私は壊れてしまった
私は、間違いを犯そうとしていた。
……いや、これは確信犯だ。
目の前には、一糸まとわぬ姿で火照った肌を晒すリーネがいる。
私の雇い主にして、守るべき対象。そして――今、私が何よりも欲するもの。
背中を拭いてもらう感触に、理性が溶け出していた。
彼女の指先が触れるたび、胸の奥で甘い痺れが広がる。それは恐怖を麻痺させ、代わりに熱い塊のような衝動を喉元まで押し上げてくる。
「終わったよ。着替えて寝ようか」
リーネの声が、この恍惚に魂を導く時間の終わりを告げようとしている。
彼女は寝間着に着替えるために、下着に手を伸ばそうとしていた。
健康的で瑞々しい肉体。だというのに、高級娼婦など足元にも及ばない淫靡さも内在している。
「……今日は、その。私のお願いを、聞いてもらえないでしょうか?」
気づいたら、そんな言葉を漏らしていた。
リーネの柔肌が、下着や寝間着という無粋な布に遮られることを、私は我慢できなかった。
すでに、理性は決壊しているのだ。私を突き動かす衝動は、ただ目の前の肉体を自分のものにするという一点のみ。
「……リゼ?」
鈴を転がすような、か細い声……。その声で名前を呼ばれるだけで、脳髄が痺れる。
可愛い……理屈など吹き飛ぶほどに、愛おしい。
白い陶磁器のような肌。熱に染まった頬。少しだけ開いた唇から漏れる吐息。
その全てが――今の私には無言の誘惑に見えてしまう。
「嫌なら、嫌と言ってください。そのときはすぐに止めます。だから……今は……」
震える声で告げ、その華奢な肩を掴んだ。
あまりにも細い。
力を込めれば折れてしまいそうなこの身体を、私が守らなければならない。私が導かなければならない。
そう思うと同時に、私はリーネをベッドに押し倒していた。
シーツの擦れる音。お互いに裸のままで、体を密着させる。
……ただそれだけで、絶頂まで導かれてしまいそうなほどの興奮が私を包む。
リーネの顔を凝視しながら、唇を少しずつ近づけていく。
私が何をしようとしているのか、リーネには分かっているはずだ。分かっていて私を跳ね除けない。
心臓が早鐘を打つのは、興奮だけじゃない。拒絶されることへの恐怖もまた存在している。
だけど――それは杞憂だった。
リーネが目を閉じた。ゆっくりと、何かを悟るように。
それは諦めの表情なのか? 違う! 受け入れるための顔に違いない!
呼吸が荒くなるのを自覚する。心臓がさらに跳ねる。
――私の想いを、リーネは受け入れてくれた!
もう止まらないし、止められない。
護衛という範疇を越えて、契約違反となりかねない暴挙だとは理解している。
でも――こんなリーネを魅せられて、踏みとどまることなんてできるはずがない!
唇と唇がさらに近づく。互いの吐息が混ざり合う距離。
長い睫毛が震えているのが見えた。いや――震えているのは私の方かもしれない。
自他の境界が曖昧になり、この震えがどちらのものなのかすら定かでない中で、自分の唇を、震える彼女の唇に重ねた。
――触れた瞬間、脳髄が痺れた。
柔らかい――そして、熱い。
恐る恐る、啄むように口づけるたび、リーネの喉から甘い鳴き声が漏れる。
「ん……ぅ……」
その声が、私の脊髄を駆け上がり、支配欲を掻き立てる。
可愛い。たまらなく可愛い。私が触れることで、この少女が熱を帯び、とろけていく。
騎士として剣を振るう時には決して味わえない、背徳的で、とろけるような全能感。
私は唇を離し、その華奢な首筋へと顔を埋めた。
石鹸の香りと、彼女自身の甘い匂いが鼻腔を満たす。
舌先で、脈打つ動脈をなぞる。
「ひゃ、ぁ……! リゼ、くすぐった、い……」
身をよじるリーネ。
押し付け合っている胸の柔らかさが、直に私の素肌へと伝わってくる。
絹のように滑らかなどという比喩さえ陳腐になるような、形容のできない極上の感触だけがそこにあった。
私は彼女の手首を優しく、けれど逃がさないように押さえつけた。
その白い肌に、柔らかな膨らみに私の指が沈み込む。
ああ……私が主導権を握っている。
リーネは今、私のなすがままだ。
守ってあげたい。優しくしてあげたい。でも、もっと鳴かせたい。
このまま朝まで、私の腕の中で震わせていたい。
これだけで満足できるほどに興奮しているのに、これだけでは満足できないほどに昂揚している。
初めての夜だ。決してリーネに負担をかけるわけにはいかない。
自分の欲望のままに、この身体を貪るわけにはいかないのだ。
だから、ゆっくりとこの身体を楽しもう。
一度心を開いてくれたのだ。次の機会はいくらでも用意できる。
だから、無理はせずに、女としての快楽をこの体に教えるくらいで止めるべきなのだ。
天にも昇りそうな蕩ける思考の中で、それだけは守るつもりだった。
決して獣のようにはならずに、大切にこの体を扱う。
それこそが、身も心もリーネを自分のものにするために、必要なことであると考えていた。
――そう、自分に言い聞かせて、油断した。
「……リゼ。手を出すってことは、手を出されても文句は言えない。それは分かっているな?」
不意に。
耳元で囁かれた声は、先ほどまでのか弱い乙女のものとは違っていた。
甘く、粘りつくように熱く、そして――底知れない余裕を含んだ響き。
リーネは言った――これが素の自分であると。
女でありながら、まるで男のような雰囲気。大人のような余裕のある態度。
屋敷にいた時のリーネ、冒険者ギルドで話す時のリーネ。そのどれとも違う、私だけが知るリーネの本当の姿。
――でも、本当にそれが真実のリーネであると私は理解していたのだろうか?
私の首に、リーネの細い腕が絡みついていた。
蛇のようにしなやかに。けれど、鋼のように逃れがたく。
その動きに迷いはなかった。まるで、私の身体の構造を――どこをどう触れれば、鍛え上げた騎士の体幹が崩れるのか――最初から熟知していたかのような手つき。
「え……?」
戸惑う間もなく、視界が反転する。
一瞬の浮遊感――柔らかなシーツの感触が、今度は私の背中を包み込んだ。
天井が見えた。でも、見えるのは天井だけじゃない。
私の上に、リーネがまたがっている。何が面白いのか、邪悪さすら感じさせるような笑顔で私を見下ろしている。
その顔を見たとき――私の下腹部は、今まで生きてきた中で一番に強く疼き始めた。
「あとで俺の身体は楽しませてやるさ。でも、その前に……」
見下ろしてくるリーネの瞳。
そこにあったのは、怯えでも、処女の恥じらいでもなかった。
髪をかき上げ、肌を晒しながらも、獲物を見定める捕食者の目がそこにはあった。
ゾクリ、と背筋が震えた。
怖い。なのに、身体の奥が熱く疼いて、逃げたくない。
「まっ、待ってくださ……リーネ、初めては私が……あっ!?」
言葉は、甘い悲鳴にかき消された。
指が――指が気づかぬ間に私の下半身に降りてきている。
細くしなやかな指が、私の理性の防壁を容易く破壊する。
それはあまりにも的確すぎた。
私の弱点を、一つずつ丁寧に、そして執拗に暴いていく。
さっきまで私が彼女にしていたことがお遊戯になるような、そんな快楽の暴力で私の心を制圧してくる!
「随分とまあ、興奮しているじゃないか。これが今まで溜め込んできたリゼの本心か?」
リーネが私の目の前に指先を持ってくる。
薄暗い灯かりしかない部屋だというのに、粘性のある液体が糸を引いている様を、これでもかと見せつけて来た。
途端――羞恥心がこみ上げてくる。
余裕を持ってリーネを導こうとした想いは……完全にリーネによって塗り替えられていた。
「そっ、それはっ!」
「リゼには世話になっている。まずは俺が君に奉仕するというのも悪くない。せいぜい……感じてくれ」
リーネがそう言うと、視界から逃れるようにその体が沈んでいく。
でもそれは、決してこの行為から逃げるためではなかった。
「あっ、あぁっ! だめ、そこは、……うぁっ!」
快楽が全身を貫いた。
女が女であることを主張する器官が、まるで悲鳴を上げているかのようだった。
視界に何かが映っているのに、何も見えずに、真っ白に染まっていくような不可思議な感覚に支配される。
――波が来る。さざ波とは違う。大津波のような快楽が、私の頭の先まで飲み込んでいく予感。
そこに、もはや言葉は必要ではなかった。
「……うっ! あぁ!」
何も考えられず、ただ快楽が支配する空間に身を投げ出されたような、そんな感覚。
精神が浮遊するような、そんな不思議な心地の中で、声が聞こえてくる。
「……早いな。でもそれなら……何度でもだ」
――それからのことは、良く覚えていない。
リーネが私に何をしたのか。
私がリーネに何をしたのか。
まるで詳細な記憶がないのだ。
――でも、分かったことがある。
騎士としての矜持が、音を立てて崩れ去った。
代わりに芽生えたのは、与えられる快楽に溺れ、もっと欲しいと懇願する雌の本能。
私が求めていたのは、非日常的な愛や恋、そして性欲を満たすことではなかった。
――支配されること。それが私の本当の望み。
壊れかけていた私は、ついにはリーネの手によって完全に壊れてしまった。
でも、それは再生であり、再誕なのかもしれない。
私という外面だけはご立派な、人として真っ当な人生を歩めぬ不適合者にとって。
――リーネという支配者こそが必要だった。それが……私の人生での一番の発見だった。
意識が何度も白く弾ける中で……私は泣きながら、それでも歓喜に震えてリーネの背中に爪を立て続けた。
翌朝。
小鳥のさえずりが、遠い世界のことのように聞こえる。
全身が、鉛のように重い。けれど、その倦怠感すらも愛おしい。
隣には、余裕の表情で私を見守るリーネ。
その顔は、夜の出来事と、私の浅ましいあられもない姿を思い出させるには十分だった。
「……私は騎士なのに」
とっさに、視線から逃れるように体を丸め、リーネの胸に顔を埋める。
見られていることは分かっている。
それでも――視界を塞ぎ、瞼を強く閉じて自分の心の内に閉じこもると言う、子供染みた逃避をせざるを得なかった。
「リーネに、あんなこと……」
色々としてしまった。
様々なことをされてしまった。
自分が自分でなくなるような、そんな矯正をこれでもかと受け入れてしまった。
そんな記憶だけが、脳裏を埋め尽くしていく。
でも、同時に鮮烈に思い出すことが一つ――。
「こうなったら今日は休みだな。ゆっくりしよう。というか――どうせなら色街にでも繰り出すか? 俺はまだ余裕があるけど」
耳元でリーネがそう囁いた。
それだけで、痺れるような快感が耳から頭へ、そして全身へと広がっていく。
あれだけ乱れたというのに、下腹部にまた――熱が灯ることを自覚する。
――逆らえない。
リーネの胸に埋めていた顔をばっと上げ、おそらくは涙目の真っ赤な顔で、私はコクコクと何度も頷いた。
「お願い……します……」
私は壊れてしまった。
リーネという少女に――身も心も、甘く、壊されてしまったのだ。




