第7話:台風前夜の神黒島と、届いた赤い封筒
神黒島の空が、鉛色の分厚い雲に覆われ始めていた。
海鳴りが低く轟き、港の係留ロープが軋む。黒潮の上で急激に発達した大型台風が、小笠原諸島を舐めるように北上してくる進路予想図が、番屋のテレビに赤々と映し出されていた。気圧計の針は朝から右肩下がりに落ち続けている。
「ジョージ! 渚! 第三船溜まりのロープ二重に巻き直せ! 吹き返しの風が南西から入ったら、潮見丸の舳先が岸壁に叩きつけられるぞ!」
「了解、親父さん! 今いく!」
波飛沫が防波堤を越えて飛んでくる中、丈二は太いナイロンロープを肩に担ぎ、波止場を全力で駆けた。
びしょ濡れの渚が、船首のビットに手鉤を引っ掛けて船体を引き寄せている。
「渚、ロープよこして! 僕が留める!」
「足場滑るから気をつけてよ!」
渚から渡された太ロープを、丈二は素手で巻き取った。
波に煽られて数トンの船体が外洋へ引っ張られる。並の人間なら腕の筋を断裂しかねない凄まじい荷重がかかるが、丈二は足裏の魔力でコンクリートと靴底を吸着させ、腕の筋肉を微弱な魔力で補強してグイと引き戻した。
滑らかに八の字結びを決め、岸壁の係船柱へがっちりと縛り上げる。
「ふう……これで潮見丸は大丈夫だ」
「あんたのバカ力、こういう時だけは本当に頼りになるわね」
渚が雨合羽のフードを押さえながら、肩で息をして笑った。
「失礼だな、僕はいつでも頼りになるパーフェクトガイだよ」
「はいはい。早く番屋入るわよ、雨が本降りになる前に!」
二人が番屋の事務所へ転がり込んだのとほぼ同時に、バケツをひっくり返したような豪雨がトタン屋根を叩き始めた。
事務所の中では、茂吉ら漁師たちがラジオの気象情報を囲んで神妙な顔をしている。
「中心気圧九百三十ヘクトパスカルだとよ。こりゃあ今夜半から明日の昼にかけて、直撃コースだな」
「定期船はすでに欠航決定だ。次の便まで丸一週間は船が入らねえぞ」
「冷凍コンテナの電源、予備発電機に切り替えといた方がいいな」
島民たちにとって、台風は文字通りの孤立を意味する。停電や断水は日常茶飯事であり、外海は大時化で海保の巡視船すら近づけなくなる。
びしょ濡れの合羽を脱いだ渚が、ふと思い出したようにスチール机の引き出しを開けた。
「あ、そうだジョージ。これ、昨日本土から届いてた郵便物。役場の人がついでに持ってきてくれたのよ」
「僕宛て? 通販の注文書かな」
「違うわよ。なんか妙に仰々しい封筒。……これ、英語じゃない?」
渚から差し出されたのは、上質で厚手の紙に深い真紅のインクで刷られた、見慣れぬ紋章入りの封筒だった。
中央にはエンボス加工で刻印された、見慣れた文字。
――『Massachusetts Institute of Technology』。
「……Oh.」
丈二の喉が小さく鳴った。
差出人欄には、先端研究プログラム運営事務局の文字。封を切るまでもなく、中身の正体に心当たりがあった。
「……渚、これ、いつ届いたって?」
「昨日の午後の連絡船。あんたがカフェの戦利品眺めてニヤニヤしてた裏で届いてたのよ。何なのよこれ、英語ばっかりで読めないんだけど」
丈二は息を呑みながら、慎重にペーパーナイフで封を切った。
中から現れたのは、格式高い書体で印字された一枚のレターヘッド。
『Dear Mr. Joji Totsuho,
We have completed our evaluation of your submitted research paper regarding causal-structured computing and non-linear electromagnetic wave control...』
「……なんて書いてあるのよ?」
恐る恐る覗き込んでくる渚に、丈二は青ざめた顔で書類を握りしめた。
「……研究論文の審査結果通知、兼招聘状だ」
「招聘状?」
「僕が去年の冬、前世の魔導回路の基礎を現代の微細半導体と波動力学の架橋理論として論文形式にまとめ、MITが主宰する国際オープン懸賞論文に応募したやつだよ。……もし向こうの研究陣が理解できれば、物理学と工学の境界を塗り替えるはずだった論文だ」
「で、どうなったのよ?」
「……本気で食いつかれちゃった」
「はあ!?」
渚の叫び声に、ラジオを聞いていた漁師たちが一斉に振り返る。
「食いつかれたって、何がよ!?」
「『提出された論考を極めて高く評価した。理論モデルの詳細について本学研究者との直接面談および合同プレゼンテーションを強く希望する。渡航費・滞在費はすべて本学側で全額負担する。なお、将来的に本学学部課程へ正式出願を行う場合、本件の実績を極めて有利な研究活動記録として扱う』……って書いてある」
事務所が静まり返った。
豪雨がトタン屋根を叩く轟音だけが響く中、渚の眉間がギリギリと吊り上がっていく。
「あんた……昨日、あたしに『アメリカには行かない』って言ったわよね?」
「い、言った! 言ったよ! 進路調査票も『都内私立大学・秋葉原まで三十分』に書き直した! だけどこれは、それより数ヶ月も前に僕が出した論文への返事なんだ! 国際郵便のタイムラグで、今になって届いただけだよ!」
「全額大学持ちで、アメリカの超一流大学から直接お呼び出し……?」
「そ、そう書いてあるね……」
丈二が引きつった笑みを浮かべた瞬間、背後から凄まじい殺気が膨れ上がった。
茂吉がパイプ椅子をギシギシと鳴らしながら立ち上がり、手にした缶コーヒーの空き缶を素手でグシャリと握り潰した。
「……ジョージ。お前、やっぱり島を出てメリケンへ行く気だったのか?」
「親父さん、違うんだ! これは過去の僕の知的好奇心の残骸で……!」
「渚を置いて海を渡る気か!?」
「置いていくなんて言ってない! むしろボストンでアパートをシェアしようって提案して平手打ちを食らったのは僕の方で……」
「アパートシェアぁぁっ!? 高校生が異国の地で同棲だとぉぉっ!!」
茂吉の怒声が屋根を突き破らんばかりに響き渡った。
「だ、誰が同棲するかバカ親父ぃぃっ!!」
渚が真っ赤になって怒鳴り返し、机の上の伝票バインダーを掴んで丈二の顔面へ投げつけた。
バチコォォン! と顔面で直撃を受け止めた丈二は、鼻血を垂らしながら両手を広げた。
「Wait, please calm down!! 僕は行かない! 行かないって決めたんだ! これは合格通知ですらなくて、ただの面談の呼び出しだよ! 秋葉原の深夜アニメと限定グッズを手放してボストンへ行くなんて、僕の価値観が許さない! この手紙はただの紙屑だよ!」
「本当でしょうね!?」
「本当さ! 東京までは飛べても、ボストンまで一万キロ以上あるんだぞ! 北米大陸まで飛べるほど僕の魔力ゲートの航続距離はないよ!」
必死の弁明に、茂吉たちは「……まあ、本人がそう言うなら」と渋々椅子に戻った。
だが、渚だけは疑わしげなジト目を崩さないまま、赤い封筒を丈二の手からひったくり、スチール机の引き出しの奥深くへと乱暴に押し込んだ。
「この紙は台風が過ぎるまでアタシが預かるわ! あんたがフラッとメリケンへ飛ばないように見張ってやるからね!」
「飛ばないよ! 僕は生涯、東京都民として秋葉原のカルチャーに骨を埋める覚悟だ!」
そんな怒号とドタバタがようやく落ち着き、夜の帳が下りた頃だった。
ガララッ! と番屋の引き戸が激しい勢いで開いた。
ずぶ濡れのレインコートを着た診療所の若い看護師が、息を切らして事務所へ転がり込んできた。
「茂吉さん! 渚ちゃん! 大変、おじいちゃんが……!」
「えっ……!? じいちゃんが!?」
渚の顔から血の気が引いた。
神黒島診療所――元腕利き漁師であり、島の生き字引でもある渚の祖父・潮見源三が、激しい胸と背中の激痛を訴えて倒れたのだ。
茂吉と渚、そして丈二が吹き荒れる暴風雨の中を駆け抜けて診療所へ飛び込むと、ベッドの上で源三が苦悶の表情を浮かべ、荒い息を繰り返していた。傍らでポータブルエコーのモニターを睨んでいた老医師が、険しい顔で振り返る。
「……急性大動脈解離だ。上行大動脈に偽腔ができている。いつ破裂してもおかしくないスタンフォードA型だ」
「なっ……!?」
茂吉が絶句した。
急性大動脈解離――心臓から全身へ血液を送るもっとも太い大動脈の壁が裂ける、一刻を争う致死的な疾患。島のような設備のない僻地では、緊急の開胸人工血管置換術を行わなければ、数時間以内に死に至る確率が跳ね上がる。
「先生、本土へ搬送は……!」
「東京の大学病院にホットラインを繋いだ。心臓血管外科の手術チームが待機してくれている。……だが、台風だ」
医師は窓の外を打つ狂乱の雨を指差した。
「八丈島からの防災ヘリも自衛隊機も、この暴風域では離着陸不能で飛べない。海保にも要請を出したが、最寄りの大型巡視船でも、この時化では神黒島へ着くのは明日の昼過ぎになる。……それまで、源三さんの血管は絶対に持たん」
「そんな……! じいちゃん……!」
渚が祖父の手を握りしめ、その場に崩れ落ちた。
ベッドの上の源三は、脂汗を流しながら、弱々しく愛孫の頭を撫でようとする。
「渚……泣くな……。海で生きてきた男だ、畳の上で逝けるなら……上等だ……」
「嫌だ! 逝かないでじいちゃん! 誰か……誰か助けてよ……!」
外では時速百キロを超える暴風が吹き荒れ、雨が窓ガラスを割らんばかりに叩きつけている。
絶対の孤立。絶海の檻。誰もが絶望に顔を覆う中――。
カチリ、と静かな音が診療所の処置室に響いた。
丈二が、無言で濡れた上着を脱ぎ捨てていた。
その瞳から、いつもの軽薄なオタクの光は完全に消え失せていた。
冷徹なまでに研ぎ澄まされた、前世の大魔法使いの光。
「……ジョージ?」
涙に濡れた顔を上げた渚に、丈二は静かに告げた。
「神黒島から都内の受入病院のヘリポートまで、直線で約一千キロ。対気速度三百キロ――追い風に乗れば三時間を切る」
「な、何言ってるのよ……!? 外は台風のど真ん中なのよ!? 風速三十五メートル、波だって十メートルを超えてるのよ! じいちゃんを抱えて飛べるわけないでしょ!」
「じいさんを直接風に晒すわけがないだろう」
丈二は源三の横へ歩み寄り、ベッドのフレームに手を置いた。
「気圧差、風圧、振動、低温。すべてを遮断する完全密閉の多重結界でじいさんを担架ごと球体に包み込む。内部の気圧と酸素濃度は一定に保ち、僕の魔力ゲートで牽引しながら飛ぶ。……波頭がどれほど高くとも、海面反射と高度計で安全マージンを取りながら高空へ抜ければ接触のリスクはない」
「で、でも……あんたの身体は!? 一千キロもの暴風雨を逆風と突風の中で飛び続けたら、あんたの魔力だって……!」
「渚」
丈二は渚の肩を優しく、しかし力強く抱き寄せた。
「僕の身体を守るこのスーツは、誰が縫ってくれたと思う?」
「……え?」
「神黒島で一番の仕立て屋が、僕のために作ってくれた最高傑作だ。どんな嵐だろうと、このスーツが僕の熱と命を繋ぎ止めてくれる。……君の技術を、君自身が疑ってどうするんだい?」
渚の息が止まった。
至近距離で見つめ合う丈二の瞳には、一切の迷いも恐怖もなかった。
ただ、渚の大切な家族を絶対に生かして東京の手術台へ届けるという、鋼の意志だけが燃えていた。
「……バカジョージ」
渚は震える手で丈二の胸板を強く押し、涙を袖で拭った。
「……じいちゃんを死なせたら、あたし、一生あんたを許さないからね。……あと、あんたが無事に戻ってこなかったら、もっと許さないんだから!」
「約束するよ。じいさんを手術室へ放り込んだら、すぐに戻ってくる」
丈二は白い歯をこぼすと、指を鳴らした。
(『交換収納』――セット!)
瞬きひとつの間に、高校生の姿は漆黒の防護スーツへと切り替わった。
顔面を覆う認識阻害の光の屈折膜。
丈二が両手を広げると、源三の横たわる担架全体が、淡く輝く蒼白い魔力の球体――完全生命維持結界によってすっぽりと包み込まれた。担架にかかる重力がふわりと中和され、空中に浮遊する。
「親父さん、窓を開けてくれ!」
「……ジョージ、頼んだぞ!」
茂吉が歯を食いしばりながら診療所の非常口を開け放った。
猛烈な風雨が室内に吹き荒れる。
球体の結界を従え、漆黒の男は嵐の夜空へと一気に飛び出した。
荒れ狂う太平洋の闇を切り裂き、神黒島から東京へ――命を繋ぐ一千キロの超長距離緊急搬送が、幕を開けた。




