第10話:台風一過の来訪者と、ガバガバ推理の脅威
台風が去って二日。神黒島には、何事もなかったかのように南国の穏やかな陽射しが戻っていた。
慶應病院へ運ばれた渚の祖父・源三も、開胸手術の経過は極めて良好で、ICUから一般病棟へ移ったとの一報が届いていた。
青く澄み渡る潮見港の船着き場では、定期連絡船がエンジン音を響かせて接岸し、欠航で滞留していた物資の荷降ろし作業が慌ただしく進んでいる。
番屋の事務所では、全身の筋肉痛がようやく引いてきた丈二が、畳の小上がりで冷茶をすすりながら、新刊のラノベをめくっていた。
隣の机では、渚がミシンを踏んでいる。
「……渚、スーツの修繕、本当にありがとう。あの嵐のせいで、肩の継ぎ目がだいぶ擦り切れちゃってたみたいで」
「礼ならファミチキを十個買ってきてから言いなさいよ。……まったく、あんたの無茶に付き合わされるアタシの身にもなりなさいよね」
口ではぶっきらぼうに毒づきながらも、渚の針の進め方はどこまでも丁寧だった。
二人の間には、命懸けの夜を越えた者同士の、静かで心地よい空気が漂っていた。
だが――その平穏は、けたたましい足音と耳障りな甲高い声によって無残に叩き割られた。
「うわーっ、マジで何もない! 電波立ってる!? みんな見てるー!? 『絶海チャンネル』のダイキです! ついに来ちゃいました、東京から南へ一千キロ、絶海の孤島・神黒島!」
自撮り棒の先にスマートフォンを固定し、テンション高く喋りまくる派手な蛍光色のウインドブレーカーの男。その後ろから、三脚と機材ケースを抱えた冴えない風貌のカメラマンが、船酔いで顔を青くしながらフラフラとついてくる。
定期船のタラップから降りてきた観光客ゼロの島に、絵に描いたような迷惑系インフルエンサーの出現だった。
「……なんだあれ」
丈二が本から目を離し、怪訝そうに眉をひそめた。
「YouTuberね。たまに物好きなのが本土から来るのよ。島民百人ちょっとの島で大声出されたら迷惑極まりないんだけど」
渚がミシンの手を止め、忌々しそうに吐き捨てる。
しかし、その男――ダイキがスマホの画面へ向けて放った次の言葉に、事務所の中の空気がピシリと凍りついた。
「リスナーのみんな、準備はいいかい!? 今、日本中を揺るがしてる世紀の謎――東京湾のスーパーヒーロー『キャプテントーキョーベイシティ』! その正体と秘密基地が、なんとこの神黒島にあるんじゃないかっていう激ヤバなタレコミを検証しにやってきましたー!!」
「……ぶっ!?」
丈二は口に含んでいた冷茶を豪快に噴き出した。
「ゴホッ、ゲホッ……! な、何だって……!?」
「ちょ、ジョージ汚い!」
渚がティッシュを投げつけるが、その顔も一瞬で真っ青に染まっていた。
「な、なんで……!? 防衛省のレーダー網だって巻いたはずでしょ!? なんでこんなペラペラな金髪男が島を特定してんのよ!?」
「わ、分からない……! 僕の航跡計算に致命的なエラーがあったのか……!?」
二人が戦慄する中、ダイキは事務所のガラス戸を乱暴にガラリと開け放った。
「ちわーっす! ちょっと取材いいすかー!?」
土足で踏み込んできそうな勢いのダイキを、奥から出てきた茂吉が仁王立ちで睨みつける。
「あんだテメエは! 勝手にズカズカ入ってくんじゃねえ!」
「あ、すんません! 僕、登録者三十万人の動画配信者でして! 島長さんか漁協の偉い人います? ちょっと聞きたいことがありましてー!」
ダイキは臆することもなく、胸を張ってスマホのカメラを事務所内へ向けた。
「単刀直入に聞きます! この島に、米軍の極秘基地、あるいは謎の研究所ありますよね!?」
「……あぁ?」
茂吉が目を丸くする。
丈二は冷や汗を滝のように流しながら、背後の物陰で息を潜めた。
(まさか、国家の秘密機関がYouTuberを偽装して潜入調査を……!? どんな高度な情報解析で神黒島に辿り着いたんだ……!?)
ダイキは勝ち誇った笑みを浮かべ、タブレットを取り出してホワイトボード代わりに画面を提示した。
「見てくださいよこれ! 僕の独自推理です!」
画面には、ネットの怪しいまとめサイトの切り貼りと、歪んだ日本地図が描かれていた。
「まず第一に! キャプテントーキョーベイシティが東京湾に現れる時刻! 第一弾は午前八時半、第二弾は午後二時過ぎ! これ、新幹線の始発や飛行機の国内線ダイヤじゃ説明がつかない! だが、南方の島から時速三百キロで一直線に飛べば、ちょうどこの神黒島からの距離感にジャストミートする!」
(……ぐっ、それは事実だが……!)
「そして第二! 慶應病院に現れたときの証言! 『ただの東京都民さ』と言い残した! 東京湾の事件だから都民なのは当たり前? ノンノン! わざわざ自称するってことは、逆に『都民に見えない場所から来ている』という強烈なアイデンティティの裏返し! つまり、住所は東京都だが本土ではない離島……伊豆・小笠原諸島の一角であることは論理的必然!」
(……う、嘘だろ、そんな精神分析みたいなガバガバな理由で……!?)
「そして極めつけはこれだ!!」
ダイキはビシィッとタブレットの画面をスワイプした。
そこに表示されたのは、SNSのダイレクトメッセージのスクリーンショットだった。
「僕のチャンネルに届いた、慶應病院の研修医を名乗るアカウントからの極秘タレコミDM! 屋上で患者を受け取った時、紹介状が入ったビニール袋の中に、なぜかファミチキの空き袋が紛れ込んでいた! しかもそこには、油性ペンでこう書かれていたっていうんですよ!」
ダイキは得意満面にメッセージを読み上げた。
「『本人の確認も取らずに、ボストンで一緒に暮らす前提で話を進めません。渚へ』――!!」
「……」
静寂。
事務所の中の時間が、完全に停止した。
「……渚」
丈二が幽霊のような掠れ声で囁いた。
「……何よ」
「僕……袋に『渚へ』って書いたっけ?」
「……書かせたわね。アタシが、きっちり名指しでね」
「……Oh, Jesus Christ.」
丈二は両手で顔を覆い、魂が抜けたように天を仰いだ。
「そこから先は僕の独壇場ですよ!」
ダイキは鼻の穴を膨らませて捲し立てた。
「『渚』という名前、そして『ボストン』! 海外留学や進路に絡む二十歳前後の若い女性! さらに離島の医療搬送! 東京都の島々の自治体広報PDF、漁協の記念誌、小中学校の古い学校だよりを死ぬ気でネットサーフィンしました! その結果……神黒島の広報アーカイブで、十年前の『潮見丸進水式』に写る看板娘の『渚ちゃん』を発見! さらに慶應へ運ばれた急患の苗字も『潮見』! すべてが一本の線で繋がったんですよーっ!!」
防衛省の早期警戒網を完璧に撹乱し、台風の暴風雨を一千キロ突破した大魔法使い――その拠点候補は。
神棚から流用された反省文の空き袋、軽率なタレコミDM、そして三流ネット民の執念の雑なOSINTによって、神黒島まで絞り込まれていた。
「さあ観念してください潮見渚さん! そしてそこに隠れてる兄ちゃん!」
ダイキがスマホのカメラを丈二へと向ける。
「あなたたちの背後にいる『キャプテントーキョーベイシティ』の開発組織はどこですか!? 米軍ですか!? それとも防衛省の極秘バイオ兵器なんですか!? 全国三十万人のリスナーに向けて、白状しちゃってください!」
(まずい……! カメラを止めなければ……!)
丈二が焦燥に駆られ、飛び出そうとした――その時だった。
ドゴォォォンッ!!
地鳴りのような轟音とともに、スチール机が真ん中からへし折れんばかりに軋んだ。
茂吉の太い拳が、ダイキの突き出したスマートフォンのわずか一センチ横に叩き込まれていた。
「……ひっ!?」
ダイキの悲鳴が喉で詰まる。
茂吉は煙草の煙をダイキの顔面へゆっくりと吹きかけると、鬼瓦のような形相でその胸ぐらを鷲掴みにした。
「……おい、小僧」
「ひ、ヒィ……!」
「人の島に土足で上がり込んできて、うちの娘の名前をネタにして、バイオ兵器だぁ? ああん?」
腕立て伏せを一日数百回こなす漁師の腕力が、ダイキの身体を軽々と宙へ持ち上げる。
「じいちゃんが死にかけで慶應へ運ばれて、家族全員が生きた心地もしなかったって時に……ネットの再生数稼ぎだと? 親父の命をオモチャにしにきたのか、てめえは!」
「ち、違っ……僕らはただ、真実を追究するジャーナリズム精神で……!」
「ジャーナリズムだかジャガイモだか知らねえがな!」
ガラガラッ! と引き戸が開き、番屋の周囲を取り囲んでいた屈強な漁師たちが、手鉤やタモ網を手にしてズラリと姿を現した。
「茂吉の親父! 本土から不審者が入ったってのはこいつか!?」
「神黒島で勝手に撮影回そうって不届き者はどこのどいつだ!」
「ヒィィィッ! ご、ごめんなさい! 悪気はなかったんです! 動画消します、消しますからぁぁッ!」
ダイキは泡を吹いてカメラを下げ、カメラマンとともに床に正座してガタガタと震え上がった。
その横で、カメラマンが青ざめた顔でスマホの画面を覗き込み、震え声で呟いた。
「だ、ダイキさん……そもそもここ、電波が一本も立ってなくて……港で船を降りた瞬間から配信、完全に圏外エラーで落ちてます……!」
「えっ……!?」
「島に繋がってすらいないです……端末の中に録画データが残ってるだけです……!」
その一言に、物陰で息を詰めていた丈二と渚は、心底胸を撫で下ろした。
神黒島の脆弱極まりない通信インフラが、奇跡的に国家機密の防波堤となっていたのだ。
三十分後。
波止場の突堤で正座を続けるダイキに対し、茂吉が腕を組んで最後通告を叩きつけていた。
「いいか。慶應にじいさんを運んでくれたのは、東京の海保の特殊ヘリ部隊だ。台風の目の中を命懸けで飛んでくれたんだよ。チキンの袋はその隊員さんが、泣いてる渚を励ますために置いてってくれた差し入れのゴミだ。……端末の録画もDMの履歴も目の前で全部消せ」
「は、はいぃぃっ! 今すぐ完全消去します! 全部僕の思い込みでした、二度と動画にしません!!」
必死に端末のフォーマットボタンを連打したダイキが、涙目で周囲を見回し、情けない声で縋り付いてきた。
「あ、あの……! データは全部消しました! もう今すぐ本土に帰りたいんですけど、今日の帰りの船は何時ですか……!? あと、泊まれるホテルとか、せめてコンビニやファミレスの場所を教えてもらえれば……!」
その懇願に、茂吉は心底呆れたように鼻を鳴らした。
「あぁ? 何寝ぼけたこと言ってやがる。連絡船はさっき出たばかりだ。次の定期船が来るのは――来週の日曜、一週間後だぞ」
「い、一週間後ぉぉっ!?」
「この島にホテルや旅館なんてもんがあるわけねえだろ。コンビニもスーパーも、食堂の一軒すらありゃしねえよ」
「えっ……じゃ、じゃあ僕たち、今日から一週間どこで寝泊まりして、何を食べれば……!?」
ダイキとカメラマンが絶望に顔を歪めて抱き合う。
茂吉は指をポキリと鳴らし、番屋の裏手を親指で指し示した。
「番屋の資材小屋に敷くゴザと古毛布なら貸してやる。メシを食いたきゃ、毎朝四時に起きて港のマグロの血抜き槽のヘドロ掃除と、破れた刺し網の修繕を死ぬ気で手伝え。働いた分だけ、白飯と魚のアラ汁は分けてやる」
「ヘ、ヘドロ掃除……!?」
「嫌なら外の砂浜で野宿してサメの相手でもしてろ。……いいか、一歩でも港の外に出て島民の家に近づいたり、余計な撮影機材を触りでもしてみろ。次の船まで網干し場に逆さ吊りにして干物にするからそう思え」
「ひ、ヒィィッ! 働きます! 何でもやりますから干物にしないでくださいぃぃッ!」
泣きながら平伏するダイキたちを見届け、丈二と渚は事務所の窓からそっと溜息をついた。
「……ふう。親父さんの怒号と、島の圏外事情に救われたね」
「あんたが迂闊に反省文なんて残すからでしょ! バカジョージ!」
渚が肘鉄を丈二の脇腹にめり込ませる。
「いてっ! でもこれで、少なくともダイキが持ってた録画と資料は潰せたよ。配信も最初から落ちてたみたいだし、しばらくは外に広がる心配もなさそうだ」
「……だといいけどね」
渚は溜息をつき、繕い終えた漆黒のスーツを丈二に手渡した。
「ほら、直ったわよ。……もう変な名前書いたり、余計な証拠残すんじゃないわよ、キャプテントーキョーベイシティくん」
「だからそのタワマンネームで呼ぶのはやめてくれ……! 僕はウィザード派なんだ!」
夕暮れの潮見港。
波止場の端で鼻水をすすりながら重いデッキブラシを握らされるYouTuberを横目に、丈二は新しく縫い直されたスーツの感触を確かめながら、静かに息を吐いた。
科学と魔術、そして世論とネット社会。
絶海の孤島でオタクライフを守り抜く戦いは、どうやら台風よりも遥かに厄介で、長く険しいものになりそうだった。




