魔人を名乗る男
先行するナギの気配を追って、俺たちは森の奥を駆けていた。
どのみち敵には見つかっている。隠密行動に意味はない。ナギの合図を頼りに、男の背を追って木々の間をすり抜けていく。
走るたびに木の幹が太くなり、光がさらに薄くなる。森の深部のさらに奥へ――。
やがて前方の気配が変わる。木々の太さはそのままに、密度だけが薄くなり、視界が急に開けた。
「……広場?」
思わず口からそう零れる。なぜならそこは、崖に面した不自然な空間だった。
木々を伐採したというより、根こそぎ抉って拓いたような空間だった。切り株一つ残っていない。広場となっている中央には石を積み上げた祭壇のようなものがある。黒ずんだ石の表面に、見覚えのない紋様が刻まれていた。
脇には粗末な小屋まで建っている。野営地というには妙に整っていて、祈祷所というには意匠の一つもなく不自然にすぎる。
――だが、一つだけはっきりしていることがある。ここが敵の拠点だ。
さらには空気が違うことに気づく。森の湿った匂いの下に、もう一層、別の何かが混じっているような……。
焦げたような、甘いような、嗅いだことのない匂い。それによって鼻の奥がじんと痺れる感じがした。
その祭壇の中央で、黒衣の男が俺たちを見ていた。
「へぇ」
男が口の端をつり上げる。
「あの騎士の男か? バーゲストを足止めしてるのは。……まさか、そんな人間が存在するとはね」
明らかに軽い口調だった。それに……俺たちを見下すような視線だ。
自分に及ばない相手を面白がり、おちょくるのが当たり前だと信じているような声だった。
こいつにとって、あの化け物は切り札であると思い込んでいたが、この様子だとそんなことはなさそうだった。
俺たちに追跡されて、この拠点のような場所が露見することさえ……些事であるということか?
だが、奴が何を考えていようと関係ない。俺は俺のなすべきことをするだけだ。
剣を構えて叫ぶ――。
「お前は何者だ!?」
両隣ではハルトとリゼがいつでも踏み込めるように重心を落とし、エステルは支援のために杖を握り直している。
トビーも荷を降ろし、ハンマーへ手を掛けていた。ナギは奴の横に回るようにして、少しずつそのたち位置を変えながら移動している。
――六対一。
数だけ見れば圧倒的なはずだ。なのに、喉の奥がきゅっと締まる。この男の前に立つと、数の優位が何の慰めにもならない。そんな嫌な予感が浮かんでくる。
その予感が正しいことであるように――男は自身の不利を不利とも思っていないようだった。
「これから死ぬやつらに名乗る必要があるのか?」
そう言って、面倒くさそうに腕を振る。
直後――風が吹き荒れる。それはただの突風じゃない。空気が固まりになって、殴りかかってきた。
狙いはナギ。奴の背後に回り込もうとしていたナギに対して、一直線に叩きつけられる。
「っ!?」
ナギの身体が弾かれた。細い体が軽々と宙を舞い、そのまま大木の幹へ叩きつけられる。
背中から衝突する鈍い音が、腹の底に響いた。ナギの口から声にならない息が漏れ、そのまま根元へずり落ちる。
「ナギ!」
反射的に叫び、視線が向かう。
ナギの元に駆け寄りたいという衝動に体が突き動かされる――ことはなかった。足が……動いてくれない。
男の視線がこちらを向いている。その目の中にあるのは何なんだ? 殺意じゃない……あれは、無邪気な子供が虫を潰すかのような、そんな目だった。
「……っ、大丈夫……まだ、動ける。うぅ……」
ナギの声が、掠れて届く。
良かった! 意識はあるようだ!
しかし当然無傷では済まずに、地に手を突き、なんとか倒れないように必死だった。
男はその声に被せるように、ゆっくりこちらに向けて歩き出した。
「お前たち人間が使う魔法と比べてどうだい?」
奇妙な黒衣を揺らしながら、向かってくる。
その顔には余裕と優越――その二つが同居していた。
「僕にとっては、魔法なんて手足を振るえば出てしまうような当然の力なんだ」
さらに一歩。
足音は軽く、地面を踏む音がやけに小さい。なのに、その一歩ごとに空気が重くなっていく。胸を上から押されるみたいな圧だった。
誰も動けない。視線に縫い止められたみたいに、身体が硬い。
「だが、お前たちは違う。祈ったり、呪文を唱えたり、いちいちまだるっこしい。理解できたか? 絶望的な差というものを」
――正しい。この男の言っていることは正論だ。
精神操作や身体強化と違って、この男がしたような物理的な事象を引き起こす魔法には手順がいる。
俺も魔法で火を出すことができる。しかしそれは精神統一をして、やっとライター程度の火を指先へ灯すくらいだ。
魔法の師である母親のエレオノーラに火球の魔法を見せてもらったことがあるが、それには長い詠唱が必要だった。決して、こいつみたいに手足を振るうだけで使えるものじゃない。
――腕を一振り。たったそれだけで、ナギを殴り飛ばすような風魔法が発動した。
あれが魔法だと言うなら、俺たちが知っている魔法とは、もう別の何かだ。
男はにたにたと笑っていた。こちらを見下しているのが丸分かりだった。
「さて、理解できたかな? 魔人である僕と、ただの人との差をね」
――魔人。その言葉の意味は分からない。しかし、ただの虚飾ではないことは、誰の目にも明らかだった。
「と言っても、魔人の何たるかをお前たちは知らないか。この素晴らしい力を与えて下さった、あのお方のことも」
男は自己陶酔と、何者かに対する心酔が同居する表情で空を仰ぎ見る。その顔は祈りが実現し、天に対する感謝を捧げているかのようだった。
男には隙があり、逃げようと思えば今なら逃げられる。だが――。
視線を横に向ければ、まだ立ち上がることのできないナギがいる。彼女を見捨てて逃げるのか? そうすればナギは確実に死ぬ。
それに――こいつは俺たちを逃がすつもりは毛頭ないようだ。
空に向けていた視線を戻し、俺たちを見据えるその目には、獲物を前に舌なめずりをしているかのような色があった。
――なら、やるしかない!
恐怖は確かにある。――魔人? そんな得体の知れない奴と戦いたくなんてない。
でも、戦いから逃げることはできない。そのために俺は全員へ『勇壮』を飛ばした。
少しでも戦うための勇気を、心の奥からひり出すために! 身体と手から、この震えを吹き飛ばすために!
心だけは――折らせてはならない!
「こいつをここで倒さないと、私たちは終わりだ!」
叫ぶと同時に踏み込む。誰よりも俺が勇気を示す必要があるから!
――だが、それより早く地を蹴った者がいた。リゼだ。
それは身体操作を使った加速。低い姿勢から弾けるように飛び出し、一直線に男の首を狙う。剣先は過たず、間合いも完璧。踏み込みの音すら一拍遅れて届くほどの速度だった。
普通の相手なら、これで決まる。――けれど、終わらない。
「なっ……」
止まっている?
リゼの剣が、男の首へ届く寸前で、見えない何かに止められていた。
剣が空中で硬直し、金属同士がぶつかったような甲高い音が鳴る。
何か分からないが、何かがある。
その何かに遮られて、刃がそれ以上進まない。
リゼが渾身の力で押し込もうとしているが、一寸たりとも動かない。
「いい剣だ。それに腕もいい」
男が感心したように言った。
剣が首筋に迫っているのに、それに視線を軽く向けるだけで、瞬きすらしない。
「惜しいね。相手が人間ならこの一撃で終わりだったろうに」
そして、腕を振り上げ――風が爆ぜた。
至近距離からの直撃。衝撃波がリゼの全身を叩き、そのまま吹き飛ばす。
剣がリゼの手から弾き飛ばされ、宙を回転しながら地面に突き刺さった。
「リゼ!」
地面を転がりながらも、リゼはなんとか受け身を取っていた。
まともに食らっていたら全身の骨が折れていてもおかしくない衝撃だったはず。
おそらく咄嗟に後ろへ跳んで勢いを逃がしたんだろう。それでも、起き上がった時に口の端から血が筋になって流れていた。
「……まだ、やれます」
リゼは予備の短剣を抜き放ちながら、擦れるような声でそういった。
膝に手をつきながら、闘志はまだ消えずにいる。そして目だけは男を射抜いていた。
男は、そんなリゼを見て、楽しそうですらあった。
「今のを受け流したか。剣による防御と身体操作か? やるものだな」
首に斬りかかってきた相手に対して、褒める余裕まである。
まるで動じていない。こうなる確信があったということか。
「だが」
男が、こちらをゆっくり見回す。一人一人の顔を確認するみたいに、目が動いた。
「お前たちの攻撃が通用しないことは理解できたか? それに逃がすつもりもないぞ」
それは宣告。
ただ事実を言っているだけ。そう心から信じている声。
「素直に死んでくれると助かるよ」
その言葉が耳に届いた瞬間――背中に悪寒が走る。
ナギはまだ立てない。リゼは臨戦態勢を取っているが、ダメージは大きい。
こちらの攻撃は通用せずに、奴は腕を振るだけで人を吹き飛ばせる魔法を使える。
――ははっ……絶望的だなこりゃ。
戦力差は明白。
それでも――ここで諦めてしまえば、本当に全部が終わってしまう。
ハルトが隣で槍を握り直す音がした。ちらりと見れば、顔から血の気が引いてはいるが、目だけは鋭く男を睨みつけている。
「……やるんだろ。少しでも勝算がある――だから構えを解いていない」
そうハルトに言われて、自分でも改めて気づいた。
そうだ……絶望的だが、まだ絶望はしていない。
奴が普通と違う力があるとするのなら、俺だって特別な力を持っている。
「ああ。やるよ」
自分や誰かを犠牲にして逃げる?
そんな判断をするのは、全部を試してからでも遅くないはずだ。




