ナギとの会話とクラウスの秘技
夜になり、明日に備えて早く床に就こう、ということになった。
普段なら今ごろは飲み騒ぐ声がこの部屋まで届いていてもおかしくない。
けれど今夜は、耳に残るのは物音だけだ。
『鍛鉄の剣鉈』で取った部屋では、ハルトが槍の穂先を睨み、エステルが小声で祈りの文句を反芻し、リゼが剣帯の金具を一つ一つ指で確かめていた。
誰も余計なことは話さない。全員、意識の向き先は明日だ。
……そんな中で、一足先に準備を終えた俺は、とある行動に出ようとしていた。
「ちょっと、クラウス兄様のところ行ってくる」
そう言うと、真っ先にリゼがこちらを見る。
「明日は早いですが……話すなら今というのも理解できます。ただし、クラウス殿の邪魔はしないこと。いいですね?」
「分かってるって。じゃ、行ってくる」
軽く手を振って部屋を出る。
廊下に出て、クラウスのいる三階へ向かおうとしたところで――。
「あれは……」
階下の食堂が目に入った。
ナギ――だったか。一人を残して全滅したパーティーの生き残り。
彼女は食堂の片隅で、ゆっくりと何かを飲んでいた。手にするのはジョッキ。……酒、に見える。
――何故酒を飲んでいるか知らないけど、さすがに止めたほうがいいよな。
階段を下り、そのテーブルへ歩み寄る。
「明日を考えるとさ、それは感心できないよ」
声を掛けると、彼女が振り返った。
さっきまでフードで隠れていた顔が、今ははっきり見える。
沈んだ表情だが、それでも整った顔立ちだ。
ダークブラウンのショートヘア。年はエステルと同じくらいか。
華奢ではあるけど、斥候らしいしなやかな体つきだ。
「これはお酒じゃないよ……お水。私はお酒飲めないから……。皆でお祝いするときも、水ばっかり飲んでた」
「何で今、その水を?」
「……アレンさんが言ったから。『俺を見送るなら酒を飲んでくれ』って。たとえ俺が死んじまっても、その時は楽しく送ってくれって……。だから、私は……」
そこまで言って、ナギの言葉が途切れる。
俯いた肩が、小さく震えた。
聞こえてくるのは、押し殺した嗚咽だけだ。
「仲間の遺言を、果たしてるわけか」
「……うん」
もし、そのアレンとやら一人だけが死んだのなら。
残された者たちが、寂しく酒を飲んで送って終わりだったかもしれない。
だが、彼女を残してパーティーは全滅だ。見送る役は、ナギ一人だけ。
――あまり柄じゃないけど。このままじゃ、明日に響く。
俺はカウンターのほうへ向かった。
宿の店主がコップを拭きながら、手持ち無沙汰にしている。
普段なら繁盛しているであろう食堂も、今ここにいるのは俺とナギだけだ。
「悪い。軽いのを一杯。明日もあるから、一番薄いエールで頼む」
「む……分かった。少し待ってな」
店主は木のジョッキを取り出し、半分ほどエールを注ぐ。
見た目は発酵の浅い、日常用の薄いエールってところだ。
「ほら。代金は、明日帰ってきてからでいい。ただしツケにするつもりはないからな。必ず払いに戻れ。あんたみたいな子が盗賊にやられた、なんて聞いたら……寝覚めが悪い」
「ああ、必ず払うさ。ありがとう」
ジョッキを受け取り、ナギのテーブルへ戻る。
俺と店主の会話は聞こえていたのだろう。
まだ悲しみは顔に残っているが、その目には少しだけ好奇の色が浮かんでいた。
「あなたが……お酒を? どうして?」
「見送るんだろ? パーティーメンバーでもない部外者だけど、俺も冒険者だ。何か祝い事があれば、見知らぬ冒険者同士で盃を交わすこともある。それと同じ……と言っていいかは分からないけど、賑やかし役くらいにはなれる」
そう言って、俺は一息にエールをあおった。
それはいつもより、少しだけ苦く感じた。
「……これで、『酒を飲んで見送った』って、報告しておけ。――他の冒険者に押し付けた、ズルかもしれないけどな」
こんなことで、彼女の気が慰められるかは分からない。
むしろ「勝手なことしないで」と怒られてもおかしくない。
けれど、今のままの感情で明日を迎えられる方が、よほど怖かった。
――そう思っていると、ナギが自分のジョッキを見つめ、それから、水を一気に飲み干した。
そして、ガツンとジョッキをテーブルに叩きつける。
「お酒じゃないけど……一気飲みした。少しは、祝いの席に近づいたかな?」
顔にはまだ悲しみが色濃く残っている。
それでも、その目は――さっきよりずっと強かった。
「……少しは、な。けど、まだ足りない。明日、全部終わらせてから祝杯を上げよう。それが本当の見送りだ」
「……分かった」
ナギは立ち上がる。
階段に向かいかけて、ふとこちらを振り返った。
「斥候は任せて。何としてでも、やり遂げる」
「ああ、任せた。敵を倒すのは、俺たちに任せろ」
短いやり取りを交わし、彼女は階段を上がっていった。
「――ということが、さっきあってね。これで少しはフォローできたと思いたいけど……」
場所は変わって、クラウスの部屋。
小さな丸テーブルを挟み、俺とクラウスが向かい合って座っている。
ナギを見送ったあと、許可をもらって部屋を訪ね、先ほどの顛末をざっと話したところだ。
「冒険者同士の機微はよく分からんが……明日のため、ということか」
「そうです。斥候がヘマしたら被害が出ますからね。彼女が少しでも立ち直ってくれたほうが、全体の生存率が上がるってわけです」
これは彼女のためでもあるが、それ以上に俺たちのためでもある。
斥候一人の判断が、誰かの生き死にに関わるかもしれないからだ。
「良い心掛けだ」
クラウスはそう言うと、少し目を細めた。
「明日は俺が頭を張る。斥候の心情を知れたのは悪くない。……よくやった、リーネ」
「……これは喜ぶべきなんですか?」
子ども扱いするように、クラウスの大きな手が俺の頭をくしゃりと撫でる。
手は暖かくて心地いいけど、それでもくすぐったさのほうが勝った。
「小さい頃のお前なら、素直に喜んでいたと思うがな」
「その頃のことは覚えてません。今は今として扱ってください」
実際、中身が違う。覚えているはずもない。
リーネの日記にも、そんな昔の話はほとんど書いてなかった。
けれど――兄妹仲自体は、もともと悪くなかったんだろうな、とは思う。
「そうか。……それにしても、そこまで気を配れるようになったとは。リゼの教育が、よほど良かったということか」
「リゼには世話になってますし、今でも世話になってます。逆に、こっちから世話してる部分もありますけど」
「何? あのリゼをか? 騎士団に入る前も入った後も、鉄の女と呼ばれていたあのリゼだぞ?」
鉄の女、ね。
異論はない。むしろ納得しかない。
「いえ、生活全般の話です。戦いに関しては文句なしですけど、時々、変なところで抜けてますから」
正確に言えば、リゼに抜けなんてない。駄目なのは……夜だけだ。あれは完全に別案件だ。
俺を求めてくるのはいいけど、あの人、自分の性欲の制御に関しては、ちょっと壊滅的だからな……。
下の世話という意味では、俺はリゼのお守りをかなりしている自覚がある。
「ただ、リゼにはこのことは言わないでください。多少は気にしてると思いますから」
「覚えておこう。まあ、そのような話をする機会もないだろうが」
そこで話題を変え、少しだけ近況を話し合った。
俺は冒険者として、クラウスは騎士として。
騎士になったクラウスは「使い勝手がいい」と評判で、魔獣の間引きや討伐のたびに、あちこちの領地へ派遣されているらしい。
「――というわけだ。さて、そろそろお開きにしよう。気分も大分落ち着いたんじゃないか?」
「そうですね……思ったより、気にしていたみたいです」
指摘されて、ようやく自分でも自覚する。
リーネになってから、感受性の振れ幅が大きくなった。
さっきナギに声を掛けたのだって、その変化のせいだろう。
「明日は日の出前に出る。ゆっくり休め」
「はい。おやすみなさい、クラウス兄様」
血の繋がった兄――ただし、俺の知らない家族。
こんな形の再会になってしまったが、思った以上にまともな会話ができた気がする。
クラウスの言う通り、明日は早い。立ち上がり、扉へ向かおうとして――最後に、どうしても聞いておきたいことを口にした。
「クラウス兄様」
「なんだ」
「本当に、一人で大丈夫なんですか? 騎士とはいえ、ずいぶん自信満々でしたよね。無論、それだけの自負があるのでしょうけど」
相手は手練れの盗賊一人どころの話じゃない。
どれだけ数がいようが余裕だ。と、平然と言っていた。
俺の問いに、クラウスはほんの少しだけ目を細める。
そして椅子から立ち上がり、手刀の構えを取った。
「リーネ、扉まで下がれ。テーブルの上のジョッキをよく見ろ」
「え? あ、はい」
言われた通り、扉の前まで下がり、テーブルのジョッキを注視する。
クラウスは肩口に手刀を置くように構え、横薙ぎに腕を振った。
軽く。それだけの動作にしか見えなかったのに――。
「……え?」
ジョッキの上半分が、いつの間にか消えていた。
何が起こったか理解できずにいると、遅れてコトン、と何かが床に落ちる音がした。
視線を下に向ければ、斜めに切り落とされたジョッキの上部が、床板の上でころんと転がっている。
「これが俺の夢想魔剣だ。……冒険者なんぞやってるってことは、父上から教わってるな?」
「……教わりましたけど、私は風をちょっと出せるくらいです。こんなふうには――」
「これは風じゃない」
風じゃない? 確かに風っぽさはなかったが……。
クラウスの通り名は『不可視魔剣』。
……いったい、何をしたんだ?
「明日、盗賊討伐が無事に終わったら、詳しく話してやる。この力のことをな」
驚愕の表情のまま固まっている俺を前に、クラウスは続けた。
「俺の前に立ちふさがって、生き残った奴はいない。元騎士の盗賊? 相手にならんさ」
淡々とした口調。
そこには、強烈な自負があった。
――けれど、それだけじゃない。
言葉の奥に、何かもっと昏いものが揺れている。
クラウスの秘技を見せつけられたことで、明日の勝利は、ほとんど確信に近くなった。
同時に――この兄を、どこか放っておけないような、不思議なざわめきも胸に残ったままだった。




