第8話:嵐を裂く魔導ストレッチャー
神黒島診療所を飛び立つ直前のことだった。
老医師は手書きの紹介状と保険証を雨風から守るため、番屋から急ぎ持ち込まれたファミマのレジ袋へ突っ込んでいた。
「渚、事後報告で悪い! 紹介状が濡れたら困るから、神棚の脇にあった折り畳んだ袋、使わせてもらったぞ!」
「神棚の……あ」
渚は一瞬だけ目を丸くした。
薄暗い診療所の中、急患の処置で焦る老医師は気づいていない。
乳白色の袋の底には、あの日丈二に書かせた――あの油染みと反省文の残るファミチキの茶色い紙袋が、そのまま丸まって残っていたのだ。
「……まあ、いいか」
嵐の向こうへ飛び去った漆黒の背中を見送りながら、渚は小さく呟いた。
「あれが、じいちゃんを守ってくれるかもしれないし」
高度八百メートル。夜の太平洋上空は、大気そのものが狂い乱れる巨大な流体爆弾の底だった。
風速四十メートルを超える暴風が四方八方から叩きつけ、鉛色の豪雨が機関銃の弾丸のようにスーツの表面を打つ。落雷の紫電が雲間を裂くたび、下界で逆巻く黒い白波が巨大な顎を開けて飢えた獣のように蠢いていた。
その嵐のど真ん中を、丈二は一点の迷いもなく一直線に突き進んでいた。
(負荷係数――通常巡航の四倍。だが、魔力ゲートの供給圧は安定している)
背後に従えているのは、淡い燐光を放つ球体の結界だ。
内部には担架に乗せられた源三の身体が、水平を厳密に保たれたまま固定されている。
気圧は一気圧に固定。内部温度は二十四度に保たれ、診療所で接続された酸素投与と点滴のルートはそのまま維持されている。外界の激しい振動や加減速による衝撃荷重は多重障壁の減衰層によって極限まで殺され、解離を起こした大動脈への致命的な血圧スパイクを防いでいた。それでも老人の表情には苦悶の影が残り、途切れ途切れの微弱な呼吸を辛うじて繰り返している。
魔法で病巣を治癒しているわけではない。現代の医学が待つ手術台まで、状態を悪化させずに命を運ぶ――ただそれだけの綱渡りだった。
そして、その搬送状態を担保しているのは、前を引く丈二の肉体そのものだった。
「……ぐっ!」
猛烈な乱気流が球体を激しく揺さぶるたび、牽引する魔力の帯を通じて、丈二の肩と背筋に凄まじい衝撃荷重がダイレクトに返ってくる。
風の抵抗を極限まで逃がす前傾姿勢を取り、全身の筋繊維へ魔力を流し込んで骨格を補強する。
時速三百キロを維持しながら、台風の渦を東側から回り込み、追い風の成分を計算してベクトルを合成する。一秒ごとに乱高下する大気密度を読み、推進魔力ゲートの絞りをミリ単位で調整し続けた。
(体温低下は――なし。渚のスーツが完璧に冷気を遮断している)
叩きつける雨水は超撥水加工を施した前世の特殊繊維を滑り落ち、摩擦熱と体熱を逃がさない。渚が夜なべして仕上げた縫製が、この過酷な空の底で、丈二の命を文字通り繋ぎ止めていた。
飛行開始から二時間十五分。
猛烈な雨雲の帯を強行突破し、視界の先、漆黒の水平線の上に微かな橙色の光の層が滲み始めた。
房総半島沖だ。
台風の最悪の暴風域を抜けた。追い風に乗ったことで、所要時間は計算より二十分以上も前倒しされていた。
だが、安堵の息を漏らす暇はなかった。
ジジッ――ジジジジッ!
スーツの襟元に仕込んだ簡易RWRが、けたたましく震え始めた。
網膜に投影された警告インジケータが、激しく点滅する。
(この周波数帯……地上サイトだけじゃない。洋上の艦艇、さらに上空からの捜索パルスだ!)
見れば、東京湾口の雲の上、遥か高空を旋回する大型機のレーダー波が、広範囲にわたって海面を照射していた。前回の事案を受け、防衛当局が南方アプローチの監視体制を重点警戒へ引き上げていたのだ。
しかも、今回は丈二単独ではない。背後に直径二メートルを超える巨大な球体結界を曳航している。レーダー反射断面(RCS)は普段の数倍に跳ね上がっているはずだった。
(まずいな……このまま真っ直ぐ都心へ突っ込めば、迎撃機こそ上がらなくても、着陸地点を完全に特定される!)
だが、球体を切り離すことも、低空へ潜航してシークラッターに紛れることもできない。急激な高度低下や転移による急制動は、結界内部の源三の大動脈に致命的な負担を与える恐れがあった。
(……なら、やることは一つだ)
丈二は左手を背後へ向け、球体の表面に新たな術式を重ねた。
(――『電磁境界位相干渉』展開!)
結界表面の魔力膜の境界条件を高速で揺らし、衝突するセンチメートル波のレーダー反射波の位相を細かく散乱させる。
まとまった反射波の位相相関を崩すことで、レーダー画面上での目標のエコー強度を急激に減衰させ、台風の激しい降水・雨雲クラッターの中へと強制的に埋没させる。
同時に、丈二自身の飛行ルートを直線からわずかにサインカーブを描く揺らぎ軌道へと切り替えた。
地上および上空のレーダー解析上では、突如として輪郭が雨雲の雑音と混ざり合い、確固たる追尾目標としてのロックオンが成立しなくなるはずだった。
首筋の振動が散発的なものへと弱まる。
(よし……追尾の確定は防げた。あとは一気に病院へ滑り込む!)
午前零時四十分。
東京都新宿区、信濃町に位置する慶應義塾大学病院の屋上ヘリポート。
台風の吹き返しの突風が吹き抜ける中、スクラブの上に防寒ヤッケを羽織った心臓血管外科の当直主任、神崎准教授と数名の医療スタッフが、冷たい風に打たれながら待機していた。
「神崎先生、本当に来るんでしょうか……?」
若い専修医が、寒さに震えながら夜空を見上げる。
「八丈島の防災ヘリも自衛隊も、台風で全機グラウンド(飛行停止)です。神黒島から患者が自力で飛んでくるなんて、連絡票の誤報じゃないですか? そもそも誰が運んでくるんです」
「……分からん」
神崎は険しい顔で首を横に振った。
「だが、神黒島診療所の所長から直電があった。『スタンフォードA型の解離だ。今夜中に胸を開かなければ助からん。搬送手段は問うな、とにかく屋上を空けて待っていろ』とな。……カルテ上、患者は七十代男性、血圧は崩壊寸前だ。たとえ一パーセントの可能性でも、我々は待つ義務がある」
その時だった。
ピューッ、と風の唸り声に混じって、鋭い風切り音が上空から響いた。
「……ん? 何の音だ? ヘリのローター音じゃないぞ……?」
スタッフの一人が指差した夜空の闇の底から、淡い蒼白い光を放つ巨大な球体が、音もなく垂直に降下してきた。
「なっ……!?」
「ひっ、UFO……!?」
医療スタッフが腰を抜かしかけた瞬間、ヘリポートの中央へ、漆黒のスーツを纏った男がふわりと舞い降りた。
背後には、空中に浮遊する光の球体。
男が指先を払うと、光の膜がシャボン玉のようにパチンと弾け、中から現れたのは――点滴と酸素投与を繋がれ、毛布にくるまれた老人の横たわる神黒島診療所の担架だった。
「患者の受け入れチームは君たちかい?」
顔面に揺らぐ影の奥から、落ち着いた少年の声が響いた。
神崎は呆然としながらも、医師としての本能で駆け寄り、老人の頸動脈に指を当てた。
「……脈はある! 血圧は……維持できている!? この状態で、まだ破裂を起こしていない……!?」
「気圧と振動は最大限に抑えて運んできた。上行大動脈の解離部分はまだ持ち堪えているはずだ。……あとは君たち現代の医学の仕事だ。頼むよ、ドクター」
黒いスーツの男はそう言うと、神崎の目を見て、右手の親指をグッと立ててみせた。
「あ、あんたは……ネットで騒がれている、あの……」
「ただの東京都民さ」
言い残すや否や、男の足元が青白い光に包まれ、ドンッ、とコンクリートを震わせて垂直に夜空へと跳ね上がった。
スラスターの噴射煙も残さず、漆黒の影は台風の雲間へと一瞬で消え去っていった。
「神崎先生! これ……!」
駆け寄った看護師が、老人の胸元にテープで留められていたファミマのレジ袋を拾い上げ、中から書類を取り出した。
その時、袋の底からポロッと、油染みの残るコンビニの茶色い紙袋がこぼれ落ちた。
「……ファミチキの袋?」
神崎が目を丸くする。
拾い上げた紙袋の裏面には、油性マジックで殴り書きされていた。
『本人の確認も取らずに、ボストンで一緒に暮らす前提で話を進めません。渚へ』
「……なんだこれは? 医療関係のメモ……ではないな」
神崎は一瞬呆気にとられたが、すぐに表情を引き締め、ストレッチャーへ手をかけた。
「ストレッチャーをオペ室へ直行させろ! 人工心肺の準備! 一刻を争うぞ、奇跡で繋がれた命だ、絶対に死なせるな!!」
ストレッチャーの車輪が、深夜の病院の廊下をけたたましく転がり始めた。
その頃、高度一千メートル。
東京の摩天楼の夜景を背に、丈二は南へ向けて反転していた。
往路で生命維持結界に魔力を大量に消費し、全身の筋肉は鉛のように重い。
だが、スーツの襟元に仕込んだRWRが、再び不気味な連続振動を刻み始めていた。
(……追跡か)
東京湾上空の複数方向から、これまでとは異なる強いレーダー照射が次々と重なってくる。
照射源の方位変化から、複数の航空機がこちらへ接近していることだけは分かった。




