十六話 クロード
クロードは木剣を握ったまま、静かに言った。
「奥義を授ける」
その一言に、思わず息を呑んだ。
クロードの奥義。
道場にいた頃、誰も見たことがないと噂されていたもの。
「構えろ、アルト」
低い声に、俺はすぐに木剣を正眼に構え直した。
白い空間は静まり返っている。
エリシアも息を潜めていた。
クロードは一歩、前へ出る。
無駄のない歩みだった。
やがて剣を上段へ掲げる。
来る。
俺は全身の力を研ぎ澄ませた。
足の裏で重心を捉え、肩の力を落とし、呼吸を整える。
どこから来ても対応できるように、視線を逸らさず、クロードの中心を見る。
だが、次の瞬間に振り下ろされた一撃は、あまりにも単純だった。
ただ、真っ直ぐに。
上段から、振り下ろされる。
俺は反射的に木剣を上げ、それを受け止めた。
鈍い音が白い空間に響く。
重い。
だが、受けられないほどではない。
いや、それ以前に、何だ?今のは。
俺は目を見開く。
複雑な崩しもなければ、虚もない。
意表を突く踏み込みでもない。
ただ、真っ向からの打ち下ろし。
拍子抜けにも似た戸惑いが胸をよぎった。
「これが?」
思わず漏れた声に、クロードは何も答えない。
ただ、ゆっくりと木剣を引いた。
その時だった。
クロードの手の中にあった木剣が、淡い光をまとい始める。
輪郭が揺らぐ。
白木の色が消え、質感が変わる。
次の瞬間、そこにあったのは、木剣ではなかった。
細身で、無駄のない漆黒の長剣。
俺が何度も見てきた。
何度も憧れた。
クロードが使っていた、本物の剣だった。
息を呑む。
クロードはその剣を静かに下ろし、俺を見る。
「奥義などない」
低い声が、白い空間にまっすぐ落ちた。
俺は動けなかった。
「え?」
「今まで歩いてきた道、それがすべてお前の奥義だ」
その一言が、胸の奥へ深く突き刺さる。
クロードの目は厳しかった。
だがその厳しさの奥に、昔のような冷たさはなかった。
「お前には才がない」
昔なら、その言葉だけで心が折れていたかもしれない。
けれど今は、不思議と逃げたくならなかった。
たぶん、それが事実だと、もう知っていたからだ。
「才がないからこそ、ここまで来れた」
クロードの声音は変わらない。
「お前に才があれば、慢心していた」
その言葉に、俺はわずかに目を見開く。
「少し剣を覚え、少し勝てるようになり、それで満足していたはずだ。自分はできると勘違いし、己を疑うことをやめていた」
クロードは一歩、こちらへ近づいた。
「だが、お前にはそれがなかった」
白い空間の中で、その声だけがやけにはっきり響く。
「弱かった。届かなかった。負け続けた。認められなかった。だから、お前は歩き続けた」
胸の奥に、いくつもの景色が浮かぶ。
道場で笑われた日々。
夜明け前の素振り。
旅の中の実戦。
追放された日の絶望。
エリシアと二人で歩いた長い道のり。
「追放されてからここまで、何度も悩んだだろう」
答えなくても、クロードにはわかっているのだろう。
「迷いもした。折れそうにもなった。何が正しいのか、何のために剣を握るのか、自分でも見失いかけたはずだ」
その通りだった。
復讐にしがみついた。
エリシアに劣等感を抱いた。
怒り、迷い、泣いて、喧嘩して、それでも進んだ。
「そして」
クロードの視線が、わずかにエリシアへ向く。
「支えもあっただろう」
エリシアが小さく息を呑む気配がした。
俺は何も言えなかった。
言えなかったが、それが否定できない真実だと、痛いほどわかっていた。
「それこそが、お前を強くした」
クロードはそこでようやく、完全に俺の前まで来た。
そして、剣を消すでもなく、そのまま空いた手を俺の肩へ置く。
ずしりと重みがあった。
幻でも、思念でもなく、確かにそこにある手の重さだった。
俺は息を止める。
クロードが、肩に手を置く。
ただそれだけのことが、信じられなかった。
「我が弟子よ」
その呼び方に、胸が張り裂けそうだった。
今まで、一度だってそう呼ばれたことはなかった。
「強くなったな」
たったそれだけなのに、喉が詰まった。
ずっと欲しかった言葉だった。
認められたかった。
名前を呼ばれたかった。
剣を見てほしかった。
その全部が、たった今、この一言に込められていた。
「先生」
ようやく絞り出した声は、自分でも情けないくらい震えていた。
クロードはそれに答えない。
だが、肩に置かれた手だけは、わずかに力を増した。
「我が剣を授ける」
その瞬間、クロードの剣が強く光った。
白い空間に、鋭い光の筋が走る。
それは派手な力ではなかった。
炎でも雷でもない。
ただ一筋の、無駄のない剣の軌跡。
その光が、まっすぐ俺の胸へ落ちてくる。
俺は歯を食いしばった。
これは新しい力を押し込まれる感覚じゃない。
今まで自分が歩いてきた剣の道を、一本の線として貫かれる感覚だった。
旅の全部。
苦しみも、悔しさも、回り道も、無駄じゃなかったのだと、身体で理解させられる。
やがて光が静まる。
胸の奥に、一本の芯が通っている。
そんな感覚があった。
クロードは肩から手を離す。
その表情は相変わらず厳しい。
だが、ほんのわずかに、目だけがやわらいで見えた。
「間違った道を進む事はないと信じているぞ」
俺はゆっくり頷く。
クロードの輪郭が、少しずつ淡くなり始める。
別れが近いのだと、すぐにわかった。
「先生」
思わず一歩踏み出す。
クロードはそれを手で制した。
「剣を授けたぞ」
短い言葉。
けれど、その言い方はどこか昔よりずっと静かだった。
そして最後に、エリシアを一瞥する。
「アルトを任せたぞ」
それだけだった。
エリシアは涙を浮かべながら頷く。
クロードは静かに目を閉じた。
その姿が、白い光へ溶けるように崩れていく。
最後まで、余計な言葉はなかった。
だがその背中は、昔よりずっと近く見えた。
残されたネームタグが、一度だけ鋭く瞬く。
白い空間に、再び静けさが戻った。
俺は自分の手を見る。
木剣は、いつの間にか、漆黒の剣に変わっていた。
隣で、エリシアが静かに俺を見ていた。
俺はその視線に、ようやく少しだけ笑う。
白い空間の中央では、残る最後のネームタグが、ゆっくりと、最も深い光を帯び始めていた。
カイルの名が、静かに浮かび上がる。




