操作できない心
「……終わったな」
レオンが短くそう言った。
その一言で、張りつめていたものがふっと緩む。
マレナが盾に手をつき、肩で息をする。
フィンは弓を下ろしつつ、もう一度森の奥へ視線を投げた。
ミレイは杖を下げ、静かに支援を解く。
リゼも剣を鞘に納め、フィンと同じように周囲を見張っている。
もう今すぐに剣を抜く必要はない――それを、身体のどこかがようやく理解していく。
胸の奥から、遅れて安堵の息が漏れた。
――生きてる。全員……生きてる。
その事実を、ようやく実感として掴めた。
「フィンは周辺警戒。マレナは手当だ。ミレイ、頼む。……嬢ちゃんとリゼ、こっち来い」
レオンが、いつもの調子の声で指示を飛ばす。
もう頭の中は次の段取りへ切り替わっているらしい。
俺とリゼは、並んでレオンのもとへ歩いていく。
「お前たちのおかげで助かったよ。特に――」
レオンの視線が、俺に止まる。
「さっきの一撃だな。あれで妙な混乱を起こした。正直、何をやったのかは分からんが、結果としては大当たりだった」
「そ、そんな大したことじゃ……。たまたま、頭を狙えただけで――」
マインドブロウのことは話せない。
だからそう誤魔化すしかないが……評価されること自体は、やっぱり悪い気はしない。
「あの状況で一撃入れるなんて、たいしたもんだ。その気迫がグレイマウルに効いたのかもな」
レオンは笑い、ぽん、と俺の肩を叩いた。
その瞬間――足から力が抜けた。
膝から地面につくように、その場に崩れ落ちる。
「嬢ちゃん!」
「リーネ!」
レオンとリゼの声が同時に飛ぶ。
耳には入るのに、頭ではうまく掴めない。視界がぐらりと傾き、慌てて両手をついた。
――何だ、これ……。
身体がひどく重い。世界だけが遠ざかっていくような、おかしな感覚。
自分に活を入れようと、いつものように精神操作を掛けようとして――そこで、気づいた。
――魔力が、切れた?
張り巡らせていたはずの意識の糸が、どこにもない。
底の見えた井戸みたいに、ただ空っぽな感覚だけがある。
「あ……」
声にならない声が漏れた瞬間、押し込めていた何かが堰を切った。
――怖い。
さっきまで、どこか遠くに追いやっていたはずの恐怖が、一気に戻ってくる。
爪が眼前を掠めた瞬間。頭を狙って飛び込んだ時に見えた、グレイマウルの目。
ほんの少しでもタイミングを誤っていたら、俺はもうここにいない。
分かっていたはずのことが、今さら、骨の奥まで染み込んでくる。
怖い。怖い。怖い――。
「……っ、う、あ……」
喉が勝手に鳴る。
涙が、止める暇もなくぼたぼたと落ちていく。
歯の根が合わず、身体が小刻みに震え出す。やめろ、と命じても、まったく言うことを聞かない。
――ああ、そうか。
今まで、精神操作で横へどけていただけなんだ。
恐怖そのものが消えていたわけじゃない。見ないようにしていたのを、無理やり視界の外へ追いやっていただけ。
魔力が切れて、その仕切りが消えた。だから今、まとめて襲い掛かってきている。
頭では分かる。筋道としては理解できる。
でも、それで震えが止まるほど、俺の身体は賢くない。
「リーネ」
耳元で、低く落ち着いた声がした。
次の瞬間、身体がやわらかいものに包まれる。
リゼだ。腰をかがめ、俺を抱き寄せている。
「よくやりました、リーネ」
耳元に、静かな声が落ちる。
「泣いてもいいのです。今はただ……自分の感情に、素直になってください」
優しい声でそう言われて――感情の堰が、完全に壊れた。
「……っ、ひ、く……あ、あぁ……」
喉から漏れる音は、言葉にならない。涙がまたあふれ、視界がぐしゃぐしゃになる。
もう、見栄も格好つけもどこかへ消えた。ただ必死にリゼの服を掴み、その胸に顔を埋めて、ただただ泣いた。
誰に見られていようと、今はどうでもよかった。
「リゼと嬢ちゃん――いや、リーネはそのままでいい」
少し離れたところで、レオンの声がした。
「敵の気配はないな? 荷役士……トビーと言ったな。お前の出番だ」
「お、おう!」
レオンとトビーが何やら話していた。
俺が泣きじゃくっている間にも、世界はちゃんと動き続けている。
世界から切り離されているのは、俺の感覚の方だけだ。
どれくらいそうしていたのかは分からない。
呼吸が少しずつ落ち着き、涙の量も減ってきた頃、ようやくリゼの腕の中から顔を上げることができた。
「……もう、大丈夫」
「はい。顔は少し、拭いた方がいいですね」
「……そうだね」
袖でごしごしと涙を拭う。
目の周りがじんじんする。鼻もきっと赤い。だが、今さらだ。
立ち上がろうとして膝がぐらりとしたのを、リゼがさりげなく支えてくれる。
それから一歩前に出て、皆の方へ向き直った。
「……見苦しいところを見せました」
深く、頭を下げる。今の俺に言えるのは、それだけだった。
「見苦しい、ねえ」
真っ先に口を開いたのは、マレナだった。
大きく息を吐いてから、片方の口角を上げる。
「私はね、生きて立ってりゃ上等だと思ってるよ。さっきのあんたの突っ込みがなきゃ、私は泣くどころか、物言わぬ骸になってたかもしれないんだからさ」
「そういうことだ」
レオンも肩をすくめる。
「恐怖を感じない奴より、怖がりながらも一歩踏み込める奴の方が、よっぽど信頼できる。少なくとも俺はそうだ」
フィンは視線を森の奥に向けたまま、短く言った。
「理由は分からんが、あの一撃が戦況を変えたのは確かだ。礼を言うぜ、リーネ」
ミレイは静かに頷く。
「あの一撃がなければ、こうして話していられたかどうかも怪しいですからね。その勇気、感服します」
当たり前のように、みんながそう言うものだから――。
「……うぅ」
さっきとは別の意味で、顔から火が出そうになる。
恐怖の次は、誇らしさと羞恥心の同時襲来だ。感情のジェットコースターにもほどがある。
こんな気持ち、リーネになる前にも感じたことなんてない。
「よし、じゃあそろそろ帰るぞ」
レオンが、区切りをつけるように声を上げる。
「トビー、どうだ? 運ぶのがきついなら四肢を切断するが」
「いらねーよ! 余裕だっての!」
振り向くと、トビーがグレイマウルの死骸と自分の体を荷縄で巻き付け、その小さな体で背負い込んでいた。
「オレに任せろよ。こういうときのための荷役士だろ?」
その立ち振る舞いに、虚勢はほとんど見られない。
このまま背負って森を出るつもりらしい。
「帰還は縦列で迅速にいく。先頭フィン、次にマレナ、その後ろが俺だ。トビーは俺のすぐ後ろ。トビーの後ろにリーネ、その後ろがミレイ、殿はリゼに頼みたい」
「承知しました。一番余裕があるのは私ですからね。いざとなれば、皆が逃げる時間稼ぎをしましょう」
「任せた。せっかくグレイマウルを討伐できたんだ。喜ぶのは森を出てからだ。最後まで気を抜くなよ」
レオンの号令で、俺たちは森を戻り始めた。
しばらくは、皆、口数が少なかった。土を踏みしめる感触と、遠くで鳴く小鳥の声だけが耳に届く。
森はいつもの静けさを取り戻しつつあった。
俺はトビーの後ろを歩いているが、さっきまでの震えはもうない。
それでも胸の奥の騒めきだけは、まだ完全には消えていなかった。
「……リーネ姉ちゃん」
不意に、トビーが話しかけてくる。
「何?」
「姉ちゃんも、泣くんだな」
俺を、何か特別なものとでも思っているような言い方だ。
「そりゃあ、ね……本気で、死ぬと思った」
ここで虚勢を張っても仕方がない。
今は、自分の本音をさらけ出したい気分だった。
「咄嗟だったからできたことだよ。飛び込んだ瞬間は、怖さを感じる暇なんてなかった。でも、終わった途端に全部戻ってきた。私には、あの一撃を受けきるなんて無理だからね」
精神操作の利点は、自分を誤魔化せること。
そして欠点も、きっと同じだ。
「冒険者を名乗りながら、あの様さ。今の私には……死ぬ覚悟なんてありはしない」
そこまで言って、自分でも苦笑が浮かぶのが分かった。
「覚悟もできてないくせに、格好つけて飛び込んで、終わってから怖くなって盛大に泣いて……醜態だね」
トビーはしばらく黙っていた。
けれどそれは、言葉を探していたかららしい。
「死ぬ覚悟なんて、いらねーよ」
それは、今まで聞いたトビーの言葉の中で、最も真剣さを秘めた声色だった。
「冒険者は軍人でも戦士でもねえんだ。生きて依頼をこなして、ちゃんと報酬をもらう。それが仕事だろ?」
トビーは歩みを止めずに続ける。
「死ぬ覚悟よりさ、何としてでも生き足掻く覚悟……そっちの方が大事だろ? リーネ姉ちゃんはこうして生きてる。それで十分じゃん。怖くなって泣くのは恥じゃない……オレからしたら、全然醜態じゃねえよ」
これは、励まされているのか。
……年下に励まされるなんて、情けない話だ。
でも――悪くない気分だ。
「そっか」
「そうさ」
トビーは即答し、わざとらしく背中の荷を揺らしてみせる。
「ここからはオレの仕事だ。ちゃんと守ってくれよな! 今日は大儲けだぜ!」
「そうだね……。ちゃんと守ってあげるよ! 今日は宴会だ!」
そう言って、トビーに笑いかける。
トビーの言う通りだ。死ぬ覚悟なんて、いらない。
恐怖に打ち勝つことは大事だ。でも、恐怖を受け入れることも、同じくらい大事なんだろう。
戦うために前へ出たことも。
怖かったことも。
泣いてしまったことも――全部ひっくるめて。
俺は冒険者として、一歩前に進めた。少なくとも今は、そう思うことにしておく。




