初めての戦い
ブルタスクの死骸の処理を終えて、森の見回りを再開する。
間引きとはいうが、ゲームのお使いクエストでエンカウント待ちしているみたいだな。と、思った時。
――エンカウントとは違う、次のイベントが起きた。
「これは……悲鳴ですね」
「悲鳴? そんなの……いや、これは」
聞こえる。確かに悲鳴だ。
言葉になっていない。喉を擦り切るみたいな叫びが、木々に砕けて反響する。
「リゼ」
何かが起きている。なら、俺たちはどうするべきか?
問うような視線を向けると、臨戦態勢のリゼが、逆に問うてきた。
「逃げてもかまいません。森の中に入れば、全ては自己責任ですから」
リゼは剣の柄に手を掛けている。
行くか、それとも引くのか。俺の答え次第で、その剣を抜くつもりだ。
……リゼが戦いを否定していない。それなら――。
「行こう。リゼならなんとかできるんでしょ? 私は自分の身を守ることに専念するから」
「……いいでしょう。付いてきてください!」
リゼは声のする方向へ駆けだしながら剣を抜いた。
俺も剣を抜き、後を追う。さっきまでレベル上げだのなんだのと遊び気分だったのに、そんなノリは一瞬で吹き飛んでいた。
――動揺しては駄目だ。本気で心を鎮められるような、そんな魔法を掛けるしかない。
胸の中央に意識を落とす。
吸って、吐く。心臓の音を数える。
必死にリゼを追う体と、緊張と怯え混じりの心を切り離すように、自分に指示を出す。
怖くていい。そのままでいい。
怖いまま、冷静でいろ。
そう命じる声を、自分の奥に刺す。
瞬間――視界がいっきに澄んだ。
木々の輪郭がくっきりする。悲鳴の来る方向も、リゼの背中を追う視線も、足運びも、全部が一本の線に揃っていく。
今までで一番深い『集中』だ。それに『身体強化』を上乗せする。準備は万全――そう思った時、森がぱっと開けた。
「……っ」
小さな狼型の魔獣が二体いた。
体格は普通の犬よりひと回り小さい子犬程度。だが目だけが異様に大きく光っている。まだら模様で逆立つ毛並み。口の周りは真っ赤だ。
グリムパップ。
解体場で散々相手をした魔獣が、今は生きてそこにいた。
一体は、倒れている男の足に喰らいついていた。というより、地面に押さえつけている。
小型魔獣とはいえ、見た目以上の力なのだろう。男の足はふくらはぎから膝にかけて肉が抉れ、骨が覗いている。
男は歯を食いしばり藻掻いているが、痙攣のたびに呻きが漏れた。
二体目は少し離れたところで警戒するように、足に食らいつく仲間を見ているようだった。
その傍に一人の男がいた。
肘から先がない。左腕をごっそり持っていかれたらしい。目は泳ぎ、剣はとうに手放している。
「……くそ」
吐き捨てる暇もなく、警戒している方のグリムパップがこちらを見た。
目が笑っているように見える。人間を見つけた、とでも言いたげに、口の端から肉片を垂らしながら鼻を鳴らした。
「リーネは下がって――」
そんなリゼの声が耳に届いたが、俺の体はすでに前に出ていた。
リゼはあくまで俺の身が最優先。すぐに斬りかからず、周囲に他の敵がいないか警戒しているのが分かる。
他に敵がいて、護衛をおろそかにしたら本末転倒だ。だからこその様子見だ。
なら――俺が前に出るしかない。
頭は冷えている。藪の中に他の気配はないと、研ぎ澄ませた五感が告げている。
それを確認した瞬間、足は勝手に前へ踏み出していた。
すでに俺の頭の中から、ただの恐怖は消えている。残っているのは、このグリムパップを撃退するにはどうしたらいいかという戦術的思考だけだ。
「……どけ」
男の足に喰らいついているグリムパップへ、駆け抜けざまに剣を振り下ろした。
骨を叩き割る手応え。短い悲鳴。
子狼みたいな体が地面を転がる。一瞬だけ視線を落とすと、首筋に入った刃が頸椎ごと断ち切っていた。
何度も練習した技が、完全にこの場で再現される。それに『身体強化』は完璧に作動し、本来ならあり得ない能力をこの体に与えていた。
自分でも惚れ惚れする技の冴えだが、感傷は後回しだ。踏み込んだ足をずらし、地面を蹴る。
同時に、残ったもう一体が、こちらへ飛び込んできた。
飛ぶような動き。俺の首筋を食い破ろうとしているに違いない。
だが、それはすでに読めている。
思考を越えた反射に近い領域で体が動いた。低く構えた体が地面すれすれを滑り、グリムパップの牙を避ける。
視界の端で、牙が頭上を掠めていった。その瞬間、敵の懐に完全に入ったと理解する。
滑るみたいに前へ駆け抜け、すれ違いざまに剣を横へ滑らせた。
グリムパップの腹を狙って刃を通す。皮を貫き、肉と筋を裂く手応えに加え、内側の柔らかいものを断ち切る感触が手首に走る。
斬った。そう確認した瞬間、すぐさま敵の様子を確認する。
グリムパップの体が地面に落ちた瞬間だった。はらわたが飛び出し、大量の血が地面に広がる。
明らかな致命傷――しかし、グリムパップはまだ生きていた。
殺意に歪んだ目が、なおも俺を貫く。
が、次の瞬間、金属音が鳴った。
剣が閃き、グリムパップの首を刎ね飛ばす。リゼだ。俺のカバーに入ってくれたらしい。
「……はぁ、っ」
――ちっ。自己暗示の効き目が落ちたか。
膝が笑い、手が震えているのが分かる。
遅れて恐怖が追いついてくるってのは、こういうことか。
「リーネ」
リゼがこちらを見る。叱られるかと思った。勝手に飛び込んだ、と。
けれど彼女は短く息を吐き、首を横に振った。
「止める余裕は、ありませんでした。それに今のは……必要な一歩でした」
リゼが視線を向ける先には、攻撃を受けた冒険者たちがいる。
足をやられた男は汗と涙と泥でぐしゃぐしゃだが、まだ目の奥に光が残っている。
腕をやられた男は呆然としたまま。目は開いているのに、何も見ていない。口元だけがかすかに震えていた。
……そっか、必要か。
その言葉が、心臓のあたりに刺さったような気がする。
俺としては状況の精査はしたつもりだが、リゼにとっては勢い任せに見えたかもしれない。
それでも、その行動を必要な一歩と――リゼはそう呼んだ。
俺は手の震えを、剣と一緒に柄の中へ押し込む。
そして、倒れている冒険者たちのほうへ向き直った。
「大丈夫か」
足をやられたほうの男が、荒い息の合間にこちらを見る。
汗と涙と泥でぐしゃぐしゃだが、目の奥にはまだ光が残っている。
「た、助かった……のか……」
「ああ。グリムパップは私が斬った。今のところ他に敵もいない」
こっちの男は大丈夫だ。ひどい傷だが、意識はしっかりしている。
問題なのは腕を失った男のほうだ。完全に虚ろ。
目は開いているのに、何も映していない。喉の奥で、ひゅうひゅうと空気が擦れる音だけがする。
駄目だこれは……完全に心ここに在らずだ。
本当はこういう形で使う予定じゃなかったけど、仕方ない。
――深呼吸。練っていた魔法を、初めて他人に使うための心の準備。
精神操作は他人にも使える。
自分用とは違う形で、心に作用させる魔法を組む。
――まだ終わっていない。この場から去らなければ。
――怖くていい。でも、今を認識しろ。現実から逃げるな。
――心を強く持て。まだ死ぬと確定していない。
そんなイメージを、男の顔を覗き込みながら流していく。
まるで俺の正気を分け与えているみたいだ――そう思った瞬間、男の瞳に光が宿った。
「お……俺は……」
「まずは応急処置だ。そうしたら逃げるぞ」
「分かっ……た……」
これならなんとかなりそうだ。
初めて他人に使った精神操作……今のところは、うまく機能している。
「リゼ! 応急処置を頼む!」
「足をやられた彼の処置は今終わりました! 腕をやられた方は――」
リゼの指示が飛ぶ。こんな時でも冷静沈着。
俺とは違い、心を操作しなくてもこれだ。憧れちゃうね。
そんな軽口が頭に浮かぶなら、俺もまだ大丈夫だろう。我ながら思っていた以上に、図太い神経をしているらしい。
やがて応急処置が終わり、俺は腕を失った男の背中を支える。
呼吸のリズムを整えるように、ゆっくりと言葉をかけ続けた。
「あんたの名前は?」
しばらくして、かすれた声が返ってくる。
「……クリフだ。俺は……くそっ!」
悪態をつけるなら十分だ。
「クリフ。死にたくないなら、ここで踏ん張れ。痛いのは分かる。でも、生きて街まで戻らなければ、助かったことにならない」
その言葉を聞いて、クリフが小さく頷く。
体を支えるようにして立たせると、なんとか両足で立つことができた。
あとは、足をやられた男を背負って行けば――そう段取りを組みかけた時。
「群れだ……」
思考を遮るように、足をやられた男が苦しそうに絞り出した。
「まだ……いる……もっと奥に……。グリムパップが……たくさん……」
その言葉と同時に、森の奥から低い唸りが聞こえた。
遠吠えではない。喉の奥で転がすような、獲物を前にした獣の声。いくつも重なっている。
リゼが顔を上げる。瞳の色が、一段深く沈んだ。
「撤退します。私一人ならなんとかなるかもしれない。しかし――それだけです」
クリフたちだけじゃない。俺の命も危険ってことだ。
となれば、とんずら一択。すぐに退かねばならない。
森の奥から、また唸り声が重なる。
俺はクリフの肩を支えるように腕を回した。
「行こう。まだ終わってない」
自分に言い聞かせるように呟き、帰還のための一歩を踏み出した。




