高級住宅街の湯
「今日はもう討伐はなし。だから……今から風呂、行かない?」
俺がそう言った瞬間、テーブルに突っ伏していたハルトが、のろのろと顔を上げた。
「風呂……?」
「しかも高級住宅街にあるやつだって。ギルドが手を回したらしい」
「は?」
トビーが、椅子から転げ落ちそうな勢いで身を乗り出す。
「高級住宅街って、あの貴族様が住んでるあそこか!?」
「そうだよ」
「オレらが入っていい場所じゃねぇだろ!」
その反応はもっともだ。エステルも、話を聞いた瞬間から露骨に落ち着かなくなっていた。
「ちょ、ちょっと待って。そういうところって、服装とか作法とか、色々あるんじゃないの?」
「あるみたい。態度がなってないと追い返されることもあるって」
「……平民が入れるの? 服装も作法も、どっちも無理じゃない?」
エステルは最初から諦めたように言った。横にいるナギは何も言わないが、目だけは明らかに泳いでいた。
「服装は平民の服でも、みすぼらしい格好じゃなければいいらしいよ。作法にしたって、私とリゼの後ろについて来るなら、従者って扱いにできるかな?」
「従者か」
その言葉を聞いて、ハルトはなるほどと頷いた。
「いいなそれ! リーネの従者ってことになれば、ただの平民と違って箔が付くぞ!」
まあ、こういう発想にはなるよな。
貴族の従者になるってのは、別に悪いことじゃない。貴族のお庇護下に入るってことでもある。
「リンデベルク家の息女であるリーネ嬢と守護騎士、リゼ・アイゼンヴァルトのお供って感じ? 形式上、リゼはまだ私の供廻りみたいなものだっけ?」
「リンデベルク家に仕えているということになっているはずです。なので、概ね間違いないと思います」
となれば、平民組は俺たちの従者扱いにできなくもないか。
「対等な形でパーティーを組んで、パーティー名までそれを表すようにしたのに。皆はそれでいいわけ?」
「いいだろそれで。リーネとリゼの性格はよく分かってるし、時と場合によっては従者扱いでも、エステルもそう思うよな?」
「兄さんの意見に賛成。リーネお嬢様に仕える女中? 下女? それとも僧侶? なんでもいいけど、面倒なことが起きたら守ってくれるんでしょ?」
「私も……リーネさんの従者ならいいよ」
「リーネ姉ちゃんの従者ねぇ……ま、悪くはないかな。荷役士としては、貴族相手に売り込みをかけることもある。となれば、その時に名のある貴族家に仕えていたとなれば、それこそハルトが言う以上の箔がつくってもんだぜ」
皆はわりと前向きだった。
「必要な時は従者扱いでいいでしょう。リーネなら、調子に乗ってパーティーの和を乱すようなこともないでしょうからね」
リゼの意見を聞いて、ならいいかと納得する。
「それなら私の従者扱いでいいか。最低限の身だしなみだけ整えれば、入れるはずだよ」
そんな話をしたあと、俺たちはギルドを後にした。
準備を済ませて高級住宅街へ向かう。
石畳は綺麗に掃き清められ、灯りは柔らかい。建物はどれも静かで、庶民の区域みたいに、あちこちから怒鳴り声や笑い声が飛んでくることもない。
さすがの俺も少しだけ背筋が伸びる。
「なんか……歩いてるだけで怒られそうなんだけど」
トビーが小声で呟く。
「静かにしろ。お前が一番怪しい」
「ハルトにだけは言われたくねぇよ!」
「俺は黙ってればまだそれっぽいだろ」
「どこがだよ!」
小声の言い争いに、思わず苦笑する。男連中はなんだかんだ余裕がある。それに比べたら、エステルとナギには若干の緊張が見られた。
やがて、目的の建物が見えてきた。
――大きい。だが、派手ではない。
石造りの上品な建物で、入口の周囲には余計な飾りが少ない。そのぶん、逆に格を感じる。
「ここ……?」
エステルが、ほとんど囁くように言う。
「……そのようです」
リゼがボルクから渡されていた簡易地図を見ながら答えた。
「じゃあ入ろうか」
受付へ向かうと、店の人間が一度こちらを見た。その視線に、平民組の背筋がぴんと伸びる。
「本日は、ギルドの慰安利用で」
俺がそう伝えると、受付係は俺の顔を見て、それからリゼへ視線を移した。
「お名前を」
「リーネ・リンデベルクです」
「リゼ・アイゼンヴァルトです」
その名を聞いた瞬間、相手の目つきがわずかに変わる。露骨、というほどじゃない。だが、変わったのは丸わかりだった。
「……どうぞ、ご利用ください」
その一言に、後ろで誰かがほっと息を吐いた。たぶんエステルだ。
中へ通されながら、トビーが小声で漏らす。
「……生きた心地しねぇ」
「びびりだなトビーは。リーネの従者なんだから胸を張ってればいいんだ」
「馬鹿か、ハルト? 従者が胸を張ってどうするんだ?」
そんな男連中の軽口を聞きつつ入っていくと、内部はさらに静かだった。
部屋ごとの個別浴槽に区切られているようで、大衆浴場みたいなざわめきはない。
「愛人との逢瀬にも使われるわけだね」
俺がそう言うと、エステルがぎょっとした顔になる。
「そういうところなの!?」
「声が大きいよ」
「あっ……ごめん」
エステルがしゅんとなってしまったが、うるさいのは厳禁だからな。
「別に気にすることないよ。個室だしね。そういう声は聞こえてこないはず」
そう言えば、エステルは顔をしかめながらも頷いた。
そこで何かを思いついたのか、ハルトが難しい顔で俺に話しかけてくる。
「今日は混浴はよしてくれ……普通に湯に浸かりたい」
「同感。リーネ姉ちゃんたちの裸は、休むには目に毒だ」
ハルトとトビーは、どうやら男同士で気楽に入りたいらしい。
さらにナギが遠慮がちに口を挟んだ。
「……私、男の人と一緒は、ちょっと……」
声は小さかったが、はっきりしていた。
「じゃあ分けようか。金はあるからね。個室を二つ借りよう」
ということで、男湯と女湯というくくりで部屋を借りる。俺たちは二手に分かれて、女湯にした部屋へ向かった。
脱衣所で服を脱ぎ、浴室へ入る。その瞬間、エステルが入口で固まった。
「……広っ」
「おお……」
ナギまで感嘆の声を漏らす。
石造りの床は湯気でほんのり霞み、浴槽は一つひとつが下手な宿の部屋より広い。湯には香料が入っているらしく、湯気に甘く柔らかい匂いが混じっていた。
「これ、風呂っていうより……なんだろうね」
「……すごい」
エステルとナギは圧倒されていた。
「……かなり金が掛かってますね」
どうやらリゼも同じらしく、わりと本気で驚いている。
「こりゃ凄い、貴族でもなかなかこういう風呂には入れないよ」
「……の割には、動じていないじゃない」
驚いている皆を無視して、体を洗うスペースで石鹸を使っていると、エステルから突っ込みが入る。
「これくらいは想像できるでしょ。驚くようなものじゃないし、私が一番乗りだね」
さっさと体を洗って、浴槽に沈む。
湯の温度は温めかな。でも、風呂に慣れていないエステルとナギにはこれくらいがいいだろう。
鼻腔をくすぐる匂いも相まって、かなりリラックスできそうだ。
「二人とも。固まっていないで体を洗って入りなさい」
「分かった」
「うん」
リゼにそう言われて、エステルとナギも体を洗う。それを俺は、ぼーっとしながら見つめていた。
――リゼの身体は見慣れているからいいとして、やはりエステルとナギも良い体をしているな。
二人とも、胸の大きさという意味では大したことない。エステルはぺったんこ寄りだし。
しかし――腰回りがいい。安産型か……。そこには、女の持つ曲線美というものがあった。
さらには丸出しの下半身……それを見てムラムラ――は、今はさすがにしないけどな。
ここはハルトとトビーの意見に賛成だ。今は、こうして湯にゆっくり浸かるのが正義だぜ。
「あっ……いいお湯……」
湯に入ったエステルから、そんな声が漏れた。リゼとナギは何も言わないが、その顔つきから考えていることは同じだろう。
それからは無言だった。
熱すぎもせず、ぬるすぎもしない湯に肩まで沈めているだけで、張っていたものが少しずつほどけていく。
甘い香りの混じった湯気も心地いい。何も考えず、この温かさに身を預けているだけで十分だった。
どれくらい浸かっていたのか分からない。湯から上がる頃には、全員すっかり茹だっていた。普段は鉄面皮のリゼでさえ、顔が緩んでいる。
個室を出てロビーまで来ると、男連中はゆったりと椅子で休んでいた。ハルトが俺たちを見つけ、開口一番に言った。
「……天国だったぜ」
「分かる」
トビーまで真顔で頷く。
「……もうしばらく働きたくねぇ」
あまりに実感の籠った声だったが、単純な仕事量で言えばトビーが一番だろうからな。
「残念だけど、そうもいかない。森から魔獣を外に出すわけにはいかないよ」
「リーネ姉ちゃんは真面目だな……。オレだって分かってらぁ! 言ってみただけさ!」
そのやり取りで、緩んでいた気分が少しだけ現実に引き戻される。
こういうところは、冒険者っぽくなったなと感じるな。
風呂屋から出た後は、トビーと別れて、三羽雀亭へ戻る。
その頃には、すっかり日が暮れて、もう夜になろうという時間だった。
誰も彼も、少し眠そうにしている。
「この極楽気分も今日までか」
ハルトが欠伸混じりに言った。
「明後日からまた討伐だもの。準備もあるし、しょうがないわ」
エステルが残念そうな顔つきで、そうこぼす。
実際、明日は武具の整備や、ちょっとした連携の調整をする予定だ。休みとはいえ、本当の意味では休みとは言えない。
「それならなおのこと、今日は休むことを楽しもう。豪華な飯でも、マルタさんに作ってもらおう」
「賛成!」
俺の提案に、全員が賛同する。
休める時にこそ、大いに休む。それが、冒険者の在り方ってもんだろう。




