グレイマウル
灰色の巨大な熊が、そこにいた。
――デカい。これがグレイマウル。
想像していた熊の一回り、二回りは上を行く。もし二足で立ち、俺が横に並んだら完全に見下ろされるだろう。
毛並みは灰色の中に焦げ茶が混じり、ところどころ古い傷跡が白く走っている。
その傷の一本一本が、ここまで生き残ってきたことを主張していた。
小さな目だけが、やけに近く感じる。ぎらぎらと光り、俺たちを一人ずつ値踏みするように、舐めるような視線で追っていた。
「……大きさは標準。単独。周辺に仔の気配なし」
フィンが矢をつがえたまま、低く早口に報告する。
「なら、まだマシだな」
レオンが短槍を構え直した。
「来るぞ」
その一言が、合図になった。
グレイマウルが地面を蹴る。土が弾け、巨体が一直線にマレナへと突っ込んでくる。
「任せな!」
前脚が振り下ろされるのと、マレナの盾が跳ね上がるのはほとんど同時だった。
ガンッ、と甲高い衝撃音が響く。肉と骨にまで響くような重さだ。
マレナの体が一歩、二歩と押し込まれる。踵が土を抉り、盾の縁がきしんだ。
「……っ、重っ……た!」
歯を食いしばる声が漏れる。それでもマレナは踏みとどまっていた。
あの一撃を、人間が受け止めている――常識で考えればあり得ない光景だ。
『身体強化』を使えば、あんな芸当も可能なのか? そう思った瞬間、すぐ近くから答えが飛んできた。
「マレナ! 『強靭』を掛け続けます。耐えてください!」
ミレイが杖を構えていた。一見ただそれだけだが、俺には分かる。
目には見えない細い魔力の線が、ミレイからマレナへと渡っている。
――これが補助魔法か。自分以外を支援し、強化する魔法。
「全員でグレイマウルを囲め! 関節か急所を狙うんだ!」
レオンの号令と同時に、フィンの矢が走った。
だが、その矢は当然のようにグレイマウルの体毛に弾かれる。貫通なんて夢のまた夢、ただの牽制だ。
けれど、その一瞬を稼ぐ意味は大きい。
「トビーは隠れてろ! 私も行くぞ!」
レオンが右へ、リゼが左へ散開する。
フィンは木立の陰で角度を変え、矢をつがえ直す。
俺はトビーの前に一歩出て、様子を見極めた。
――ここで前に出るために、俺はこの森に来たんだ!
グレイマウルが暴れるように前脚を振り回し、レオンとリゼを近づけさせない。なら、俺の位置は背後だ。
やることは単純――完全包囲の形を取って、隙を見つけて攻撃を叩き込む。
自分に掛けられる『身体強化』を最大まで引き上げ、精神操作で『集中』を限界まで絞る。レオンとリゼに気を取られている間に回り込み、巨体の背後へ。
毛の隙間を狙い、がら空きの背中に剣を突き立てた――。
「ちっ!」
――駄目だ。剣が通らない。
刃が毛皮を裂く感触はある。
しかし、すぐ下の脂肪と分厚い筋肉が衝撃を殺してしまう。
グリムパップやブルタスクには通用した背中への一撃が、まるで効いていない。
「リーネ!」
リゼの声。敵の攻撃を知らせる警告だ。
反射的にバックステップを踏む。
直後、目の前を、裏拳のように振り抜かれた前脚が薙いでいった。爪が空気を裂き、遅れて土が爆ぜる。
あと一瞬遅れていたら、死んでいた。
でも、避けられる。急所さえ狙えれば、攻撃を通すこともできるはずだ。
「嬢ちゃんは牽制に徹しろ! 攻撃は俺とリゼで行う!」
レオンが怒鳴るように指示を出す。
マレナはグレイマウルの前脚を誘うように動き、盾で角度を殺し続ける。
リゼは側面から関節を狙い、フィンの牽制射が間断なく飛ぶ。
しかしグレイマウルは、それらを鬱陶しそうに弾きながら、まだまだ余裕を残していた。
「こいつッ! 見た目よりも強いよ! いつも通りじゃやばい!」
マレナが苦しそうに叫ぶ。爪の一撃一撃が、盾ごと身体を揺さぶっている。
「脚の腱に攻撃は通った! だが、骨まで届かん。切断しきれていない!」
「肩も同様です! 攻撃は通っていますが、致命傷にはなっていません!」
レオンとリゼの刃は確かに当たっている。毛の間から血は滲みだしているのが見て取れる。
だが、それだけだ。
――出血を強要し、疲労させて、動きが鈍ったところで仕留める。
一撃で駄目なら持久戦。それは正しい選択のはず。
しかし、このグレイマウルにそれが正しい戦法であるかは、微妙なところだった。
手負いになったことで、むしろ凶暴さが増し、振るわれる爪は暴風のようだ。周囲のすべてをまとめて切り裂こうとする旋風が、マレナを、レオンを、リゼを飲み込もうとする。
攻撃の機会を作るために、マレナがひたすらその一撃を受け止める。
だが、その身体はもう限界に近い。長くは持たないだろう。
――このままじり貧なら、全滅。
森に初めて入った日に助けた、あの冒険者たちが脳裏をよぎる。
一人は腕を、一人は足を失った。
それでも彼らはまだ幸運だったのだ。生きて森を出られたのだから。
「ミレイ! マレナへの『強靭』を一度切れ! 機会を見て、俺に『剛力』を掛けろ!」
「……それしか、ないですか!」
ミレイの顔色が変わる。
「マレナ! 支援を切るタイミング、合図を!」
「ッ、私の力だけじゃ、一撃を受け止めるのが限界だよ! それでもやるのかい!」
完全に一か八かの賭けだ。このまま削り合えば、どこかで盾役であるマレナが倒れる。
前衛が沈む前に、勝負に出るしかない――その判断は合理的だが、失敗した瞬間に敗北が確定する。
そうなれば、取れる手段はただ一つ。散り散りに逃げだすしかなくなってしまうだろう。
――俺は、これを見ているだけでいいのか?
そんなわけがない! 今の俺には、やれることがある。
もう一度、自分に精神操作を掛ける。
一歩間違えれば死ぬという恐怖を、無理やり切り離す。その恐怖を、今度は自分の剣に乗せるようなイメージで掴み直す。
そして、暴風の中へ踏み込んでいく。
グレイマウルの大振りの直後、ほんの一瞬だけ生まれる空白――そこが狙い目だ。
狙うのは頭。背後から飛びかかるよう跳躍し、全身の力を乗せた大上段を振り下ろす。
――マインドブロウ。
リンデベルク家に伝わる『夢想魔剣』を、精神操作魔法で変換したオリジナル。
強烈な死の意識、恐怖という感情を、増幅して頭の中に流し込んでやる!
振り下ろされた剣は、当然のようにグレイマウルの頭蓋を割れなかった。
分厚い体毛と皮膚、岩みたいな頭骨に阻まれ、手には鈍い衝撃だけが返ってくる。
そうなることは分かっていた。だからすぐに、グレイマウルの身体を踏み台にして後方へ蹴り飛ぶ。
その動きによって、なんとか振り向きざまの攻撃、爪の殺傷圏からギリギリで飛び退いた。
次の瞬間――。
グレイマウルが、意味のない方向へ爪をぶん回した。
空を切った爪が、近くの木の幹を裂く。目の焦点が合っていない。
「今だ! 奴は混乱してる! この隙を狙え!」
思わず叫んでいた。
グレイマウルは反射で俺に爪を振ったあと、標的を見失った獣のように、まるで見当違いの方向へ暴れ回っていた。
マインドブロウが通じた! 恐怖と混乱が、あいつの頭を焼いている。
「ミレイ! 『剛力』だ!」
「ッ、はい!」
ミレイが杖をレオンへ向ける。
いままで細い糸のようにマレナへ向かっていた魔力が、一瞬だけ解かれ、太い縄のようにレオンへと注ぎ込まれる。
筋肉が膨れ上がるわけではない。だが、レオンの立ち姿が一段と重く、鋭くなった。
「くたばれ!」
短い咆哮と共に、レオンが地面を蹴る。
視界から消えた――そう錯覚するほどの踏み込みだった。
次の瞬間、グレイマウルの腹部に、レオンの槍が根元近くまでめり込んでいた。
グレイマウルの絶叫が森の中に響き渡る。
だが、それは最初だけ。すぐに息が詰まり、声にならない呻きだけが漏れ始める。
反撃のために爪を振り下ろすが、その頃にはレオンはすでに槍を手放し、殺傷圏の外へ転がっていた。
「一撃じゃ死なねえか! だが、腹を貫かれりゃ、あとは時間の問題だ! ミレイ、マレナに『強靭』を掛け直せ! 囲んで叩き潰すぞ!」
レオンが予備の剣を抜きながら、包囲の形を整える。
マレナが前で受け、レオンとリゼが左右から脚と肩を狙う。
俺は斜め後ろからだ。グレイマウルの視界の外を保ちながら、攻撃が通じないことを分かりつつも嫌がらせの攻撃に徹する。
さらなる追撃として、フィンの矢が顔目掛けて乱れ飛ぶ。
それらの攻撃によって、グレイマウルの動きが徐々に鈍っていく。
腹からの出血が止まらない。踏み込むたびに、槍傷から血が吹きこぼれる。
それでもなお、最後の一撃を振るおうとしたその時――。
「今だ、押し込め!」
レオンの号令と同時に、全員の攻撃が重なった。
剣と槍による斬撃と刺突、矢が飛翔し、盾で殴るような衝撃。ありとあらゆる攻撃が、グレイマウルの身体を押し倒す。
ついに、その巨体が――地面を揺らして崩れ落ちた。
「完全にとどめを刺すまで、油断するな!」
レオンの声を合図に、なおも全員で攻撃を続ける。
頭、首、四肢。万が一の反撃を封じるように、動きそうな場所すべてを潰していく。
やがて、グレイマウルはピクリとも動かなくなった。
灰色の巨体が、ただの肉になったのを確かめたとき――俺はそこでようやく、肺の奥に溜め込んでいた息を吐き出した。
手の中の剣が、びっしょりと汗で濡れている。足が少し震えていた。
――生きてる。全員、生きてる。
遅れてやってきた実感が、喉の奥で熱く膨らんだ。




