リゼに対する疑念
藁という寝具は、俺の知る限り最悪の部類にランクインした。
最初はファンタジーだ! とウキウキしていたが、その気分はすぐに消え去った。
チクチクと遠慮なく刺してくるわ、干し草の匂いは鼻について離れないわ、壁の隙間からは容赦なく冷気が忍び込んでくるわ。
薄い布をめくり上げようとしてくる風に、寝具としてのやさしさはほぼゼロだ。
そんな過酷な環境下で、俺はというと――リゼの抱き枕にされていた。
リゼの胸元に、ほぼ完全に収納されている。
最初はリゼと抱き合うの最高! と素直に思っていたし、今でも思ってはいる――いるのだが、問題が一つあった。
……力が強い。強すぎる。
肩に食い込む腕の圧力が、抱きしめるというより捕獲に近い。
魔法を使わなければ所詮ただの女――と、言い切れないくらいには、素の筋力がある。
元王宮騎士の肩書きは伊達じゃないってことか。鍛え方が違うと、女でもここまで力が出るのかよ。
肩を締め付ける腕の重さと、耳元で響くリゼのぬるい寝息。
汗と脂と解体作業の残り香。その奥に、かすかに混じる女の匂い。
シチュエーションだけ見ればご褒美だ。リゼと抱き合って寝るなんて、普通に考えたらご褒美でしかない。
……のだが、臭いと腕力が全力でそれを打ち消してくる。正直、ロマンより窒息のほうが近い。
こんなはずじゃなかった――とまでは言わないが、期待していた方向とはだいぶ違う現実を前に、なんとも言えないガッカリ感が胸に溜まっていく。
それでも、天蓋付きベッドでふかふかに眠るよりは、今のほうが生きている実感があった。
薄汚れた生活のほうが肌に馴染むのは、根っこが貧乏人だからかもしれない。
裕福な暮らしは、俺にとって未だにどこか虚構めいている。
そんなことをダラダラ考えられるくらいには、眠気は遠のいていた。
なら、今日使った精神操作魔法の振り返りでもしておくか。
仕事に身を入れるという点では、『集中』や『不屈』はやっぱり優秀だ。どんなブラック職場でも、これさえあれば問題なく働けてしまう気がする。
――ただ、その便利さが少し怖くもあった。
匂いの感度を元に戻した瞬間に、やる気が一瞬で吹き飛んだ。
今日明日はいいとしても、いずれは魔法に頼らず仕事に向き合う日が来るだろう。
結果だけ見ればよかった時期はとっくに過ぎた。過程を雑にやっていると、人生ってやつは容赦なく、手にしたはずの富や関係を剥ぎ取りにくる――それくらいのことは、前の人生で嫌というほど味わった。
せっかくの二周目だ。なら、その教訓くらいはちゃんと活かしたい。
とはいえ、精神操作魔法なしで今の自分を維持できるかと言われると、それもまた難しい。
こんな体になっても、俺がまだ俺でいられるのはなぜか? たぶん俺は、精神操作で自分の人格をコーティングしているのだ。
魂に魔力の膜を張って、少女の肉体に溶けて崩れないようにしている。
いわば、俺でいるための楔が精神操作魔法――そんな感じだ。
――皮肉な話だ。
日記の中で禁忌とまで書かれていた力が、今は俺のアイデンティティの支えになっている。
これがなかったら、もっと簡単に流されていたかもしれない。
女の体の感性に馴染みすぎて、都合よく言い訳しながら、心の中身ごとリーネになっていた可能性だってある。
……いや、それも一つの幸せの形か。
あの屋敷にいる限り、豊かな生活は保証されている。
けれど、それはどう考えても俺好みの生き方じゃなかった。
自由に、好き勝手に生きる。
そう目標を立ててしまった以上は、その方向に全力で突っ走ってみたい欲望が確かにある。
そして――どうしても考えてしまう。
俺と入れ替わった本物のリーネは、今ごろどうしているのか?
俺という存在を認識したうえで、肉体を交換したのか? 全てを覚悟していたのか?
仮に覚悟の上だったとして、あの繊細な少女の精神が、現代日本なんて環境に耐えられるのか? 壊れる前に順応できるのか?
……考えても無駄だ。
知る術はないし、知ったところで何かが変わるわけでもない。
そんなことをいつまでも考えて、睡眠時間を削ってしまえば、明日に差し支える。
無理やりにでも寝よう。
精神操作で自分を眠らせることなんて、やろうと思えば造作もない。
そう決めて呼吸を整え始めたところで、リゼの腕がビクンと跳ねた。
ぎゅぅぅ、と肺の空気を絞り出すような力で、さらに抱きしめてくる。正直、かなり苦しい。
俺はあえて脱力した。体の硬さは怪我を呼ぶ――それはリゼ直伝の教えだが、こういう状況も似たようなものだろう。無理に動けば、余計に締め付けが強くなりそうだ。
それに、逃げ場のないこの感覚は、嫌いじゃなかった。
支配され、守られ、所有される安心感。
力強い何かに、全部を預けてしまいたくなるような、不思議な心地よさが胸の奥に生まれている。
……やっぱり俺、どこか壊れてきてるな。
たぶん、この体の本能のせいだ。だからといって、それに丸ごと屈するつもりもないが。
エゴの補強でもしておくか――そう思って、自分に精神操作を掛けようとしたとき。
耳元で、リゼが喉を鳴らした。
「……んっ、だめ……これは……」
やたら甘く、切羽詰まったような寝言だった。
正直、めちゃくちゃ興奮する。なんだその声は。
「あなたは……私の……」
熱を帯びた、情けない吐息と一緒に、その言葉が零れた。
あなたって誰だよ……もしかしなくても俺か? もしそうなら、どういう意味だ、それ?
同時に、締め付ける力がさらに増した。やたら粘着質で、熱っぽい吐息が体にまとわりつく。
……少しだけ、リゼに対して疑念が湧いた。
別に、彼女が俺を裏切ると思っているわけじゃない。これからも信頼はするつもりだ。
ただ、信頼と信用は違う――そんな考えが、頭の隅にこびりついた。
……まあいい。今日はもう疲れた。考えるのはここまでだ。
精神操作でさっさと寝るに限る。頭を使うのにも、そろそろ飽きてきたしな。
私は、一体どうなってしまうのだろう?
腕の中に収まるリーネの、華奢な肩の感触を確かめながら、底なしの自己嫌悪に沈んでいく。
護衛としてリーネと一緒に冒険者をやることになった。
初日である今日は冒険者らしいことはせずに、解体作業をしていただけだが、それでも忘れかけた技量を取り戻すという意味においては悪くない時間だった。
リーネも飽きれるほどに熱心で、最後まで仕事をやり遂げていた。そこはまさに自分が見込んだ通りで、誇らしささえ感じていた。
だが問題があった。それは……風呂に入った時だ。
私も初めて見たその裸だけど……芸術品のように美しくもあり、そして艶めかしかった。
少女が今まさに女になろうとしている。そんな体だった。
可憐で、儚くて、今にも壊れそうな硝子細工。
最初はそう思っていた少女が、溢れんばかりの肉感を持つ体になっていたのだ。
それを認識した瞬間――胸の奥がざわつき、下腹部に重い熱さが溜まる。
おかしい。狂ってる。
私は護衛だ。先生だ。分別ある大人だ。
こんな、獣のような欲情を向けていい相手じゃない。
だというのに、今――私はこうして、藁の上で彼女を抱きしめている。
寒いから。護衛のため。狭いから。
理由はいくらでも用意できた。理由が多ければ多いほど、やましさが誤魔化せると思った。
だが、嘘だ。
私はただ、触れたかっただけだ。
この柔らかい体を、私の腕の中に閉じ込めたかっただけだ。
腕に力が入る。
リーネの体温が、薄い服越しに伝わってくる。柔らかい胸の膨らみ、細い腰のくびれ、折れそうなほど華奢な背中。
そのすべてが私の支配下にあるという事実が、脳髄を痺れさせる。
――いい匂いがする。
魔獣の臭いがまだ抜けていないのに、私の鼻腔には、彼女特有の甘く、ミルクのような香りが充満している。
首筋に顔を埋めて、思い切り吸い込みたい。この白い肌に、私の痕跡を残したい。
痛みで歪む顔が見たいのか、快楽で蕩ける顔が見たいのか、自分でももう分からない。ただ、彼女の中身を暴いて、ぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたいという衝動だけが暴れている。
ああ、汚い。自分の思考の醜悪さに吐き気がする。
王宮での過ちを、何も反省していない。あの時もそうだった。恋をしていたって? 違う! 結局は自分の性欲を満たしたかっただけだ。
そしてまた、同じことを繰り返そうとしている。今度は、こんな無垢な少女を相手に。
リーネが身じろぎをして、小さく息を吐いた。
その振動が私の胸に伝わり、電流のように背骨を駆け抜ける。
ダメだ。これ以上密着していたら、理性が焼き切れる。
「……んっ、だめ……これは……」
口から漏れたのは、制止の言葉か、それとも懇願か。
私の手は、リーネの背中を愛おしむように、這うように撫で回している。
守っているという言い訳が強くなるほど、その裏側に張り付いた欲望が、粘着質な舌なめずりをする。
「あなたは……私の……」
思わず出たその言葉。
私の……何? その後に続く言葉は一体に何なのか?
自分でも分からないその言葉の先を知り得る機会があるとしたら?
機会? もし、機会が増えたら?
これからも冒険者として、二人きりで旅を続けて。
汚い宿で、疲労と寒さを共有して、当然のように肌を重ねて眠る日々が続いたら?
その時、私はいつまで先生の仮面を被っていられるのだろう。
仮面が割れたその下から出てくるのは、騎士でも教師でもない。
ただの、飢えた獣だというのに。




