帰って来た
リンデベルク家が手配してくれた馬は、よく躾けられていた。鞍も手綱も新品同様だ。
これだけ揃っていれば、かなりの金額が動いたと分かる。
両親の配慮に感謝しつつ、手綱を引いて厩の外へ出る。
そこでは、リゼが俺を待っていた。
「準備はできましたか?」
「できてるよ。すぐに出発しよう」
これからリンデベルク家の屋敷へ帰る。試用期間が終わったから、その報告のためだ。
冒険者としてグレインフォールで過ごした期間は一ヶ月。
長いのか短いのか、自分でもよく分からない。ただ、すでに俺の心の大部分が屋敷から離れているのも確かだった。
――色々なことが起きたからな。
出会いがあり、関係が増えた。
そして一番は、命を賭して戦い、報酬を得て、生活基盤を整えるという営みだ。
リゼが一緒だから独り立ちとは言えないかもしれない。それでも、自分の力で生きたという実感が確かにあった。その感触が、想像以上に俺を変えている。
衛兵との手続きを済ませて門を出る。石畳が土に変わり、街の喧騒が背中側へ遠ざかっていく。
俺とリゼは並んで駆けた。風が頬を叩き、髪を揺らすのが気持ちいい。
そうして駆けていると小高い丘に差し掛かり、登りに入ったところで自然と速度が落ちた。
「リゼ、少し待ってくれ」
声を掛けて振り返る。グレインフォールの全景を丘の上から見下ろした。
低い城壁。朝日に輝く無数の屋根――あの中にギルドがあり、俺たちが寝起きしていた三羽雀亭がある。
それを意識した瞬間、記憶が勝手にほどけていく。
最初は解体の仕事を続けた。稼ぐための技能を覚えるためだ。
トビーと森を回るようになっても、その技能は腐っていない。
獲物が多ければ、金になる素材を選別して持ち帰る必要があるからだ。
森の中で危機に瀕する冒険者を救った。
あれは誇っていい。ギルドや他の冒険者からの信用を得るきっかけにもなった。
けれど同時に、自分の迂闊さや未熟さを正面から見せつけられた出来事でもある。だから稽古への意気込みも変わった。今は精神操作で自分に活を入れる必要もない。
トビーと組んでからは、生活が劇的に安定した。
十分な金が稼げれば、毎日討伐や仕事をする必要がなくなる。
冒険者に必要なのは余裕だ。余裕があるからこそ、金に追われることなく無理や無茶をせずに、命の線を見極められる。
それから、リゼとさらに深い仲になった。
リゼのことは狙っていたし、リゼも俺を狙っていたのだから、納まるところに納まったと思えばいい。
それをきっかけにして何度か色街にも行った。他の冒険者と交流を持つなら知っておいて損はない。
でもそれは建前で、遊ぶためだった。命を賭ける仕事を続けていると、息抜きの価値がよく分かる。だから今後も、ほどほどに楽しみたい。
ギルドでの顔も利くようになった。
挨拶が増え、雑談をして、冗談を言い合う。
そんな冒険者同士のやり取りをするようになった。
――濃密な一ヶ月だったな。
そして今日がタイムリミット。約束どおり屋敷へ戻らなくてはならない。
報告と、新たに許可をもらうためだ。――またあの街へ戻ってくるために。
問題があるとすれば――。
「……どう思う? 両親について」
「大丈夫です。説得は容易でしょう」
即答だったけど、その理由を分かってはいる。リゼとは何度も話したからな。
それでも、改めて聞いておきたかった。
「その根拠は?」
「ギルドからの推薦状があります。それから会計士に収益をまとめさせた書面。そして私が、リーネの戦いぶりを報告します」
リゼは淡々と続ける。
「森での立ち回り、撤退の判断、危険回避の嗅覚。どれも身についています。実戦で戦えている。生き延びるための工夫をしている。その事実を、私は見ています」
「たった一ヶ月だけど、様になってきたってことかな?」
「騎士にはほど遠いです。ですが、従騎士として戦場に出せるだけの腕前にはなりました。冒険者を続けるには十分すぎるでしょう」
分かっていたことだが、それでも口に出してもらうと安心する。
なら、どんと構えていたほうがいい。不安な態度を見せれば、それが理由となって止められるかもしれない。
……ただ、リゼにとっては別の事情があることも俺は知っている。
「なら、胸を張っておく。でも、それとは別にリゼが俺を冒険者にしたいってのもあるだろ? ……屋敷だと、楽しめないからね」
言い切った瞬間、リゼの耳がほんのり赤く染まる。
いつもの鉄面皮は崩れないが、顔色だけが変わるのが面白い。
「……休憩は終わりです。進みましょう」
「返答がないのは、それが答えだと受け取るよ」
「……」
リゼは無言で馬を走らせる。それを見て、思わず笑みが浮かぶ。
手綱を握り直し、馬の腹を軽く蹴ると、再び風が前から押し寄せてきた。
グレインフォールの街並みが背中側へ沈み、前方には家へ続く道がまっすぐに伸びている。
リンデベルク家の屋敷が見えてきたのは、日がまだ高いうちだった。
門へ近づくにつれて、道端の草は踏み固められ、空気の匂いまで変わっていく。たった一ヶ月離れただけだというのに、妙に懐かしい。
門番がこちらに気づき、慌てて姿勢を正す。俺とリゼという女二人連れは目立つのだろう。顔を合わせて短く言葉を交わせば、門はすぐに開いた。
厩へ回ると、使用人が駆け寄ってくる。
今日帰ることは事前に連絡してある。馬から降りたあとは任せればいい。
「お帰りなさいませ、リーネお嬢様」
「ご苦労。後は任せる」
意識して声を出せば、声色はちゃんと貴族のそれに切り替わる。
冒険者としての言葉遣いや仕草を、使用人に見せるわけにはいかないからな。
厩から進み、玄関前の石段で一度だけ息を整える。
背筋を伸ばす角度や足の運び、視線の置き方を意識する。
冒険者としてやっていきたいからこそ、だらしない姿は見せられないからな。
隣のリゼを見ると、こくりと頷いた――大丈夫という判定だ。
それを受け取り、一呼吸して扉に手を掛ける。
押し開いたその向こうに――両親がいた。
父、アルベルト。
母、エレオノーラ。
玄関で待っているというより、最初からここで迎えると決めて立っていたかのようだ。
――待っていてくれた。
優しい目を見た瞬間、それが分かってしまった。
胸の奥がふっと温かくなる。張り詰めていた何かが、音を立てて緩んでいく。
笑っていいのか分からないまま、俺は自然と頭を下げた。
「戻ってまいりました」
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥に形容のできない感情が満ちる。
父が一歩前へ出る。
オーバーに抱きしめたりはしない。けれど、その声色はどこまでも柔らかい。
「よく帰ってきた」
母もほっと息を吐いた。目尻が優しく緩む。
「無事で何よりです。……顔つきが、少しだけ強くなりましたね」
俺は何も言えなくなる。
余計な言葉を口にすれば、この温かい空気を壊してしまいそうで怖かった。
……でも、それでいい気もした。
「積もる話も、これからの話もあるだろう。その前に部屋へ戻り、休みなさい。疲れが顔に出ている」
「まずは身体を休めて。それから、ゆっくり聞かせてください」
両親の言葉に、俺は短く頷く。
「はい」
それだけで十分だった。
扉の内側へ足を踏み入れると、床板が微かに鳴いた。
その音を聞いた瞬間、深い安堵が胸に落ちてくる。
――やっぱり、この家も俺の家なんだ。
今になってようやく実感した。
森の中を歩き、魔獣を狩り、金を稼ぎ、グレインフォールで暮らしてきた。
その過程があったからこそ、帰るという意味に実体が宿った気がする。
――俺はリーネ。リーネ・リンデベルクなんだ。
胸の中でそう宣言して、深く息を吸う。
魂の核は今でも日本人のおっさんだ。でも同時に、リーネであることを強く自覚している。
両親が玄関から去ると、残ったのはメイドたちだった。
「お嬢様。お部屋へ向かいましょう。リゼ様は客間へ」
対応の主となるのはクララだ。久しぶりに会ったが、前と変わらない穏やかな表情をしている。
「分かった。部屋で休む。リゼ、また後で」
「はい。では後ほど、リーネお嬢様」
リゼと別れ、クララに導かれて部屋へ向かう。
「雰囲気が変わりました。少しの時間でも、人は変わるものですね」
「そんな私を、クララはどう思う?」
「……たくましくなられた。感無量です」
「そっか」
自分でも変わった自覚はあるが、屋敷の人間ならなおさらだろう。
自室に着く。クララが前に出て扉を開けると、一ヶ月前と変わらない光景があった。
天蓋付きのベッド。机と椅子。整えられた調度品。自分が使っていたはずのものなのに、懐かしさがこみ上げる。
「少し寝る。下がっていいよ。お茶の時間に起こしてもらおうかな」
「かしこまりました。ごゆっくりお休みくださいませ」
クララが去り、部屋に残るのは俺一人。靴と衣服を脱ぎ、下着姿になってベッドに身を投げる。
緊張がほどけ、背中の芯がふわりと緩んだ。
「……やっぱりこの天蓋付きのベッド、魔道具か何かだろ」
リーネになってしまったときの朝の感覚が、ふっと蘇る。
グレインフォールのベッドでは到底味わえない感覚だ。
心地よさに身を委ねながら目を閉じれば、これからのことが頭をよぎる。
両親への報告。冒険者として生きていくためのプレゼン。
……大丈夫だとは思う。それでも、不安がゼロにはならない。色々と考えるべきこともある。
でも、まずは一休み。
――今は、帰ってきたばかりなのだから。




