戦い終わり
砦の中庭に、静けさが降りていく。
焚き火の鍋はまだ湯気を立てているが、もうそこに手を伸ばす者はいない。
代わりに残っているのは、転がった武器と、倒れた賊と、血の匂いだけだった。
――ほどなくして、北口のほうから革靴の足音が聞こえてきた。
「終わりました。北口から逃げた連中は全員捕縛し、こっちに怪我人はいません」
レオンの声だ。
その後ろにはフィン、マレナ、ミレイが続いている。腕には返り血がついているが、大きな負傷はなさそうだった。
「こっちも無事だ。頭目は斬った」
クラウスが短く応じる。
レオンが中庭を見回し、一瞬だけ目を引き締めたあと、すぐにいつもの調子へ戻った。
「さすがは騎士様だ。予定通り、あっという間でしたな」
「当然だ」
軽く言ってのけるその声に、誇張の色はない。ただ事実を述べているだけだ。
次いで、西側の崩れた壁のほうから、もう一組の足音が近づいてくる。
リゼが先頭、その後ろにハルトとエステル、さらにナギが続いていた。
「西側も制圧完了です。逃げてきた二人を倒し、今は木に縛り付けてあります」
リゼが淡々と報告する。
分かり切っていたことではあるが、体にはかすり傷ひとつない。
その後ろのハルトとエステルも無事で、ナギの姿にも怪我は見当たらなかった。
――全員無事、か。良かった……。
「リーネ」
リゼがこちらへ歩いてきた。
俺のことをじっと見つめ、それからわずかに首をかしげる。
怪我をしていないか、ついでに他の様子もまとめて確認している視線だが……。
「怪我はないよ」
「それは見れば分かります。……ただ」
リゼの視線が、瓦礫の上に転がった賊の死体へと滑る。
首筋に突き立った投げナイフ――それをひと目見て、誰の仕業か理解したらしい。
「……どうですか?」
短い問い。
それが何を問うているのか、考えるまでもない。
戦いそのものではなく――『人を殺した自分』を、どう感じているのか?
……さて。そろそろ、蓋を開けるか。
精神操作を解く。『集中』と『冷却』の糸を、静かに緩めていく。
水面に張った薄氷が溶けるように、切り離していた感情が戻ってくる――はず、だった。
――何も……来ない?
吐き気も、手の震えも、恐怖も、後悔も。何一つ、押し寄せてこなかった。
あの死体を見る。瓦礫の上で横たわる男。首筋にナイフが刺さり、もう動く気配はない。
それを見ている自分の心を、一つ一つ点検するみたいに確かめる。
だが――本当に……何もない。
グレイマウルとの戦いを思い出す。
あの時は違った。戦闘が終わった瞬間、膝が崩れ、涙がぼろぼろ溢れて止まらなかった。
恐怖と安堵が入り混じって、みっともないくらい泣きじゃくった。
なのに今は――人を殺しておいて、この心の静けさか。
ショックがないことに、逆にショックを受けている。
なんだこれは。俺は、そういう人間だったのか?
魔獣との死闘では泣き崩れたのに、人殺しにはこの反応。
……自己愛が強いからだろうか。自分が死にかけた時には泣いたのに、人を殺したことには何も感じない。
そう整理すれば、嫌悪感が湧いても良さそうなものだが――それすら、どこか遠い。
……それならそれで――悪くない、か。
戦いの最中、攻撃をためらっていたら、クラウスが危なかったかもしれない。
あの場で即座に動けたのは、精神操作のおかげであり――そして、多分、こういう性格のおかげでもある。
なら、これもまた『有り』ってもんだろう。
「……クラウス兄様の背中を守ることができた。十分な成果だね」
リゼに向かって、そう答えた。
それが、今の俺の中にある唯一の確かなことだ。
リゼは一瞬だけ目を伏せ、何かを測るような間を置いてから、小さく頷く。
「……そうですか。なら、それで良いでしょう」
それ以上は何も聞かない。踏み込んでこない。
この人は、俺が「気にしていない」と言えば、それを尊重してくれる。
その距離感が――今はありがたかった。
やがてリゼやレオンたちは、捕縛した盗賊をここまで連れてくるため、森の中へ引き返していった。
俺とクラウスは、盗賊たちが補強して使っていた砦の中に入り、強奪された物資を確認する。
量そのものはそれほど多くない。
だが、荷は一箇所にまとめられ、すぐ持ち出せるように用意をされていた。
煮えたぎっていた鍋を思い返す。朝食を済ませたらそのまま出発する予定だったのだろう。
盗賊討伐――ぎりぎりで間に合った、というわけだ。
そう判断できたところで、レオンたちとリゼたちが、縄で縛られた盗賊たちを連れて戻ってきた。
戦う気力を完全に失った顔が並ぶ。一箇所に座らされた男たちは五人。結局、逃げ切れた者は一人もいなかったということだ。
「リーネ。盗賊と戦ってどうだった? 見たところ何も変わった様子はないけど」
ハルトが駆け寄ってくる。
その顔には、少しだけ興奮が残っていた。
「見ての通り。危ないところは一つもなかったよ。そっちは?」
「対人戦は初めてだったけど、まあ、苦戦はしなかったぜ。逃げてきた連中は数も少なくて混乱してたしな」
ハルトが拳を軽く握って見せる。
そこへエステルが、割り込むように口を挟んだ。
「それはリゼがいたからでしょ。お兄ちゃん一人じゃ、どうかしらね?」
「否定はしないけど、俺の牽制があったからリゼが自由に戦えたんだ。そこは誇っていいだろう?」
「うーん……確かにそうかもしれないけど、結局敵をやっつけたのはリゼだしなぁ」
「それは役割の違いってもんさ。俺の槍は倒すより守る槍だからな。十分武勲はある!」
「盗賊を倒して武勲って言い方はどうなの?」
二人のやり取りを聞きながら、口元に笑みが浮かぶのを自覚する。
さっきまで人の死体を前に無感動だった自分が、こういう軽口で笑えている。
それが良いのか悪いのかは分からない。けれど少なくとも、仲間の前では笑える――その事実が、どこか救いになっていた。
「……リーネさん」
感傷に浸っていたところで、ナギが控えめにこちらへ歩み寄ってきた。
フードを目深にかぶったまま、不安げに周囲を見回している。
「終わったの? ……本当に?」
「敵を倒す、って意味ならね」
仕事という意味では、まだやることは残っている。
襲われた隊商の主人を連れてきて、強奪された商品の照会もしなければならない。
でも、ナギが聞きたいのは、そういう事務的な話じゃない。
「……例の手練れは?」
仲間を一瞬で斬り殺したという、あの男についてだ。
「こっちだよ。付いてきて」
俺はナギの手を軽く引き、中庭の奥へ向かった。
頭目が倒れたのは、焚き火の向こう側。旧指揮所の入口付近だ。
そこに、斬られた死体がある。
首は胴から離れ、数歩離れたところに転がっていた。
断面から流れ出た血がぬめりのように地面へ広がり、すでに黒く変色し始めている。
「……一撃だった」
俺は静かに言った。
「クラウス兄様にとっては、赤子の手をひねるようなものだった。一太刀で、終わったよ」
ナギは凍りついたように、その死体を見つめている。
仲間を殺した男の、成れの果て。
フードの下の表情は見えないが、視線から目をそらせない様子だけは伝わってきた。
「赤子の手? ……俺の腕を少し買い被りだぞ、リーネ。せめて子供の手くらいにしておいてやれ」
背後から、聞き慣れた声が飛んできた。
振り向くと、クラウスがこちらへ歩いてくるところだった。
「自分で言うのもアレだが、俺が特別なだけだ。こいつ自体は、そう弱くはない」
転がった生首を見下ろしながら、クラウスは淡々と言う。
「構えに隙はなかった。剣筋も悪くないだろう。騎士崩れという話があったが、そんなもんじゃない。さらに上……分隊長くらいか? リゼでも苦戦するだろうな」
――やはりか。俺の直感は正しかったらしい。
しかし、その強敵をクラウスは一閃で斬殺した。
それだけの力が――あの不可視の魔剣にはある。だから『特別』なのだ。
どれだけ強くても、その強さを発揮できなければ意味はない。
そう考えれば哀れな男ではあるが、だからといって同情する筋合いもない。
俺はナギに向き直り、言葉をかけた。
「ナギ。これで仇は討てたな?」
ナギは、まだ生首から目を離せずにいた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。フードの奥の瞳は涙で潤んでいる。けれど、泣き崩れはしない。
「……うん」
か細いが、確かな声が響く。
「討てた……と、思う。これで……終わったんだ」
それ以上は言葉にならないらしく、ナギは唇を強く結んで俯く。
クラウスはしばらくその様子を見つめてから、何も言わず踵を返した。
背中が遠ざかるのを横目で見てから、俺はナギの肩にそっと手を置く。
「全部終わったら、約束通りにやろうか。覚えてるかな?」
「……祝杯」
「そう。グレンツに戻ったら……ちゃんとやろう」
ナギがこくりと頷く。
それを確かめてから、俺は後始末を進める皆のほうへと歩き出した。
すべての後始末が終わったのは、それから二時間ほど後のことだった。
盗まれた荷は一箇所にまとめられ、商人が一つ一つ中身を改める。嗜好品の類は抜かれていたが、それでも大半の品が戻ってきたことに、彼は心底ほっとした様子だった。
縛り上げた盗賊たちはグレンツへ護送することになり、その役目を俺たち冒険者が引き受ける。
この場を取り仕切るクラウスは、段取りだけ整えると、無言で砦跡から歩き去っていった。
グレンツで事務処理があるのだと言っていたが、その背中には、どこか昏いものがまとわりついているように見える。
クラウスの活躍があったからこそ、盗賊を討伐できたと言っていい。
けれど、その背中に喜びの色はほとんどなかった。
――その心中を察するには、もっとクラウスのことを知る必要がある。ただ、そう感じた。




