不可視の魔剣
南口を越えた瞬間、世界が変わった。
石壁に囲まれた中庭。その中央で、燻る焚き火と鍋が湯気を立てている。
干し肉を串に刺したものが鍋のそばに突き立ち、その周囲には粗末な毛布の寝床が点々と広がっていた。
ちょうど朝飯の最中だったのだろう。
七人、八人――いや、十人ほどか。無精髭と薄汚れた革鎧の男たちが、炊き上がったものを椀に盛ろうとしていた。
油断しきっているが、手の届く範囲には剣や棍棒が転がっている。
最初に俺たちに気づいたのは、焚き火の一番手前にいた男だった。
椀を手に持ったまま、目を見開き、間の抜けた声を上げる。
「なっ……!? 誰だ、てめえらは!」
鍋の周りの空気が、一気に固まる。ガタガタと音を立てて立ち上がる者、慌てて武器に手を伸ばす者。どれもこれも狼狽の色が濃い。
クラウスは一歩、また一歩と中庭を進んでいく。
俺は両手に投げナイフを構え、少し距離を開けてついて行った。俺の役割はクラウスの背中を守り、飛び道具を潰すことだ。剣を抜いて斬り込むことじゃない。
視野を広く。砦の全体を見る。
特に高い場所――歩廊の跡や、瓦礫が積み上がったところ。飛び道具が来るならまずそこだ。
とはいえ、クラウスを囲むような陣形を取られたら話は変わる。敵の位置関係をまるごと把握する必要がある。
言うは易く、行うは難し――だが、今の俺にはできる。
精神操作、『集中』と『冷却』を同時に掛けているからだ。恐怖も動揺も、いったん切り離した。戦闘に不要な感情はすべて後回し。
あるのは、クラウスの死角を埋めるという任務だけ。
風の流れ、焚き火の爆ぜる音、賊たちの荒い呼吸の一つひとつが、解像度の高い情報として脳に流れ込んでくる。
「騎士団の者だ」
クラウスが短く名乗った。
歩みは止めない。鯉口は切っているが、まだ抜いていない。
「街道で旅人を襲い、荷を奪い、人を傷つけた。その罪状は明白だ」
淡々とした声。だが、奥底に鉄の重みがある。
勧告の言葉は、クラウスにとって儀式みたいなものなのだろう。
やるべきだから、やる。それだけの、騎士としての義務にすぎない。
「下るなら今のうちだ。もっとも――縛り首だろうがな」
剣よりも鋭い一言が、砦に響く。
焚き火の爆ぜる音、鍋の煮立つ低い音、風が石壁を撫でる音だけが、しばし中庭を満たした。
――沈黙を破ったのは、奥の建物の入り口から出てきた男の声だった。
「はっ。たった二人で来やがったのか。騎士とはいえ自信過剰、しかも一人は小娘か? そんな戦力で俺達をやろうなんざ、片腹痛いってもんだな」
焚き火の向こう側。旧指揮所らしい石造りの建物から、一人の男が姿を現す。
他の賊とは明らかに空気が違う。立ち姿に隙がなく、腰の剣も一段上等。
こいつが頭目で――例の手練れだろう。
「やっちまえ! たった二人だぞ!」
怒鳴り声と同時に、凍りついていた空気が弾けた。
三人の賊が同時に武器を掴み、クラウスに殺到する。右からは剣、左からは棍棒、そして正面からは手斧。
クラウスは――流れるように剣を抜いた。
抜刀と踏み込みが、ひとつの動作だった。
右から突っ込んできた男が剣を振り下ろす前に、クラウスの刃がその胴を逆袈裟に裂いている。
敵は反応すらできていない。
一人目が崩れ落ちる前に、剣が翻る。流れるような袈裟斬り。
翻ったマントの残像を目が追っている間に、返す刃が左の棍棒の男の首筋を薙いだ。
三人目。手斧の男が踏み込んだ瞬間には、もう結果が決まっていた。
構え直した剣が最短距離を走り、男の喉を突き抜ける。
数秒の出来事――三人の賊の死体が、地面に転がっていた。
――速い。いや、速いなんて言葉じゃ足りない。
父アルベルトの太刀筋を思い出す。
あれだって十分に速かったが、これは別物だ。稽古ではない、本気の剣。
実戦で鍛え上げられた刃は、ここまで違うのか。
中庭に、血の匂いが広がる。
目の前で人が死ぬのは初めてのはずなのに、怖さも吐き気もこない。それも精神操作のおかげだ。
本来ならどう感じたのか……今は考えない。ただ、やるべきことをやる。クラウスの背中を守る。それだけだ。
俺と反対に、賊たちは恐慌状態に陥った。
悲鳴が上がり、数人が北口へ走り、別の二人が西の崩れた壁へ駆け出す。北にはレオンたちが、西にはリゼたちが待ち構えているとも知らずに。
分散して逃げられるならしめたもの――そう思った瞬間、頭目が叫ぶ。
「逃げるな! 実力は分かった! 俺が抑えてる間に数で押せ!」
頭目の声は、まだ効き目を持っていた。
逃げかけた賊の足が止まり、振り返る。そして武器を構え直す。
恐怖はあるだろうが、その奥には、頭目への信頼が確かに見えた。
――その時、左手の瓦礫の陰で動きが走る。
崩れた壁の瓦礫の山となった部分でしゃがみ込んだ賊が一人。
手には拳大の石――その狙いは明らかにクラウスだ。
それを認識した瞬間、身体が先に動いた。
考えるより前に、右手のナイフを投げる。
肩を回し、手首を弾き、練習で叩き込んだ動作をそのまま再現する。
ナイフは石を持つ男の首筋に吸い込まれ、ごとり、と石が手から転がり落ちた。
男は声もなく瓦礫の上に崩れ、足を痙攣させ、それもすぐに止まる。
――人を殺した。初めての殺人か……。
その事実だけが、冷たく頭に入ってくる。
だが感情は動かない。切り離してあるからだ。
俺はもう次のナイフに指を掛けていた。阻止も牽制も、今の俺なら瞬時に反応できる。
クラウスはそれに気づいているだろうが、振り返らない。
ただその背中が、『お前は俺の背中を、任せるに十分だ』――と、無言で告げている気がした。
意識をさらに研ぎ澄ます。盗賊はすでに四人を失い、残りは半分ほど。
まだ五分も経っていないのに、戦いはもう終盤だ。
立ち尽くしている賊たちは、クラウスに攻撃を仕掛けようとすると、投げナイフによる攻撃にさらされると悟ったらしい。
それを理解してしまったからこそ、動けなくなっている。
そんな中でも、まだ余裕を崩さない男が一人だけいた。
「……その余裕。もしや囲まれてるな? となると北と西は封鎖されている。違うか?」
頭目が、ゆっくりと剣を抜いた。
何故逃げないのか。それは、すでに退路がないと察しているからだろう。
「さてな。しかし、逃げるなら追う。そして殺す。それだけだ」
クラウスの言葉に、頭目は鼻を鳴らした。
「ふん。死中に活を求めるには、お前をやるしかないか」
薄く笑う。その顔は、覚悟を決めた男のものだ。
「だが、俺の力が及ばない相手ではない。舐めるなよ、王国騎士!」
頭目が剣を正眼に構える。
構えは崩れていない正統派に近い型だ――野盗に似つかわしくない基礎のしっかりした構え。やはり騎士崩れか何か。
リゼでも、勝てるかどうか……そんな力量を感じさせる相手だが、クラウスの背中には一片の恐れもない。
「舐めはしないさ――」
その一言と同時に、クラウスが剣を振るった。
一歩踏み込み、横薙ぎの一閃。
どう見ても剣の届く間合いではない――はず、だった。
次の瞬間、頭目の剣が跳ね飛び、同時に首が宙を舞う。
そして、転がった首が地面に落ちた。
「ただ、殺すだけだ」
クラウスの言葉と共に、残った体が膝から崩れ落ちる。
断面から血が噴き出し、壊れた蛇口みたいに心臓の鼓動に合わせて脈打ちながら地面を濡らしていく。
どくん、どくん、どくん――と。やがてその間隔が伸び、流れは弱まり……止まった。
――これが……不可視の魔剣、クラウスの夢想魔剣か。
昨夜見せられた技だ。おそらく、見えざる魔力の刃による斬撃。
それが剣の届かない間合いを埋め、首を断ち切ったのだろう。
目には映らず、音もなく、結果だけが残る。ただの人間には対処不可能な、まさに死神の一太刀。
クラウスは血を振り払ってから、静かに剣を納めた。
まるで稽古の一本でも終えたみたいな、落ち着いた所作だ。
中庭に残っていた賊たちが、呆然とそれを見ていた。切り離された胴から血が広がり、地面に転がった頭目の首を――。
「お、お頭がやられた……!」
誰かの悲鳴が、最後の堤防を決壊させる。
北口へ、西の崩れた壁へ、蜘蛛の子を散らすように駆け出していった。
もはや戦う意志は欠片もない。
逃がすわけにはいかない――そう思って踏み出しかけた俺の前に、クラウスの腕が伸びる。
「待て」
振り向いたクラウスの目は、不思議なほど穏やかだった。
さっきまで人を斬っていた男の目とは思えないほどに。
「追わなくていい。残りは仲間たちに任せておけばいいだろう。北にも西にも、お前の仲間がいる。彼らの実力なら問題ない」
――そうだった。
北口にはレオンたちがいる。西にはリゼが、ハルトが、エステルが、ナギがいる。
頭目を失い、戦意をなくした賊を捕らえるくらい、彼らなら造作もない。
俺は足を止め、浅く息を吐いた。
すると――クラウスの視線が、ふと俺の手元に落ちる。
握られているのは投げナイフ。それは結局一度しか使わなかった。
それを意識した途端に、反射的に視線が伸びた。
瓦礫の上に転がった賊の死体、その首元――そこに、投げナイフが真っ直ぐ突き刺さっていた。
「……殺しは初めてか?」
クラウスが俺の視線を辿り、賊の死体を眺めている。
それを受けて、俺は素直に言葉を返す。
「うん」
魔獣は何度も斬ってきた。けれど、人間は今日が初めてだ。
「今はどんな感じだ?」
「正直に言うと、何も」
精神操作で切り離しているからな。今は本当に、何も感じない。
「……でも」
――だが、魔法を解いたらどうなる?
「後で、気分が悪くなるかもしれない……」
この心の静けさは、魔法で作った仮初のものだ。
蓋を開けたとき、何が溢れてくるのか――自分でも想像がつかない。
俺の言葉を聞いて、クラウスは何も言わず、小さく頷いた。
その沈黙が、どんな慰めよりも重く感じられた。




