七話 恋せよ乙女
とある国に滞在していた頃、俺たちは港町の外れにある小さな宿屋を根城にしていた。
潮風に晒された木造の建物で、壁は薄く、夜になると隣室の寝息や、階下の酔客の笑い声まで聞こえてくる。食事は安く、部屋は狭い。けれど、日雇いで稼いだ金で泊まれる宿としては十分だった。
その夜も、俺たちは仕事を終えて遅くに部屋へ戻った。
小さな机に、宿の主人が置いていった夕食の名残がある。薄いスープの匂いと、冷えたパンの欠片。窓の外では、港に停泊した船の綱が、風に鳴っていた。
エリシアは椅子に腰を下ろし、旅鞄から数冊の書物を取り出して机へ置いた。
その仕草も、もう見慣れたものだった。
「今日、中央区の古書店で面白いものを見つけたの」
そう言って彼女は、薄い冊子を開いてみせる。
地方術式の断片をまとめた写本らしい。俺には文字の意味まではわからないが、彼女の目が少しだけ輝いているのはわかった。
「この国の術は、表向きの魔法とは考え方が違うの。力をぶつけるんじゃなくて、流れを変えるというか」
疲れているはずなのに、そういう話をする時のエリシアは、少し饒舌になる。
「たとえば戦う時も、正面から押し切ることばかり考えるんじゃなくて、相手の動きや土地の流れを見て、先に形を整えておく方がいいのかもしれない。復讐のことも同じで」
そこで彼女は一度、言葉を選ぶように口を閉ざした。
「同じって?」
俺が聞くと、エリシアは机の上で指を組み、少し考えてから言った。
「私は、ただ突っ走るだけじゃ駄目だと思ってる。強くなるのも、追いつくのも大事。けど、その先をちゃんと見ないといけないって」
「その先?」
「うん。復讐を果たした後、自分たちがどう生きるのか、とか」
その言葉に、胸の奥で何かが引っかかった。
俺は壁にもたれたまま、黙って彼女を見た。
エリシアはそんな俺に気づいていないのか、あるいは気づいていても構わずに続ける。
「私は、もう復讐のことだけを考えて生きるのは違うと思うの」
静かな声だった。
責めるつもりなど、たぶん彼女にはない。
何故かは、分からない。
分からないが、苛つく。
「違う、ね」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
エリシアが顔を上げる。
「アルト?」
「お前は、そう思えるんだな」
「どういう意味?」
「そのままの意味だよ」
笑うつもりで、うまく笑えなかった。
「お前はすごいよな。どこへ行っても覚えるのが早いし、魔法も術もすぐ自分のものにする。人にも認められる。先生にも、王にも、旅先の術者にも。だからそんな余裕のあることが言えるんだ」
「余裕なんて」
「あるだろ」
思ったより強い口調になった。
自分が何を言っているのか、わからなかった。
エリシアに苛立ちを覚えた。
エリシアが目を見開く。
「お前は前に進める。けど俺は違う」
口を開いたら、止まらなかった。
「剣しかないのに、その剣だってお前ほど上手くいくわけじゃない。お前が本を読んでる間、俺はひたすら振って、打たれて、ようやく少し身につく。それでも追いつけるかわからない」
喉が熱い。
ずっと奥に溜まっていたものが、勝手にせり上がってくる。
「追放された時だってそうだ。結局、置いていかれたのは俺だった」
「アルト、それは」
「なんだよ」
俺は彼女を睨んだ。
「違うって言うのか?お前は残った。でも、それはお前が選べたからだろ。俺は選ぶ事も出来なかった」
「そんな言い方」
「お前、俺のこと馬鹿にしてるだろ」
言ってしまった瞬間、部屋の空気が凍った。
エリシアの顔から色が消える。
「何を言ってるの?」
「図星か」
「違う!」
初めて、彼女がはっきり声を荒げた。
けれど、その怒りすら俺には別のものに見えた。
俺を諭そうとする、正しい側の怒りに。
「違わないだろ。お前、いつも言うじゃないか。落ち着いて考えろとか、先を見ろとか、力をつけろとか。そうやって俺が間違ってるって顔して」
「そんな顔、したことない!」
エリシアが立ち上がる。
椅子が大きな音を立てた。
「私は一度だって、貴方を見下したことなんてない!」
「嘘だ!」
俺も叫んでいた。
気づけば足元の椅子を蹴っていた。
木が床を擦る鈍い音が、狭い部屋に響く。
エリシアの肩がびくりと震えた。
それを見て、どこかで自分が最低だとわかっていた。
それでも、もう止まれなかった。
「だったらなんでそんなこと言えるんだよ! 復讐のことだけを考えるのは違う?それで生きてきたのは誰だよ!俺たちだろ!」
「だからって、それしかないまま生きるのは嫌だって言ってるの!」
エリシアの頬も赤くなっていた。
怒っているのか、泣きそうなのか、自分でもわからない顔だった。
「私は、復讐のためだけに全部を捨てるのは嫌! それで生きて、それで終わるなんて嫌なの!」
「じゃあ忘れろって言うのか」
「そうじゃない!」
「同じだろ!」
「同じじゃない!」
エリシアは一歩、俺に詰め寄った。
「貴方はどうして、そうやってすぐ全部か何もかで考えるの!私は忘れろなんて言ってない!ただ、復讐しかない人生にしたくないって言ってるの!」
「お前は簡単に言えるよな!」
「簡単じゃない!」
その声は、悲鳴みたいだった。
「簡単なわけないでしょう!私だって苦しいよ!離れたくないものもある!なくしたくないものもある!それでも前に進まなきゃいけない!」
「なくしたくないもの?」
思わず聞き返す。
エリシアはそこで、口を閉ざした。
けれど、もう遅かった。
熱くなったままの勢いで、彼女は続ける。
「私は」
その言葉の先が、うまく出てこないのが見て取れた。
俺も黙る。
部屋の中には、外から聞こえる波の音だけがあった。
エリシアは俯き、両手を強く握りしめている。
白い指先が震えていた。
「私は、貴方と」
そこで、彼女の顔が苦しそうに歪んだ。
その瞬間だった。
俺にはわからなかったが、彼女の中で何かが繋がったのだと思う。
過去のどこかの言葉と、今の胸の痛みが。
エリシアが、ゆっくりと顔を上げた。
瞳が揺れている。
でも、まっすぐ俺を見ていた。
「私は、貴方と一緒に生きたいの」
胸の奥が、どくんと鳴った。
彼女は自分でもその言葉に驚いたみたいに、一瞬だけ目を見開いた。
けれど、次にはもう止まらなかった。
「復讐のことだけじゃなくて、もっと先、その先も、貴方と歩きたい。離れたくない。貴方が傷つくのも、いなくなるのも嫌。どうしてそんなに嫌なのか、ずっとわからなかったけど」
掠れた息を吸い、エリシアは叫ぶように言った。
「だって私は、貴方が好きだから!」
世界が止まった気がした。
さっきまで燃え盛っていた怒りも、喉までせり上がっていた言葉も、全部が一瞬で吹き飛ぶ。
残ったのは、信じられないものを聞いた時の、あの空白だけだった。
「は?」
間の抜けた声しか出なかった。
エリシアも真っ赤になっていた。
耳まで赤い。
けれど、もう引き返せないとわかっている顔だった。
俺は何か言わなきゃいけないと思った。
でも何一つ出てこない。
頭の中が真っ白で、胸だけがうるさいほど鳴っている。
「もういい」
ようやく出た言葉は、それだった。
自分でも何が“もういい”のかわからなかった。
ただ、その場に立っていられなかった。
俺は彼女から目を逸らし、そのまま部屋を飛び出した。
背後でエリシアが息を呑む気配がしたが、振り返れなかった。
階段を降り、宿を出る。
夜の潮風が、火照った顔を容赦なく打った。
好き。
エリシアが、俺を。
ありえない、と思った。
でも、あの顔で嘘をつけるはずがない。
なら、俺はどうなんだ。
そこまで考えて、足が止まりそうになる。
考えたくなかった。
考えた瞬間、今まで押し込めてきたものまで、全部ひっくり返りそうだったからだ。
その夜、俺は宿へ戻らなかった。
翌朝になっても、戻らなかった。
港を歩き回り、人気のない岩場に座り込み、剣を振って、また歩き、考えて、考えないようにして、それでも結局、頭の中にはエリシアの叫びだけが残っていた。
そして翌日の夕方、ようやく俺は宿へ戻った。
扉を開けると、部屋の中は静かだった。
エリシアはベッドの端に座っていた。
髪は少し乱れ、目の下にはうっすらと影ができている。たぶん、ほとんど眠れていないのだろう。
俺が入ってきた瞬間、彼女の肩が大きく揺れた。
けれど、すぐには何も言わなかった。
俺も何も言えない。
扉を閉め、少し離れた自分のベッドに腰を下ろす。
沈黙が落ちた。
気まずい。
重い。
けれど、逃げたあとの沈黙は、喧嘩の最中のものとは違っていた。
先に口を開いたのは俺だった。
「悪かった」
掠れた声だった。
エリシアが、ゆっくり顔を上げる。
「私も、悪かった」
「いや、俺が悪い」
「違う、私が悪いの」
「俺だって言ってるだろ」
「でも、先に変な言い方したのは私」
「最初に怒鳴ったのは俺だ」
「でも、私も怒鳴り返したし」
「俺が悪いって言ってるだろ!」
「だから、私が悪いって!!」
そこでふと、どちらともなく言葉が止まった。
次の瞬間、エリシアが小さく吹き出した。
「何で喧嘩になるの?」
俺も思わず笑ってしまった。
笑うつもりなんてなかったのに、一度緩むと止まらなかった。
さっきまでの張り詰めた空気が、少しずつほどけていく。
エリシアは笑いながらも、まだ目元が少し赤かった。
その顔を見て、胸の奥がきゅっと痛んだ。
俺は一度、深く息を吸った。
「俺、昨日ずっと考えてた」
エリシアの笑みが消え、真剣な顔になる。
「お前にあんなこと言われて、頭が真っ白になって、それで逃げた」
情けないな、と自分でも思う。
「でも、考えたんだ。エリシアが、俺以外の男とよろしくやっていたら?って、そう考えると怖くて、そんなのは嫌だって。今まで、そんな事考えた事もなかった。エリシアが側にいるのがあたりまえと思っていた。そんな事を考えてたら気がついた」
エリシアが息を呑むのがわかった。
俺は彼女から目を逸らさなかった。
「俺も、お前が好きだ」
言ってしまえば、思ったよりずっと簡単だった。
ずっと昔から、そうだったのかもしれない。
ただ、それを認めたら、今までの関係が壊れそうで怖かったのだと思う。
「たぶん、かなり前から」
そう付け足すと、エリシアの顔が一気に赤くなった。
何か言おうとして、言えなくなっている。
耳まで真っ赤だ。
その反応が可愛くて、胸の奥が妙に熱くなる。
俺は立ち上がり、ゆっくり彼女の前へ歩いた。
「アルト」
呼ばれる声が、少し震えていた。
そのまま彼女の前に膝をつき、そっと抱きしめる。
エリシアの体が一瞬だけ固まる。
けれど、すぐに細い腕が俺の背へ回った。
俺は少しだけ体を離し、彼女の顔を見る。
エリシアは目を伏せていたが、逃げなかった。
だから、そっと唇を重ねた。
短く、触れるだけの口づけ。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
彼女の睫毛が小さく震えた。
もう一度。
今度は少し長く、確かめるように。
エリシアの指先が、俺の服をきゅっと掴む。
その仕草だけで、理性が危うくなる。
けれど、乱暴にはしたくなかった。
俺は彼女の髪に触れ、頬に触れ、肩に触れる。
その一つ一つに、彼女は小さく息を震わせた。
「嫌なら言え」
掠れた声でそう言うと、エリシアは真っ赤なまま、ほんの小さく首を振った。
その答えに、胸の奥が満たされる。
俺は再び彼女を抱き寄せ、唇を重ねた。
指先で、そっと服の紐に触れる。
結び目をほどく手が、少しだけ震えているのが自分でもわかった。
肩から布が滑り落ちる。
長く共にいたが、初めて見るエリシアの裸体は、とても美しかった。
その日、俺は初めて、女の体の柔らかさを知った。
目が覚めた時、最初に感じたのは、ぬくもりだった。
浅い眠りの底から浮かび上がるように意識が戻ってくる。
窓の外はまだ薄暗く、朝と呼ぶには少し早い時間らしかった。宿の外からは、港に集まる人々の遠い声と、波の打つ音が微かに聞こえている。
そして、そのすぐそばに、エリシアがいた。
俺の腕の中で、小さく身を丸めるようにして眠っている。
長い髪が乱れて頬にかかり、伏せられた睫毛は静かで、昨夜あれほど赤くしていた顔も、今は驚くほど穏やかだった。
しばらく、動けなかった。
起きた瞬間に昨日のことを全部思い出して、急に恥ずかしくなったのもある。
でも、それ以上に、こうして彼女が腕の中にいることが、まだどこか信じられなかった。
夢じゃないのかと疑うくらい、胸の内が静かに熱かった。
そっと指先で、エリシアの髪を払う。
そのわずかな触れ方だけで、彼女の瞼がゆっくりと震えた。
「ん」
小さな声が漏れる。
やがて目を開いたエリシアは、ぼんやりしたまま俺を見て、次の瞬間、一気に顔を赤くした。
「お、おはよう」
自分でも間抜けだと思う挨拶だった。
エリシアは何か言おうとして、言えなくて、結局、毛布を鼻先まで引き上げた。
耳まで真っ赤だ。
その反応に、俺まで変に緊張してしまう。
「おはよう」
ようやく返ってきた声は、小さくて、掠れていた。
沈黙が落ちる。
気まずいわけじゃない。
でも、今までとは何もかもが違ってしまって、どう振る舞えばいいのか互いにわからない。そんな種類の沈黙だった。
エリシアは毛布の中からちらりと俺を見る。
俺も見返す。
目が合う。
すぐ逸らす。
その繰り返しが、妙におかしくて、先に吹き出したのは俺だった。
「何だよ、それ」
「だって」
「だってじゃないだろ」
言うと、エリシアも堪えきれなくなったみたいに、くすっと笑った。
その笑みを見た瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。
もう大丈夫だと思えた。
昨日みたいに、互いの言葉で傷つけ合うんじゃなくて、ちゃんと同じ場所に立てていると、そんなふうに感じられた。
俺はそっと手を伸ばし、毛布の上から彼女の肩を抱き寄せる。
エリシアは少しだけ身をすくませたが、もう拒まなかった。
「今日、どうする?」
小さく尋ねると、彼女は俺の胸元に視線を落としたまま言った。
「いつも通り、働いて……それから、次の町へ行く準備を」
「いつも通り、か」
その言葉が妙におかしくて、少し笑う。
「何?」
「いや。もう“いつも通り”じゃないだろって思って」
エリシアは顔を上げ、それからまた赤くなった。
「そ、それは、そうだけど」
言葉の最後が小さくなる。
そんな様子まで愛おしいと思ってしまって、俺は自分でも呆れた。
ほんの少し前まで、俺たちの世界には復讐しかなかったはずなのに。
それなのに今は、こうして彼女が照れているだけで、胸が満たされる。
結局、その朝はいつもよりずっと遅くまで部屋を出られなかった。
宿を出る頃には日は高くなっていて、表にいた主人に妙ににやついた顔を向けられた時は、さすがに二人とも耳まで赤くなった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
それからの旅は、確かに同じようでいて、何もかもが違っていた。
朝、目が覚めた時に一番最初に探すのが、エリシアの姿になる。
市場を歩いていても、無意識に彼女がどこにいるかを気にしてしまう。
日雇いの仕事の帰り道、宿へ戻る途中で肩が触れるだけで、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
別に、劇的に何かが変わったわけじゃない。
俺たちは相変わらず金に余裕がなく、安宿と野宿を繰り返し、日中は働き、夜は鍛える生活だった。
剣を振る回数が減ったわけでも、エリシアが本を読む時間が短くなったわけでもない。
ただ、そのすべての時間に、これまでとは違う色が差した。
食事を分け合う時の沈黙。
洗い場で並んで服を絞る時間。
眠る前に小さな灯りの下で交わす何気ない会話。
どれも以前からあったはずのものだ。
なのに、今は一つ一つが妙に大切で、失いたくないものに思えた。
ある夜、宿の裏手の井戸で水を汲んでいた時、エリシアが何気なく言った。
「最近、アルト、前より少し柔らかくなったよね」
「は?」
「顔つき」
「そんなことないだろ」
「あるよ」
エリシアはくすっと笑って、桶を抱え直す。
「前はいつも、どこか張り詰めてた」
その言葉に、俺はすぐには返せなかった。
張り詰めていた、というのはたぶん本当だ。
いつも心のどこかが尖っていて、前へ前へと急いでいた。
止まったら終わる気がしていたし、少しでも気を抜けば、大事な何かを裏切ってしまう気がしていた。
でも今は違うのかもしれない。
隣にエリシアがいて、こうして笑いかけてくれる。
たったそれだけで、胸の奥にかかっていた力が、少しずつ抜けていく。
「お前こそ」
俺は水桶を持ち直しながら言う。
「前より笑うようになった」
「そうかな」
「そうだよ」
そう言うと、エリシアは少しだけ照れたように視線を逸らした。
そんな些細なやり取りさえ、俺にはひどく尊かった。
旅は続く。
山を越え、川を渡り、幾つもの国を巡る。
新しい剣に触れ、新しい術を学び、傷を負い、金を稼ぎ、また歩く。
それでも、以前とは決定的に違うものが一つだけあった。
俺はもう、復讐のことだけを考えていたわけじゃなかった。
たとえば美しい景色を見た時、最初に思うのが「いつかエリシアにも見せたい」になっていた。
たとえば温かな食事を口にした時、「今度また二人で食べたい」と思ってしまう。
たとえば疲れ切って宿へ戻った夜、彼女が「おかえり」と笑うだけで、それまでの苦労が報われた気さえした。
そんなふうに思う自分に、戸惑いがなかったわけじゃない。
むしろ、怖かった。
復讐のために生きてきたはずなのに。
あの日の炎も、血の匂いも、父さんと母さんを失った痛みも、今も消えたわけじゃないのに。
それなのに、エリシアと過ごす時間が、少しずつそれ以外の感情を俺の中へ流し込んでいく。
安らぎ。
ぬくもり。
愛しさ。
この先もずっと一緒にいたいという願い。
それは本来、手にしてはいけないもののようにも思えた。
幸せになってしまったら、何かを裏切る気がしたからだ。
ある晩、旅の途中で野営をしていた時のことだった。
焚き火の向こうで、エリシアが眠っている。
長い旅で少し日に焼けた頬に、火の明かりが揺れていた。
俺はその横顔を見つめながら、無意識に人差し指の指輪へ触れていた。
父さんと母さんの名が刻まれた指輪。
あの日、復讐を誓ってはめた指輪。
なのに今、その指輪に触れながら思い浮かぶのは、燃え盛る村ではなく、エリシアの寝顔だった。
胸の奥が、ひどくざわついた。
違う。
違ってはいけない。
そう思うのに、心は少しずつ別の方へ引かれていく。
復讐を忘れたわけじゃない。
ただ、それだけではなくなり始めていた。
エリシアと共に過ごす時間が、俺には幸せだった。
その幸せが、何よりも恐ろしかった。
気づけば俺の中で、復讐心は、ゆっくりと、けれど確かに揺らぎ始めていた。




