第1話:東京都民の憂鬱、青い海を越えて
神黒島の夜明けは、鼻腔の奥まで焼きつくような塩気と、焼けた軽油の匂いから始まる。
水平線の向こう、丸みを帯びた大海原の縁からぎらつく太陽が顔を出すと、濃紺の海面は一瞬にして暴力的なまでの茜色へと塗りつぶされた。引き波が岸壁を洗うたびに、係留された十数隻の一本釣り漁船が、キシキシと錆びた鉄と濡れたロープの擦れ合う悲鳴を響かせている。黒潮のど真ん中に突き出た断崖の孤島には、風を遮る防波堤などあってなきがごとしだった。
「おい、ジョージ! ボヤボヤ突っ立ってんじゃねえぞ! 尾っぽが跳ねる、受け止めろ!」
怒号のような胴声とともに、氷の砕片が詰まった暗い魚倉の底から、ぎらりと銀色の腹を光らせた巨大なキハダマグロが跳ね上げられた。
目方にしてゆうに四十キロを超える肉塊だ。生々しい血飛沫を朝の陽光に散らしながら、放物線を描いて頭上から降ってくる。
「了解、親父さん! ノープロブレムだ!」
丈二は濡れて黒光りするゴム長靴の底を、苔むしたコンクリートの埠頭へぴたりと吸い付けた。
半歩踏み出し、両腕をしなやかに差し出す。
どすん、と重い衝撃が胸板を直撃した。並の高校生なら肋骨をへし折られてそのまま海へ転落しかねない運動エネルギーだったが、丈二の細身の輪郭は微動だにしなかった。皮膚の内側、骨格と筋繊維の微細な隙間へ走らせた極小の魔力波が、魚体の運動エネルギーを即座に分散し、足裏を経由して神黒島の分厚い岩盤の底へと逃がしている。
そのまま円を描くような足捌きで反転し、計量用の木製スノコの上へと音もなく横たえた。魚肌を傷つけず、内出血の一筋すら作らせない、熟練の仲買人ですら唸るほどの完璧な荷捌きだった。
「へっ、相変わらずバカ力だけは一人前だな。助かるぜ」
潮見丸の船長であり、神黒島で一番の一本釣り漁師でもある潮見茂吉が、汗にまみれた額をねじり鉢巻きで拭いながら白い歯を剥き出しにした。
「心外だなあ、親父さん。僕はシルクのドレスを扱うように丁寧に運んだつもりだよ。ただの力任せじゃない、僕の繊細な筋肉コントロールの芸術性を少しは褒めてほしいところだね」
「寝言は寝て言え、メリケン野郎」
漁師たちの下品な笑い声が港に響く中、少し離れた魚選別台の前に、青いナイロン前掛けを着けた小柄な影があった。
潮風に晒されて毛先がわずかに赤茶けた短い黒髪。日焼けした引き締まった手首を器用に動かし、氷漬けの魚をサイズごとに手鉤で手早く仕分けていく。その横顔には、島で生まれ育った者特有の無駄のない厳しさと、年相応のあどけなさが同居していた。
丈二は作業用の厚手軍手を脱ぎながら、軽やかなステップでその背後へと滑り込んだ。パーソナルスペースという概念を生まれつき持ち合わせていない前世の癖そのままに、ごく自然に肩のあたりへと顔を寄せる。
「Good morning, 渚。今日も朝日より眩しいね。君の完璧な手さばきを見ていると、早朝の重労働の疲れなんて吹き飛んでしまうよ」
「うわっ、出た……! 近っ! 近いのよバカジョージ!」
渚の肩が跳ね上がり、反射的に真横へ薙ぎ払われた右手が、絵に描いたようなフルスイングの平手打ちとなって丈二の頬を捉えた。
バチィィン! と早朝の港に銃声じみた乾いた破裂音が響き渡る。
魔力で肉体を強化しているため痛みなど欠片もないが、丈二の身体は物理法則を律儀になぞるように真横へダイナミックに吹き飛び、波止場に積み上げられていた使用済みの定置網の山へと吸い込まれていった。
ズザザザーッと網が雪崩を打ち、大量の乾燥した海藻の匂いが舞い上がる。
「Ouch... 相変わらず鋭いスイングだ。君の右フックなら、ラスベガスのリングでもチャンピオンを狙えるよ」
「朝っぱらから魚臭い格好でベタベタすんじゃないわよ! あとここは日本! 小笠原の神黒島! 挨拶で抱きつこうとすんな!」
渚が額に青筋を立てて手鉤を突きつけてくる。耳の付け根まで真っ赤に染まっているのは、怒りのせいばかりではないことを丈二は知っていたが、それを指摘すれば次は網の山ではなくサメの泳ぐ湾内へ叩き落とされるだけだ。
「おいおい渚、婿候補をそう手荒に扱うなよ。とつほのジョージがいなくなったら、うちの網揚げの人手が足りなくなっちまう」
船倉から顔を出した若い船乗りが囃し立てると、埠頭の男たちからドッと下品な笑いが上がった。
「だ、誰が婿候補よ! こんなオタク筋肉ダルマ、熨斗つけて太平洋に放り投げてやるわ!」
渚が真っ赤になって怒鳴り返す中、丈二は網の中からひょっこりと上半身を起こし、誇らしげに胸を張った。
「ダルマは余計だよ渚。僕は彫刻のような引き締まった肉体を維持している自負がある。それに、今日の働きで日当は満額支給のはずだ。僕の崇高なる作戦資金がまた一歩、現実へと近づいた」
丈二――本名、突保丈二。
島民から親しみを込めて、あるいは呆れを込めて「とつほのジョージ」と呼ばれるこの男の人生は、およそ十五年前、一つの致命的な誤解から始まっていた。
彼が前世の記憶を取り戻したのは、四歳の春のことだった。
最初の人生は、北米大陸で生まれ育った生粋の地球人、ジョージ。オタクカルチャーに狂熱しながら若くして事故死した男。
二度目の人生は、剣と魔法が支配する異世界の大魔法使い。数多の理論魔術を編み出し、天寿を全うして逝った男。
そして三度目の転生を果たしたこの島で、四歳児の丈二はある日、居間の隅でまだ現役だった古いブラウン管テレビの天気予報を眺めていた祖父の何気ない呟きを耳にしたのである。
『ああ、ここも東京都だからな。都知事選のニュースばっかりだ』
その瞬間、魂の深部に眠っていた前世の記憶が一気に奔流となって覚醒した。
(――東京都!? 僕が今いる場所は、あの東洋のメガロポリス、世界のオタク文化の心臓部、秋葉原を擁する東京都なのか!?)
歓喜のあまり幼い魔力が暴発し、身体が重力を無視して居間の天井までふわりと浮遊した。天井板に頭を擦り付けながら、四歳の丈二は両手を広げて涙ながらに絶叫した。
『I'm George!! God bless Tokyo!!』
両親と祖父母が卒倒し、島中の祈祷師と診療所の医師が呼び出される大騒動となったあの日から、彼は島民たちから「とつほのジョージ」と呼ばれるようになった。
だが、現実はあまりにも無慈悲だった。
小学校に入学し、社会科の授業で日本地図を開いた日の衝撃を、丈二は生涯忘れることができない。
教壇の教師が指し示した「東京都神黒島」の現在地。
それは、本州のはるか南、広大な太平洋のど真ん中にポツンと浮かぶ、ゴマ粒ほどの黒点だった。
(……Far... So far away...!!)
東京湾から南へおよそ一千キロ。
定期船は週に一便、片道で丸一日以上を要し、しかも波が高ければ容易に抜港される絶海の孤島。
住所の上では確かに「東京都」だが、彼が夢見ていた秋葉原は、水平線の彼方の彼方、絶望的な距離の海の果てにあったのである。
思ってた東京と違う――。
泣き濡れた少年時代を経て、高校生になった丈二が選んだのは、島を出る「島立ち」ではなく、ネット環境の整備に伴って利用可能となった広域通信制高校への進学だった。
中学校までしかない神黒島において、全日制高校へ進学することは、本土か父島へ渡って一人暮らしの下宿生活を送ることを意味する。だが通信制を選べば、島に残って実家と潮見丸の漁を手伝いながら、レポートを片付けるだけで高卒資格が取れる。
同じく家業の一本釣りを手伝うために通信制を選んだ幼馴染の渚とともに、二人は平日の大半を自由な時間として手に入れていた。
「おいジョージ、ひと息ついたら事務所で伝票まとめんだろ。茶でも飲め」
水揚げが一通り終わり、選別を終えた魚が冷蔵コンテナへ運び込まれるのを見届けた茂吉が、パイプ椅子に腰を下ろして湯呑みを差し出してきた。
「ありがとう、親父さん」
「それにしても、相変わらずいい潮の読み方をする。お前が指したポイントに船を出すと、外れがねえ。つくづく島に残ってくれて助かってるぜ。……なあジョージ、どうだ。たまには本土のコンビニの、あのずっしり重いつぶあんパンと濃い成分無調整牛乳が食いてえんだがよ。お前のその足で、ひとっ飛び行って買ってきてくれねえか?」
茂吉が手ぬぐいで首を拭きながら、白い歯をニッと剥いて冗談めかして言った。
周囲で煙草に火をつけていた漁師たちが、ドッと声を上げて笑う。
「おいおい親父さん! さすがにそれは無理だって!」
丈二は両手を振って大げさに肩をすくめてみせた。
「僕の飛行魔法は、島内か沖合の船に忘れ物を届けるくらいが限界だよ! 往復二千キロの太平洋なんて飛んだら、途中で魔力切れを起こしてサメの餌になっちゃうよ。僕を海の藻屑にする気かい?」
「ハハハ! そりゃそうだな、悪かった悪かった! 海の真ん中にコンビニはねえもんな!」
「まったく、人使いが荒いよ。僕の神聖な浮遊能力をなんだと思ってるんだ」
苦笑いを浮かべて茶をすすりながら、丈二は渚のいる番屋の事務所へと向かった。
潮風に錆びたトタン屋根の事務所の中では、小型の扇風機が首を振りながら生ぬるい風をかき回している。スチール机の上には、渚のノートパソコンと山積みの伝票が置かれていた。
「お疲れ、渚。レポートの進み具合はどう?」
「英語以外は終わったわよ。……ねえ、これ何なの? なんで主語の後ろに動詞が来るのよ。日本語の順番で話しなさいよメリケン人は」
「ハハ、言語の構造に怒っても仕方ないよ。貸してごらん、僕が翻訳のコツを教えてあげる」
丈二が自然な動作で渚の横に椅子を引き、肩が触れ合う距離で画面を覗き込むと、渚は小さく「ひゃっ」と息を呑んで体を硬直させた。
「ち、近いって言ってんでしょ……!」
「ソーリー、画面が小さくてね。……うん、この程度の課題なら、僕の解説を聞きながら三十分で片付くよ。その代わり、少しだけパソコンを借りてもいいかい? 新製品の予約開始時刻なんだ」
「またフィギュア? あんた本当によく飽きないわね……」
呆れ顔の渚からマウスを受け取り、丈二はブラウザのタブを切り替えた。
画面に映し出されたのは、彼が今期もっとも熱を上げているダークファンタジー作品の限定フィギュアの特設ページだった。
精密に造形された漆黒の鎧、翻るマント、細部まで再現された魔法陣のディテール。
そして、太字で躍る非情な告知。
『――店頭販売限定。秋葉原旗艦店にて、今週末午前九時より整理券配布開始。通販対応なし。転売防止のため、本人確認を実施いたします――』
「……What the hell...」
丈二の口から、低く濁ったネイティブの呟きが漏れた。
「店頭……限定だと? 通販なし……? 定期船の入港は来週の火曜日……それでは整理券どころか、残骸すら残っていない……」
「諦めなさいよ。どうせ島に届く頃にはプレミア価格でネットに出回るんでしょ」
渚が冷めた声で麦茶をすする。
だが、丈二の瞳の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
魂の奥底、前世の魔法使いとしての矜持と、現代のオタクとしての渇望が、激しく火花を散らす。
(……待てよ)
丈二は事務所の窓の向こう、果てしない太平洋の水平線を見つめた。
(親父さんはさっき、冗談で言った。だが……本当に不可能なのか?)
高校生になり、身体の成長とともに魔力回路は完全に定着した。筋力と骨格を補強する身体強化はすでに無意識下で維持できる。
問題は、片道一千キロを越える長距離飛行における「魔力消費」と「持続時間」だ。
従来の飛行魔法は、自身の体内魔力をダイレクトに噴射・変換して揚力と推進力を生み出す。この方式では、どんなに節約しても百キロ程度で体内魔力が底を突き、海へ墜落する。
(魔力を燃料として直接消費するから破綻するんだ。……そうじゃない。現代の電子工学はどうだ?)
丈二の脳裏に、物理の教科書に載っていた素子の構造が閃光のように閃いた。
(トランジスタだ。小さな入力で、はるかに大きなエネルギーの流れを制御する――!)
前世の異世界には存在しなかった、現代地球の制御理論。
大気中には、薄いながらも自然の環境魔力が広く分布している。
自分の体内魔力をすべて推進力に変えるのではなく、自身の魔力は極小の「制御信号」としてのみ展開し、展開した魔法陣を制御素子として機能させ、飛びながら周囲の環境魔力を少しずつ取り込み、推進力へと変換する。
名付けるなら――『魔力ゲート方式』。
瞬間的な爆発力には制限があるが、飛びながら周囲のエネルギー収支を釣り合わせる巡航飛行なら、自身の魔力消費を極小に抑えたまま、時速三百キロ前後の巡航を数時間単位で維持できる。
計算は成立した。
現代科学の論理と、異世界の魔導工学が、脳内で完全に噛み合った。
「渚」
「何よ、急に真面目な顔して」
丈二は椅子から立ち上がり、決意に満ちた瞳で水平線を指差した。
「僕、今週末に秋葉原へ行ってくるよ」
「はあ!? 船は出ないわよ!?」
「飛ぶんだ」
「……あんた、本当にサメの餌になりたいの!?」
叫ぶ渚を背後に残し、丈二は埠頭の端へと走り出していた。
まずは実験だ。
島周回路での旋回テスト、そして沖合数キロ、数十キロへと徐々に飛行距離を伸ばしていく。
東京都民としての正当なる権利――秋葉原の限定品を手に入れるための、壮大なる太平洋横断計画が、いま幕を開けようとしていた。




