第6話:密室の解析官たちと、消える航跡
都心某所、防衛省の地下深く。
外の喧噪とは完全に遮断された合同情報分析室の空気は、稼働し続ける高性能ワークステーションが吐き出す排熱と、冷え切った缶コーヒーの匂いで澱んでいた。
巨大な壁面マルチディスプレイには、東京湾とその周辺海域の電子海図、そして過去二回にわたって観測された「未確認特異飛翔体」――世間が『キャプテントーキョー』と騒ぎ立てる対象の航跡データが、鮮烈な蛍光色のラインで投影されている。
長机を囲んでいるのは、航空自衛隊のレーダー管制担当幹部、海上保安庁の警備救難部情報課長、そして防衛装備庁から招集された航空宇宙工学の主任研究官たちだった。
「……もう一度、最初の事案から洗う」
腕を組み、眉間に深い皺を刻んだ初老の空自佐官が、手元のタッチパネルを操作した。
「初観測は先週土曜の午前八時過ぎ。東京湾口へ南方海域から単独侵入した目標だ。対気速度はおよそ百六十ノット――時速約三百キロ。三浦半島沖の地上レーダーサイト、および警戒監視中の護衛艦レーダーがこれを捕捉した。……ここまではいい。問題はその直後だ」
画面上の航跡がズームアップされる。
滑らかな直線を描いていた光の軌跡が、ある一点で不自然に途切れていた。
「追尾モードへ移行し、電波照射のパルス密度を上げた刹那――目標が消失した。消失前の加速度、急激な変針の兆候は一切なし。そして直後の走査周期において、複数系統のセンサー上に、予測進路から真横へおよそ四百メートル離れた超低高度、海面すれすれの記録が残されている」
「計器のエラーやゴーストの類ではないのか?」
海保の課長が怪訝そうに問う。
「単一サイトの不具合なら片付きますが、異なる方位のレーダーでほぼ同一の不連続データが拾われています」
防衛装備庁の若い研究官が、眼鏡を押し上げながら乾いた声で答えた。
「中間の空間を通過した物理的痕跡が確認できない、あまりに不自然な座標飛びです。……さらに厄介なのは、この跳躍直後の挙動です。海面高度十数メートルまで降下したことで、海面の波浪反射のノイズに紛れ、追尾アルゴリズムの処理が完全に成立しなくなっている。結果として、我々の追尾網から綺麗に姿を眩ませた形です」
「米軍の極秘ドローン、あるいは最新の電子戦ポッドを積んだ特殊滑空体という線は?」
「それも否定的です」
研究官が首を横に振り、キーボードを叩いて別のグラフを展開した。
「第二事案――房総半島沖での海保ヘリ事故時のデータです。現場に居合わせた巡視船の光学赤外線カメラ、およびフェリー乗客のスマートフォン映像を高解像度解析しました。……熱源反応を見てください」
ディスプレイに表示された赤外線サーモグラフィの画像に、室内の全員が息を呑んだ。
青白い背景の中、人型の輪郭だけがぼんやりと浮かび上がっている。
「人体相当の表面温度しか検出されていません。ジェットエンジンの高温排気なし。ロケット推進の燃焼炎なし。タービンや排気ノズルに相当する高熱部が一切存在しないんです。時速三百キロで水平飛行し、空中でピタリと静止ホバリングを行い、さらに十トン級のヘリコプターの落下エネルギーを相殺して着艦させる……これを現代の航空推進工学で実現しようとすれば、メガワット級の動力源と、それに伴う膨大な熱放出が不可欠です。だが、この物体からは推進機関に由来する高温排熱が一切観測されていない」
「……物理法則が、成立していないと?」
「ええ。既存の推進工学の常識では説明がつきません」
研究官は険しい表情でディスプレイを指差した。
「さらに奇怪なのは、海保ヘリを救助した際の挙動です。ヘリのスキッドが空中の一点に接触した瞬間、空間に目に見えない多重の力場が形成され、垂直落下ベクトルが極めて滑らかに水平方向へと変換されている。まるで、空中に目に見えないスロープを数十枚、ミリ秒単位で編み上げたかのような……」
「馬鹿馬鹿しい」
空自の佐官が吐き捨てるように言った。
「世論の半分が言っている『魔法使い』だとでも言うつもりか? ここはオカルトの研究所ではないぞ」
「オカルトと切り捨てるのは簡単ですが、現場の搭乗員たちは現に生還しています」
海保の課長が静かに口を挟んだ。
「パイロットの証言によれば、機体が何もない空中に乗った瞬間、激しい衝撃は一切なく、まるで巨大な手のひらに受け止められたかのように滑らかに着艦甲板へ導かれたとのことです。そして去り際、あの男は英語でこう言い残した」
スピーカーから、巡視船の音声記録が再生される。
『You guys are lucky today! Safe landing!』
軽妙で、どこか悪戯っぽく、しかし寸分の淀みもないネイティブの英語。
「……発音の母音体系、イントネーションから解析した結果、北米標準英語です。加えて、対象の飛行特性と横須賀周辺での出現状況から、米軍系の試験要員や特殊部隊関係者の可能性も検討しましたが――在日米軍司令部への非公式照会では、向こうも完全にパニックになっていました。『我が国の機密ではない、もし詳細が分かったら即座に全データを共有しろ』と、国防総省レベルで血眼になっています」
室内に、重苦しい沈黙が落ちた。
正体不明の超常的存在。軍事衛星も、防空レーダーも、最新の赤外線センサーも、その実体を何一つ掴めていない。
「……発進地点の割り出しはどこまで進んでいる」
佐官の問いに、レーダー解析官が慎重に手元の資料を繰った。
「それが……第一事案、第二事案ともに、レーダーで最初に捉えられた侵入角とドップラー速度から、進入ベクトルの逆算を行いました。この二本の航跡を南へ延長していくと、発進地点は間違いなく南方海域――伊豆諸島から小笠原諸島へと連なる広大なライン上に収束します」
画面上の太平洋の地図に、二本の細い点線が南へ向かって伸びていく。
しかし、線は特定の地点を結ぶ前に、広大な青い海原のただ中で徐々にぼやけて途切れていた。
「……特定はできないのか?」
「はい。対象が超低高度を飛んでいる時間が長く、水平線と地球の丸みの影響で、南方の遠距離では完全にレーダー網の網目をすり抜けています。伊豆・小笠原方面のどこか、という大まかな方角までは絞り込めますが、点在する島々のうちのどれかなのか、あるいは洋上の艦船や偽装母船から発進しているのかまでは、現行のデータだけでは到底断定できません」
「南方海域か……」
海保の課長が腕を組み、唸るように息を吐いた。
「伊豆諸島から小笠原にかけては、有人の島だけでも十以上、無人島や岩礁を含めれば無数に存在する。さらに太平洋の重要航路が交差する広大な海域だ。そこを起点にされているとすれば、捜索範囲が広大すぎる」
「だが、東京臨海部までは直線で数百から一千キロ近い距離があるぞ。単独の人間が往復できる距離ではないはずだ」
「その『人間』が、時速三百キロで飛び、レーダーの前で忽然と姿を消しているんです。一般的な航続距離の常識で測ることは危険です」
研究官の言葉に、室内には再び張り詰めた空気が漂った。
「……方針を整理する」
空自の佐官が重々しく口を開いた。
「現時点で自衛隊が表立って部隊を動かすことはできない。世論への刺激が大きすぎる。だが、南方からの進入経路に対する警戒レベルは引き上げる。周辺の定期哨戒任務と連動させ、南方空域の監視資産を重点配分する。三浦半島をはじめとする沿岸サイトには、不連続な微小目標の検知フィルターを更新して備えさせろ」
「海保側も、伊豆・小笠原海域を航行する巡視船に対し、通常哨戒の名目で南方島嶼部周辺の不審な飛翔体や高速艇の動向に目を光らせるよう通達を出します」
「よし。……奴が何者であれ、次に来るときは必ず捕捉の精度を上げる。レーダーから消える瞬間を、全波長・全方位から捉え直すぞ」
巨大なスクリーンの上、広大な太平洋の南方海域を示す円形の警戒エリアが、静かに点滅していた。
国家の防空と治安を担う中枢の監視の目が、広大なる海の彼方へと、着実に向けられようとしていた。
――その頃。
広大な南方海域の片隅に浮かぶ神黒島、潮見丸の番屋では。
「おいジョージ! 次はコンビニの『からあげクン』のレッド頼むぞ! 小銭はここに置いとくからな!」
「親父さん、だから僕はパシリ便じゃないんだってば……!」
国家中枢の極秘分析対象となった男は、生臭い網干し場の片隅で、十円玉の山を前にして頭を抱えていた。v




