クラウスを信じて
バーゲストと呼ばれた魔獣が襲い掛かる。雄たけびを上げながら鋭い爪を振るい、隙あれば食い殺さんという勢いで――。
その圧倒的威容を見れば、俺たちではまるで歯が立たないのは確定的で、必ず殺される。
しかしそれは――クラウス以外の話だった。
「……ッ!」
クラウスが身を乗り出して正面からバーゲストを迎え撃つ。
自らも剣を抜き、さらに魔力の揺らぎのような力を今までの戦い以上に強く感じる。
不可視の魔剣――『夢想剣界』の全力を使い応戦する。しかし――!
「くっ! 硬い!」
分厚い毛皮と、その下にびっしり詰まった肉が不可視の斬撃を呑み込んでいた。
血は流れる。裂けた皮膚から赤黒いものが滲む。それでも、致命には届かない。表面を削っているだけだ。
逆に、バーゲストの爪と牙はクラウスとて喰らえば致命傷は確実。風を起こさんばかりの力と速さで振るわれる前脚。食い千切らんとする牙は常に命その物を狙ってきている。
人間なら、まともに受けた瞬間に終わる――そんな攻撃の全てを、クラウスはなんとか防いでいた。
見えない刃の結界が、爪を止め、牙を逸らし、化け物の肉体を浅くだが切り刻んでいく。
これがクラウスの本気なのか? あんな化け物と真正面からやり合えている時点で異常と言ってもいい。
でも、それは拮抗しているだけ。
ただの人間のクラウスと、あの巨体で機敏に動き回るバーゲストとでは、どれだけ体力に差があるのだろうか?
持久戦となった場合は、確実に不利! なら俺達が加勢するのか?
――駄目だ! あんな戦いの中に、入っていけるはずがない!
俺のマインドブロウを使うにしても、そんな隙なんて与えてくるはずがない。
くそっ! どうすれば……。
あまりのレベルの戦いに身動きが取れない中で――バーゲストの黄色い目が揺れる。獣の本能が何かを嗅ぎ取ったように、視線がすっとクラウスから外れた。
「――なっ!」
まずい、と思った時にはもう遅い。巨体が沈むようにして、こちらに来ていた。地面を蹴る音が腹に響く。
防戦一方だったクラウスが、急な制動を掛けたバーゲストに対応しきれずに迂回された。
狙われているのは――俺だ!
頭の中で、瞬間的に選択肢が浮かんでくる。
防ぐのは――無理だ。
受け流すのも――無理。
避けることは? ――できるはずがない。
爪が来るのか、それとも牙が来るのか――いや、どちらでも変わらない。
あの巨体がそのまま突っ込んでくるだけでも、人間なんてゴミみたいに吹き飛ばされる。
ありとあらゆる選択肢が一瞬で消えていく。防御も回避も全部消えて、そして最後に残ったのは、一つだけだった。
――マインドブロウで迎撃するしかない!
そう思った途端に、体は自動的に動いていた。
無意識に剣を前へ突き出しながら、今感じている感情を転化して、ありったけの恐怖を剣先に込める。
俺の剣なんて、バーゲストにとっては大した脅威でもないのだろう。――だが、それが明暗を分けた!
「――! ぐおおおぉおおおん!!」
バーゲストが前脚で地面を抉りながら急制動をかけ、体を傾けたまま大きく後退する。
そして俺達から距離を取り、鼻先が低く震えていた。あれは……明らかに、警戒している。
――危なかった……爪で攻撃されていたら、そこで終わっていた!
突進だったからこそ、爪ではなく牙による攻撃をせざるを得なかった。つまり、俺が舐められていたからこその攻撃だ。
そうなれば、奴の牙よりもこちらの剣の方が射程が長く、奴の頭部に剣を先に命中させることができる。
マインドブロウを効かせるのに一番有効なのは頭部だ。強烈な死の意識をそのまま返すことで、なんとか凌いだ!
「はっ……!」
息が漏れる。肺の底から、熱い空気が勝手にこぼれる。
本当に……紙一重だった。膝が笑い、分厚い頭蓋に剣先が弾かれたことによって、持ち手が痺れている。
「リーネ!」
皆の声が聞こえるが、その声に返事を返す余裕がない。助かったからと言って、状況は何も良くなっていないからだ。
バーゲストはまだ健在。クラウスが付けた傷はあれど浅く。体力もほとんど削れていない。
しかも、こちらの脅威をちゃんと測って狙いを変えてくる程度には賢い。クラウスから俺に標的を変えたのは、弱い方から潰すという判断のはず。
――はは……手強いってもんじゃないな。厄介すぎるぜ。
俺は息を整えながら、自分と仲間に『勇壮』を掛け始めた。
胸の奥で竦みかけた心を無理やり起こす。恐怖を抑え込めるように、致命の攻撃を受けても動けるように。
ビビったらまた、狙われる――。だからこそ、皆が勇気を持って戦う意思を持たないと、次は本当に仲間の誰かが死ぬ!
「……ぐるぅぅぅぅぅ!」
だからって、手はあるのか? 俺たちは戦えるのか?
バーゲストの目には深い警戒が宿り、俺とクラウスを交互に見ているが、俺の方はペテンもいいところだ。
戦えるとしても、俺たちの中ではリゼくらい……。俺とハルト、そしてナギでは力不足。エステルとトビーは論外だ。
――絶望的な戦力差。そんな状況で、俺たちを守るように立ち位置を変えながらクラウスが叫ぶ。
「この化け物は俺が抑える!」
――同時に、クラウスが踏み込んだ。
剣を抜き放ち、バーゲストへ真っ直ぐ突っ込んでいく。その背中には躊躇いがない。
「お前たちは、あの男を追え!」
黒衣の男は、俺たちが始末されると思っているのだろう。
すでにその背中は森の奥へと消えつつある。
ここにいても俺たちが役に立たないというのなら、クラウスにこの化け物を任せてあの男を追うべきなのか?
「――クラウス兄様! ここはお任せします!」
ここで判断を遅らせては駄目だ! 今できることをする!
俺たちがクラウスの助けになれない以上、ここにいても無駄であるのなら、あの男を追うほうがよほど意味がある!
「皆! 行くよ! ナギは先行して奴を追って!」
それだけ言って、走り出す。
音と気配から察するに、仲間たちも俺の後を付いてきて、今――ナギが俺を追い越し先行する。
そんな俺たちに狙いを定めるバーゲストの姿が視界に映るが、それは無視する。
――クラウスに任せると決めたんだ! 必ずあの化け物を押し留めてくれる!
剣戟の音が聞こえ始める。クラウスとバーゲストとの戦いがまた始まった。
すでに俺の目は森のさらに奥に消えていった、あの男にだけ向いている。
だから、最後にクラウスとすれ違う時も、視界の隅で戦う様子が朧げに見えただけだった。
そこで、最後に俺ができること思い立つ。それは――精神操作だ。
勇気をクラウスに与えるわけじゃない。バーゲストに恐怖を与えるのでもない。
マインドブロウ以外の精神操作なんて、大した出力はない。そんなものをバーゲスト相手に流したところで、戦局を優位にできるはずもない。
――なら、やることは一つ。クラウスに対する、絶対の信頼を!
この世界の兄に対して抱いた、想いそのものを、押しつけるようにして飛ばす。
意味があるかは分からない。戦術的には何の役にも立たないだろう。
それでも、そうしたかった。ここを任せると決めた以上、ただ走り去るだけじゃ嫌だった。
見えない魔力をそっと放る。言葉にならない感情だけが、背後のクラウスへ届くように願う。
その瞬間――背を向けて走り出したはずなのに、ふと胸の奥へ何かが触れた気がする。
熱とも違う。痛みとも違う。ただ、強くて、静かなもの。重い鉄の芯を胸の真ん中に差し込まれたみたいな、揺るがない感触。
――俺がこの程度の魔獣に引けを取るわけがない。
思わず息が止まる。
――手間取ることはあっても、必ず討伐してみせる。
それは声じゃなかった。
耳で聞いたわけじゃない。頭の中で誰かが喋ったわけでもない。ただ、胸の奥に意味だけが落ちてきた。言葉になる前の、もっと手前にある確信。
幻聴かもしれない。俺が都合よく作り出した幻かもしれない。
それでも……十分すぎる。
クラウスは勝つと――そう信じるには、それでこと足りた。
「リーネ! 奴をまだ追えるぞ」
「分かってる! 走るよ!」
ハルトの声に返しながら、俺はさらに足へ力を込めた。
背後ではバーゲストの咆哮と、見えない刃が化け物の爪と牙にぶつかり合うことで奏でられる、戦いの不協和音が鳴り響いている。
地面が震え、木が軋む。そんな次元の違う戦いが今まさに行われている。
それでも振り返らない。ただ――兄を信じるのみ。
俺たちにできることをするために。黒衣の男の背を追って、さらに森の奥へと駆けて行く。




