第3話:買い物ついでに人命救助
午前八時三十五分。
東京湾の海面は、朝靄の残る灰白色の膜を張り詰めたように凪いでいた。
海面すれすれ、わずか十数メートルの高度を時速三百キロで滑空する丈二の視界には、すでに羽田沖の誘導灯と、その向こうに立ち並ぶ東京臨海部の高層ビル群がくっきりと捉えられていた。
秋葉原の旗艦店で限定フィギュアの整理券が配られるのは、午前九時ちょうど。
(あと二十五分……! 秋葉原近くの人気のない路地裏まで一気に低空で飛び、即座に『交換収納』で私服へ戻って走れば――間に合う!)
勝利を確信し、口元を緩めたその瞬間だった。
右手の視界の端、川崎人工島『風の塔』から少し離れた海域に、不自然な白波と黒煙が上がっているのが見えた。
「……ん?」
動体視力を魔力で底上げし、焦点を合わせる。
波間に浮いていたのは、全長七、八メートルほどの小型プレジャーボートだった。船尾エンジンとおぼしき区画から激しい白煙が吹き上がり、船体はすでに右舷側へ大きく傾斜している。船尾付近で何かを激しく損傷したらしく、引き波を浴びるたびに浸水が進み、船首のわずかな乾舷にしがみついている釣り客風の男たち三人が、今にも完全に海へと放り出されそうだった。
「助けてくれぇぇっ!」
「誰か! 誰かいねえのかよ!」
ちぎれ雲の下、海風にかき消されそうな悲鳴が、魔力で研ぎ澄まされた丈二の鼓膜に届く。
腕時計のデジタル表示を見る。
――午前八時三十八分。
「Oh, Jesus Christ!! なんで今なんだ!」
丈二は天を仰いで絶叫した。
ここで高度を上げ、救助に首を突っ込めば、九時の整理券配布にはどう足掻いても間に合わなくなるリスクが一気に跳ね上がる。先頭集団に並べなければ、限定二百個のシリアルナンバー入りフィギュアは海の藻屑ならぬオタクたちの戦利品となって消滅するのだ。
(見なかったことにするか? いや、ダメだ。あそこは東京湾の航路筋から外れた浅瀬の航行禁止区域寄りで、潮の引きが極端に速い。あと二分で完全にひっくり返る!)
神黒島で叩き込まれた一本釣りの経験が、冷徹なまでの危険予測を脳裏に叩きつけてくる。
この潮流であの位置に放り出されれば、大型船の引き波に呑まれて海底へ引きずり込まれるか、消波ブロックの隙間に吸い込まれる。海保の巡視艇が通報を受けてから駆けつけるのでは、到底間に合わない。
「Damn it!! 買えなかったら転売屋から倍額で買ってやるさ……!」
丈二は歯噛みしながら進路を右へ急旋回させた。
漆黒のスーツを風圧で唸らせ、海面を滑空しながらボートへ向かって急降下する。
ボートの上では、すでにパニックが頂点に達していた。
「おい、沈むぞ! 海へ飛び込め!」
「バカ言え、足がつかねえんだぞ! ロープに掴まれ!」
「うわぁぁっ、船が……!」
バシャアァン! と巨大なうねりが船尾を打ち据え、ボートの船底が完全に天を仰いだ。三人の釣り客が同時に海中へと投げ出され、冷たい海水と油の臭いが混じった飛沫が吹き上がる。
その直頭上へ、音もなく黒い影が舞い降りた。
「Stay calm!(落ち着け!)」
海面すれすれでピタリと慣性を殺してホバリングした丈二は、海面で溺れかけている一番手前の男の襟首を掴んだ。
潮見丸で四十キロ超のマグロを毎日素手で受け止めている腕力に、魔力強化を上乗せする。男の体重など羽毛ほどの重さも感じない。
(一人目――転移座標、あそこの防波堤!)
百メートルほど離れた東京湾防波堤のコンクリート上を指定し、掴んだ男ごと魔力を励起。
――『短距離転移』!
空気がパチンと弾けるような乾いた音とともに、丈二の姿が一瞬で掻き消え、防波堤の上へと男を降ろした。
「ひいっ!? え、な、何!?」
「Stay there!(そこにいろ!)」
男が目を見開いて腰を抜かす間に、丈二は再び転移で海面へ戻る。
二人目の男が沈みかける寸前、そのライフジャケットの帯を掴んで即座に再転移。防波堤の上へ並べて放り出す。
そして三人目。転覆したボートのスクリューに足の裾を引っ掛け、逆さ吊りで海水を飲みかけていた最後の男の元へ跳び、引きちぎるようにして拘束を外すと、三人全員を防波堤の上へと揃えた。
救助開始から、わずか八秒足らずの出来事だった。
「げほっ! ごほっ……! え……? お、俺たち……?」
防波堤の上で海水を吐き出しながら、男たちが呆然と周囲を見回す。
さっきまで波に呑まれていたはずの海面は遥か下方にあり、自分たちは足元の硬いコンクリートの上に座り込んでいた。
そしてその目の前、朝靄の海風を背に受け、漆黒のスーツを纏った人影がすっと空中に浮いていた。
顔の表面には影のような揺らぎがかかり、目鼻立ちは判別できない。だが、その引き締まった肉体と、背中にスラスターもプロペラも持たない異様なシルエットは、現代のどんな救助隊ともかけ離れていた。
「あ、あんた……誰なんだ……? 人間……なのか……?」
震える声で尋ねる釣り客に、丈二は左手で腕時計を確認した。
午前八時四十一分。
(まだだ! ここから直行なら八時五十分台には着ける……!)
丈二は白い歯をこぼし、前世の癖が染みついた滑らかな発音と身振りで、右手の親指をグッと立ててみせた。
「You're all safe now. Have a nice day!(もう安全だよ。良い一日を!)」
言い残すや否や、丈二の身体は風を切り裂いて急上昇した。
ドォッ、と防波堤に突風を残し、漆黒の影は臨海部の高層ビル群の隙間へと、信じられない速度で飛び去っていった。
取り残された三人の男たちは、口をあんぐりと開けたまま、その去り際の空を見上げることしかできなかった。
「……おい」
「な、何だったんだ……今の……?」
「跳んだり、消えたり……まるで、魔法みたいじゃねえか……」
その十分後。
秋葉原のメインストリートから一本入った、電気街の薄暗い路地裏。雑居ビルの室外機が唸りを上げる狭い隙間に、黒い影が音もなく滑り込んだ。
着地と同時に、右手の指をパチンと鳴らす。
(『交換収納』――解除!)
瞬きひとつの間に漆黒のスーツと認識阻害の膜がアイテムボックス内へ格納され、現れたのは、ヨレた白Tシャツに履き古したジーンズ、そして背中にリュックを背負ったどこにでもいる冴えない高校生の姿だった。
「ハァッ……ハァッ……! 間に合え……! 間に合ってくれ……!」
路地裏から飛び出し、スマホの時計を睨みながら雑踏を全力疾走する。
午前八時五十八分。
ホビー旗艦店の前には、すでに百五十人ほどの猛者たちが整然と長蛇の列を作っていた。
「整理券の配布列、こちらで最後尾になりまーす! 走らないでくださーい!」
店舗スタッフのメガホン越しの声を聞きながら、丈二は滑り込むようにして最後尾のプラカードの前に飛び込んだ。
「ハァ……ハァ……! 整理券、まだありますか!?」
「はい、大丈夫ですよ! 百八十二番になります。こちらをお持ちになって、十時半の開店時に再度お越しください!」
手渡されたのは、薄いプラスチックの番号札。
――『182』。
「……Yes!!」
丈二はその場にへたり込みそうになりながら、神黒島の漁仕事で鍛えた拳を天に向けて小さく突き上げた。
勝ったのだ。一千キロの太平洋を越え、防空レーダーの追尾をかわし、不意の海難事故に巻き込まれながらも、彼は己のオタクとしての使命を完遂した。
(見たか親父さん、見たか渚……! 東京都民の執念を舐めるなよ……!)
大満足の笑みを浮かべる丈二は、まだ気づいていなかった。
彼が立ち去った直後の東京湾で、海保の巡視艇と警察ヘリが蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、近くを航行していたフェリーの乗客が撮影した動画が、すでにネットの海へと放流され始めているという事実に。




