見覚えのあるコンビニ袋だったんだけど。神棚に置いてあったやつだよね」
「あ……うん。診療所の先生が、紹介状を濡らさないようにって持っていっちゃったのよ。あんたの反省文、じいちゃんと一緒に東京の病院まで行っちゃった」
「まだ神棚に取ってあったのか、あれ……」
「うるさいわね。反省が足りないと思って置いといただけよ」
渚はぶっきらぼうに言い返しながらも、耐えきれなくなったように丈二の胸へ額を押し当てた。
作業着越しに、渚の温かい涙と体温が、冷え切った丈二の身体にじんわりと染み込んでいく。
「そんなことより……あんたが無事に帰ってきたんだから、それでいいのよ……!」
「渚……」
「おかえり、ジョージ」
渚は顔を上げ、赤く腫らした目で、これ以上ないほど温かく微笑んだ。
「……ただいま、渚」
窓の外では、台風一過の青空が広がり始め、太平洋の海原を眩しい朝日が照らし出していた。




