初めての魔獣討伐
森の入り口は、街より数度冷たかった。
同じ朝の空気なのに、葉と土が水分を抱え込んでいて、吸い込むと胸の奥までひやりと抜けていく。
解体場の生ぬるい臭気に慣らされた鼻が、この清浄すぎる空気に戸惑っているのかもしれない。
「足元に気を付けてください」
先に立つリゼの声は、いつもより低い。
これが戦いに赴く時のリゼなんだろう。神経を研ぎ澄ませて周囲に気を配っているのが分かる。
装備は二人とも同じものを持ってきている。
防具はハードレザーの胸当て。革製だが、簡単に刃が通らないほどに硬い。
そして剣と剥ぎ取り用のナイフを腰に下げ、バックを背負う。戦いとなれば邪魔になるが、その辺りに投げ捨てればいいという判断だ。
刈られていない草が膝に触れる。靴に当たる小枝が折れて、乾いた音を残していく。
そのたびに神経が跳ねるのを、深呼吸でなだめながら歩いていく。
「リゼは森での討伐って慣れてるんだよね?」
「魔獣討伐も騎士の務めでしたから。実家でも、騎士団にいた時にも討伐任務はありました」
背中越しの返事は短いが、迷いがない。
リゼの実家は俺と同じ代官家だ。さらに杖騎士であるリンデベルクと違い、武器を使う剣騎士の家系だ。
領地保全はお手の物。となれば大いに頼りになるぜ。
「魔獣は人を恐れません。普通の獣なら、こちらの気配で逃げることも多いのですが」
「魔獣は、むしろ積極的に襲い掛かってくるんだったね」
「はい。理由は判然としませんが、人の持つ魔力に反応しているのではないかという説が有力です」
「魔力に、ね」
俺は自分の体の内側を意識した。ほのかな温かさが体の内側にある。
これが魔力なら、森の中では俺自身が歩く誘蛾灯みたいなものかもしれない。
「猟師の罠待ちスタイルじゃ足りないわけだ。向こうから仕掛けてくるなら、剣を構えて迎撃したほうが早い」
「ええ。狩るというより、狩りに来るものを押し返す防衛戦だと考えたほうが実態に近いでしょう。だから間引きなのです」
森の中では人間は狩るのではなく、狩られる側。
その理を跳ね返すには、魔獣を傷つけられる武器と魔法がいるってわけだ。
――鳥の羽ばたく音が耳に入る。
その直後、バキバキ、と枝がまとめてへし折れる音が聞こえてくる。
「止まってください」
言われたとおり、足を止める。
藪の向こうで、何かが鼻を鳴らしている。
次の瞬間――緑の壁が割れた。
「……でか」
現れたのは、猪の化け物だった。
肩の筋肉が異様に盛り上がっている。下がった頭から突き出した牙は太く、鋭く、ただ突き刺すためだけに進化している。
毛並みは泥と血で固まり、まるで鎧のようだ。目は赤黒く濁っているのに、焦点だけは正確に俺たちをロックオンしている。
「あれがブルタスクです」
「どう見ても勝てそうに見えないけど……」
「慣れですよ。リーネでも対処はできます。まずは――」
リゼが最後まで言い終わる前に、ブルタスクが地面を蹴った。
土が跳ねる。質量の塊が、速さまで伴って押し寄せる。
「下がってください!」
リゼが一歩前に出て、同時に剣が鞘から抜ける澄んだ音が、突進の轟音に溶ける。
その動きは滑らかで、真っ向から受けるのではなく、半身になって横にずれる。
牙の軌道を避け、すれ違いざまに刃が閃く。
ブルタスクの前足が宙を舞う。
獣の巨体が、勢いのまま前のめりに崩れ落ちた。
土を抉る音と、悲鳴のような咆哮が森の静寂を破る。
リゼは余裕のあるステップでもう一度踏み込む。
狙うのは残った足だ。そこには無駄な叫びも、息継ぎもない。事務的な解体作業のようだった。
数秒もしないうちに、ブルタスクは地面に転がる肉塊となった。四肢を失い、自慢の牙だけが空しく空を向いているが、なおも体はビクビクと痙攣していた。
「ブルタスクは体が頑強で、動いているときに仕留めるのは困難。なのでこうやってまずは動けなくします」
「それが手足を切断するってことか」
「はい。ではリーネがとどめを刺してみてください。私は万が一が起きないように見張っています」
いつでも動き出せる態勢のリゼが隣にいるなら、怖くはないか。
「……分かった。やるよ」
「今は私がいますが、この状態でも脅威が全て取り除かれたわけではありません。牙が健在ですから、うかつに近づいて首を振られたらそれが致命傷になることもあります。必ず死角から攻撃してください」
命の危険がほぼないとはいえ、怖さは消せない。
だから精神魔法を使い心をなだめ、勇気を増大させる。
……よし! やるぞ!
頷き、呼吸を整える鞘から剣を抜く。
魔力を体に回して『身体強化』が発動したのを確認して、ブルタスクの背後へ回り込んだ。
濁った片目が、ぎょろりとこちらを追うのが見え、牙が地面を擦った。
そこまで壊れても、殺意だけは衰えていないように思える。なら――。
「死ぬしかないな」
通常の動物とはまるで違う不可思議な生物――魔獣。
食うためでなく、殺すために人間を付け狙うという話だからな。
そこに人間への純粋な害意があるのなら、殺すことになんら躊躇いはない。
延髄を狙って、刃を差し込んだ。
硬い感触があるが、それは魔法による強化で押し通す。
ぶるりと巨体が震え、その痙攣は次第に収まっていく。
「死んだ……か」
「はい。初めてにしては上出来です」
リゼの声が少し柔らかくなる。
ただ剣を突き刺しただけだというのに、肩で息をしていた。
まだ精神操作を使いこなせていない証拠だな。だからこれだけ息が乱れる。
とはいえ、課題が見えたというのなら、克服していけばいいだけだ。
それに、次の仕事がすでに始まっている。
「これを解体しないとだね」
「ええ。部位ごとに分け、持ち帰れるものだけを選別しましょう」
言葉にすると簡単だが、思った以上に重労働であることを今更ながらに理解する。
作業台の上と地面の上ではやりやすさがまるで違う。
そしてブルタスクは大物だ。こいつを解体する時は、複数人で体を動かしたものだけど、今いるのは俺とリゼだけだ。
「こいつの討伐証は牙だから、まずはそれから。次に皮で、上質な肉でいいかな?」
「そうしましょう。グリムパップ数匹程度なら私が持ち運べたのですが、ブルタスクとなるとそうはいきません」
「専属の運搬屋じゃないと厳しいよね。まっ、いないんだから仕方ない。作業を始めよう」
ということで解体作業が始まる。
ブルタスクは解体場で何度も練習した相手だから勝手はわかっている。
まず牙だ。こいつが一番金になる。討伐証明だからな。
顎の付け根から刃を入れて、歯茎を切り分ける。刃を寝かせ、骨との境目を探る。
……ここだな。その場所に刃先を当てて、力を入れて押し切った。
――ぬる、と外れた。
牙は想像よりずっしりと重い。濡れた骨の冷たさが、手袋越しに伝わってくる。
リゼが無言で布を差し出した。それで泥と血を拭い、丁寧に包む。
この牙は討伐証以外にも買い取り額というものが設定されている。綺麗に剥ぎ取れればそれだけ値が付く。傷はそのまま減額査定だ。
次に皮。
これも金になる。細工屋や防具職人が買う。ブルタスクの革はハードレザーに最適だ。俺が今身に着けている胸当てもブルタスクの革製だ。
腹側から切り開いていく。背中からやると剛毛が絡みやすい。腹側は脂が厚いが、刃が入りやすい。
皮を引っ張りながら、刃を薄く滑らせる。深く入れると肉まで削れて脂がべたつき、手が滑って皮に傷が入る。
皮がある程度剥げたところで、リゼが力技で巨体を転がしてくれた。
女でもそんなことができるのが魔法の凄さだ。現代基準で見るなら、びっくり人間ショーみたいなもんだな。
そうして作業を続行し、皮と上質な部位の肉を確保する。
あの獣臭が周囲に立ち込めているし、その臭いにすでに染まってしまっているだろう。臭さこそが冒険者の証明なのかもな。
「これで十分です。残りの死骸はバラバラにして、埋めてしまいましょう」
「解体もそうだけど、そっちも大変だね」
「死骸を放置すれば、また魔獣を呼びます。間引きは森を静める仕事ですから、このままにはできません」
人を集めて本格的な間引きをするなら、死骸を複数放置して魔獣をおびき寄せるってこともするらしい。
今日の間引きは浅い場所を安全にするって意味合いが強い。だから魔獣を討伐して、持って帰れないのなら埋める必要が出てくる。
「穴は私が掘ります。リーネはさらに細かく解体してください」
リゼがバックから小さな鍬を取り出し、それで猛然と穴を掘り始めた。
凄い勢いで土が掻き出されていくが、それに負けるわけにはいかない。
急いで残りのブルタスクの死体を解体する。丁寧に切り分ける必要はないからそこそこ早い。
そうして、穴が十分な深さになったところで、解体した死体を放り込んでいく。
全部捨て終わったところで、土をかぶせて作業終了だ。
「これでよし」
「魔獣討伐は完了です。一度帰るのも手ですが……」
リゼが考え込むような仕草をしながら俺を見ている。
俺の体力を気にしているのかな? それなら大丈夫。まだまだ動けるぜ!
「疲れていないよ。もう少し森の中を見て回ろう」
「分かりました。では行きましょう」
こうして森の中の見回りを再開する。
できれば戦って、自分の力を試したい。ブルタスクはきついけど、グリムパップならなんとかなるはずだ。
そこまで考えて、ふとレベル上げって言葉が頭をよぎった。
なんだよ……結構、ファンタジーを楽しんでいるじゃないか!




