第2話:渚の仕立て屋と瞬間変身システム
神黒島の夜は、海に沈むようにしてやってくる。
街灯など数えるほどしかない港の裏手、潮見丸の網干し場を兼ねた倉庫の奥には、裸電球がひとつだけ吊り下がっていた。風が吹き抜けるたびにフィラメントが揺れ、土間一面に広げられた黒い布地の上に長い影を落とす。
「……あんた、正気で言ってるの?」
パイプ椅子に腰掛けた渚が、手にした竹尺でパチンと自分の膝を叩いた。
「時速三百キロで海の上を飛ぶ? しかも東京まで一千キロ? バカも休み休み言いなさいよ。そんな速度で風を浴び続けたら、普通の服なんか一瞬で引き裂かれて全裸で太平洋に墜落よ」
「だからこそ、プロの仕立て屋たる君の腕を見込んで頼んでいるんじゃないか、渚」
丈二は悪びれもせず、白い歯を見せてウインクした。
足元に無造作に転がされているのは、艶消しの深い黒色をした見慣れぬ反物だった。光を当てても反射せず、指先で撫でると信じられないほど滑らかで、それでいて鋼鉄のような張力としなやかさを秘めている。
「……で、この生地はどこから出してきたのよ。島の手芸屋にも、本土のカタログにもこんな変な繊維載ってないわよ」
「それは企業秘密、あるいは前世の遺産とでも言っておこうかな」
丈二の胸の奥――肉体ではなく魂そのものに紐づけられた固有の亜空間『アイテムボックス』。大魔法使いとして天寿を全うした際、魂の道連れとして持ち越してしまった異世界の魔獣素材や古代織物が、いまだに手付かずのまま眠っている。耐熱性、耐摩耗性、さらには魔力の浸透性に至るまで、現代の炭素繊維やアラミド繊維をはるかに凌駕する超高機能素材だ。
「触ってみればわかるだろう? 極薄なのに防風性は完璧、しかも刃物でも切り裂けない。これなら時速三百キロの暴風を受け続けて体温を根こそぎ奪われることもないし、僕の肉体を確実に守ってくれる」
「はいはい、相変わらず説明のつかないことばっかりね」
渚は大きなため息をつきながら立ち上がると、首にかけていたメジャーを両手に構えた。
「脱ぎなさい」
「……えっ?」
「採寸するから上着脱げって言ってんのよ! 猛烈な風圧に耐える服を作るのに、ダボダボのサイズで作れるわけないでしょ! ミリ単位で詰めるわよ!」
「Oh, レディの前で脱ぐのは紳士として少し照れるな……」
「あんたの裸なんて赤ん坊の頃から見飽きてるわよ! ほら、腕上げて!」
渚がメジャーを丈二の胸板に回す。
引き締まった筋肉の凹凸をなぞるように、冷たい指先が肌に触れた。至近距離から漂う、潮風と石鹸が混ざり合った渚の匂い。ふと顔を上げた渚の大きな瞳と視線が真正面からぶつかり、渚の動きがピタリと止まる。
耳の先端が、夕焼けのようにみるみる赤く染まっていく。
「……な、何よ。じっと見ないでよ」
「いや、渚の真剣な横顔はいつ見ても絵になるなと思ってね」
「黙れ筋肉ダルマ! 息を吸うな! 胸囲が狂うでしょ!」
ゴツン、と額に竹尺を落とされ、丈二は苦笑いしながら天井を仰いだ。
作業が進むにつれ、丈二のオタクとしての暴走が顔を出し始めた。
「なあ渚、せっかくだから背中に漆黒のマントを付けないかい? こう、闇夜を裂いて飛翔するときにバサバサと棚引くような……」
「却下。風圧で首が絞まって死ぬわよ」
「じゃあ、胸元に黄金のドラゴンの紋章を刺繍するのは?」
「ダサい。職務質問で即座に連行されるわよ。余計な凹凸は全部風の抵抗になるの。あんたが欲しいのはコスプレ衣装じゃなくて、命を守る飛行具なんでしょ」
渚の判断は、過酷な海の上でロープと風を相手にする漁師の娘らしく、冷徹なまでに合理的だった。
無駄な装飾は一切削ぎ落とされ、身体のラインに吸い付くようなスマートなボディスーツへとデザインが収束していく。首元までを覆うスタンドカラー、手首と足首を密閉するガスケット構造。色留めには島で古くから使われている植物染料が試され、夜間飛行でも月光を乱反射しない漆黒のトーンへと仕上がっていった。
渚が足踏みミシンと前世の特殊針を格闘させている間、丈二もまた手元で別の工作に没頭していた。
作業台の上に並べられているのは、壊れたスマートフォンの残骸、通販で取り寄せた広帯域アンプ基板、そして真鍮の極細ワイヤーを編み込んだアンテナ。
「ジョージ、あんた何やってんの? さっきから半田ごてで煙出して」
「自衛のためのセンサー作りさ。僕が飛ぶ高度と速度は、現代の航空管制やレーダー網の領域にどうしても引っかかる。特に本土へ近づけば、民間の航空路だけじゃなく、自衛隊や米軍の監視レーダーが太平洋に向けて目を光らせているからね」
丈二は細いピンセットで、米粒ほどの水晶発振子を基板へハンダ付けした。
前世の大魔法使いの知識と、現代の電子工学の融合。
レーダー波とは、特定の高周波パルス電波だ。大気中を飛来する電波を受信し、その周波数とパルス密度を監視する。広帯域RF受信回路に前世の微小な探知魔術式を組み込み、レーダー波の受信強度をリアルタイムでモニタリングする簡易的な電波警戒装置――いわゆるRWR(Radar Warning Receiver)の自作だった。
「空を飛ぶ人間を、レーダーが探すの?」
「最初は鳥か小型ドローンとして処理されるだろうね。ただ、時速三百キロで一直線に東京湾へ向かう反応があれば、監視側は『捜索モード』から追尾を疑わせる照射パターンへと切り替えてくる可能性がある。その変化を察知できなければ、本土に着いた瞬間に大勢の警察や自衛隊に出迎えられる羽目になる」
スーツの襟元、首筋に当たる内側へ、小型バイブレーターとともに極小の警戒モジュールを縫い込んだ。
追尾を疑わせる照射パターンへ変化した瞬間、首筋に鋭い振動が走り、網膜上へ微弱な魔力で警告インジケータを投影する仕組みだ。
「……あんた、本当に高校生なの?」
渚が心底呆れた目で眉をひそめる。
「通信制高校の優秀な生徒だよ。レポートはもう全部終わらせたしね」
「はいはい。ほら、できたわよ。着てみなさい」
差し出されたスーツは、息を呑むほど完成された工芸品だった。
漆黒の生地は丈二の身体にしなやかに馴染み、関節の可動域を一切妨げない。前世の魔法素材と、渚の確かな縫製技術が完璧な調和を見せていた。
丈二は姿見の前に立ち、自身の魔力回路をスーツへと接続した。
まずは『局所認識阻害』。顔面の表面数ミリの空間に微細な光の屈折膜を張る。肉眼で見れば単なる「少し影になった顔」にしか見えないが、監視カメラや高精度レンズを通せば特徴点が完全に拡散し、デジタルな顔貌解析を無力化する目くらましだ。
そして、最も重要な機能。
(『交換収納』――セット完了)
丈二が指を鳴らすと、刹那の瞬きほどの間に漆黒のスーツが掻き消え、元のTシャツとデニム姿へと戻った。もう一度意識を通わせれば、一瞬で防護スーツが全身を覆う。
アイテムボックスを単なる物置としてではなく、身に着けている衣服とボックス内の装備を座標置換する「瞬間着替えシステム」。これなら、どれほど派手な格好で空を飛ぼうとも、着地した瞬間にただの冴えない高校生へと擬態できる。
「すごい……! 渚、完璧だよ! 風圧がまったく引っかからずにきれいに流れていくし、着心地も最高だ!」
感激のあまり、丈二はスーツのまま渚の両手を握りしめて抱き寄せた。
「きゃっ……! ば、バカ! 抱きつくなって言ってんでしょ!」
ドカッ、と腹に重い前蹴りを喰らい、丈二は軽やかに倉庫の壁際へステップして衝撃をいなした。
「ハハ、手厳しいね。だが君の仕立てのおかげで、勝率は百パーセントになったよ。……じゃあ、行ってくる」
「……ジョージ」
倉庫の跳ね上げ戸を開け、暗い夜の海風が吹き込んできたとき、渚がポツリと呼び止めた。
その瞳には、いつもの強がりの中に隠しきれない不安が揺れていた。
「絶対に落ちないでよ。……サメの餌になんてなったら、あたし、一生あんたのこと許さないから」
「もちろんさ。僕には秋葉原で買わなければならないものがある」
「そこはアタシのために無事に戻るって言いなさいよバカ!」
背中に飛んできた工具箱のスパナをひらりと躱し、丈二は倉庫の外、断崖の闇へと飛び出した。
神黒島の灯りが、またたく間に小さな光の点となって遠ざかっていく。
高度およそ八百メートル。夜の太平洋上空は、完全な漆黒と肌を刺す冷気の世界だった。
(展開――『魔力ゲート方式』)
丈二は胸の前で小さな魔力循環を起動させた。
大気中を流れる微弱な環境魔力が、展開された魔法陣のゲートを通り、安定した運動エネルギーへと変換されていく。背後から押し出されるような確かな加速感。
速度計代わりの風圧魔術が、対気速度を示す。
時速百キロ、二百キロ――そして、三百キロ。
身体を叩きつける時速三百キロの強風と容赦のない冷却は、渚が仕立てた漆黒のスーツによって滑らかに後方へと受け流され、前世素材の断熱層が体温を確実に閉じ込めていた。
(素晴らしい……! 体力の消耗がほとんどない! これなら東京まで一直線だ!)
眼下には、白く砕ける波頭の影。星明かりだけを頼りに、丈二は北を目指して夜空を滑空していった。
飛行開始からおよそ三時間。
遥か前方の水平線の上に、ぼんやりとした巨大な光のドームが見え始めていた。
首都圏の夜景だ。無数の人工の光が重なり合い、夜空の底を黄金色に焦がしている。
(着いた……! あれが、僕の目指していた本物の東京……!)
感涙にむせびそうになったその瞬間。
ジジッ――。
スーツの襟元、首筋に仕込んだバイブレーターが、鋭い振動を叩き込んできた。
同時に、網膜の右隅に投影されたインジケータが、青から鮮烈な警告の赤へと跳ね上がる。
(強い電波照射……! 周波数帯からして、地上か艦艇の捜索レーダーだ。東京湾口へ侵入したところで拾われたか!)
見れば、左手のはるか遠方、三浦半島の先端に横須賀の灯りが見える。
神黒島から一直線に北上してきた謎の飛行物体に対し、防空監視網が即座に反応したのだ。
ジジジジジッ――!
振動が連続音へと変わり、パルス密度が急激に跳ね上がる。
(まずい、追尾モードに移行した! 照射パターンが変わった……!)
時速三百キロのまま直線飛行を続ければ、数秒後には正確な高度と進路を割り出され、横須賀の米軍か自衛隊のスクランブル機が発進しかねない。
丈二は躊躇うことなく、右手の魔力回路を別の術式へと切り替えた。
(跳ぶぞ――『短距離転移』!)
視界が一瞬だけ白濁し、空間の座標が歪む。
パンッ、と乾いた空気の軋みとともに、丈二の身体は進行方向から真横へ四百メートル、同時に海面すれすれの超低空へと瞬間移動していた。
対気速度は時速三百キロを維持したまま、空間の連続性だけが断ち切られる。
追尾予測の線を強引にへし折り、生まれた一瞬の空白を利用して海面スレスレの波頭に身を沈める。
首筋の振動がピタリと止まった。
突然の不連続な座標跳躍によって追尾の予測進路から外れ、さらに低空へ潜り込んだことで、海面の波飛沫や雑音反射の渦に紛れ込めたようだ。
(ふう……追尾はひとまず切れたはずだ。自作のRWRがなかったら、今頃は大騒ぎになっていたところだな。渚のスーツも完璧に機能してくれた)
高度を海面数十メートルに保ち、闇に紛れながら東京湾の海面を滑るように進む。
目の前には、巨大な東京湾アクアラインの人工島、そしてその向こうに立ち並ぶ摩天楼の威容が迫っていた。
時刻は午前八時十五分。
整理券の配布開始まで、あと四十五分。
「待ってろよ、秋葉原……!」
少年は笑みを浮かべ、巨大都市の懐へと飛び込んでいった。




