十話 セレス
真っ白だった。
上も、下も、壁も、天井もない。
あるように見えて、けれど境界の存在しない、不気味なほど均一な白。
俺は思わず刀を構えたまま、その場で身を翻した。
エリシアも呼吸を乱しながら周囲を見回している。
「どこだ、ここ」
返事はない。
さっきまで耳にまとわりついていた戦いの音が、嘘みたいに消えていた。
魔族の咆哮も、刃のぶつかる音も、魔法のうなりもない。
あるのは、自分たちの荒い息遣いだけだった。
エリシアが呆然と呟く。
「これは」
言い切る前に、彼女の服のポケットがふいに淡く光った。
エリシアが目を見開く。
次の瞬間、ポケットの中から五つの銀のネームタグが、意思を持つみたいにひとりでに浮かび上がった。
カイル
ガレス
ソフィア
セレス
クロード
あの日、追放の時に託された、あのネームタグだった。
タグは俺たちの目の前でゆっくりと円を描くように宙へ並び、そのまま白い空間の中央へ吸い寄せられていく。
まるで何かに導かれるように。
「なんだ、これ?」
俺の声は、ひどく掠れていた。
五つのタグは、白い空間の中心で静止した。
そして、そのうちの一つ、セレスの名が刻まれたタグだけが、ふっと強い光を帯びる。
白の中に、さらに別の白が灯るような、不思議な光だった。
そこから、輪郭が生まれる。
人の形が、ゆっくりと、まるで水面に映る影のように立ち上がっていく。
長い髪、涼やかな目元、整った横顔。
見慣れた杖こそ持っていないが、その立ち姿だけで誰かわかった。
「先生!」
エリシアの声が震えた。
その人影は完全な肉体ではなかった。
向こう側が透けて見える。
輪郭も時折、淡く揺らぐ。
けれど、それでも間違いなくそこにいた。
セレスだった。
エリシアの喉から、小さな嗚咽が漏れる。
「せん、せい…」
次の瞬間、彼女の目から涙が溢れていた。
セレスはそんなエリシアを見て、ほんの少しだけ困ったように微笑んだ。
「泣かないで、とは言わないわ」
その声は、記憶の中とまったく同じだった。
静かで、よく通って、どこか少しだけ柔らかい。
「でも、安心しなさい。少なくとも今、ここでは、貴女たちはまだ死んでいない」
俺もエリシアも、言葉を失っていた。
死んだはずの人が、目の前にいる。
ありえない光景だ。
なのに、不思議と偽物には見えなかった。
セレスは俺たちの沈黙を受け止めるように一度目を細め、それから淡く揺れる自分の手を見下ろした。
「驚くのも無理はないわね。先に言っておくと、私は生き返ったわけではないわ」
エリシアが涙を拭いきれないまま、震える声で問う。
「じゃあ、先生は」
「残留思念みたいなものかしら?」
セレスはあっさりと言った。
「死の直前に残った魔力、記憶、意志。その欠片みたいなものだと思ってちょうだい」
残留思念。
言葉の意味はわかる。
だが、理解が追いつかない。
「ネームタグを依代にして、最後の術式を刻み込んでおいたの。もしもの時の為にね」
エリシアが一歩、前へ出る。
「先生」
そこまで言って、続きが出なかった。
セレスはその先を聞かずともわかっているように、静かに首を横へ振る。
「残念だけれど、現実は変わらないわ」
その一言は、ひどく優しかった。
優しいのに、現実だけは決して曲げてくれない声音だった。
俺は唇を噛む。
まだどこかで期待していたのかもしれない。
この白い空間そのものが奇跡で、ならば何か一つくらい、覆せるのではないかと。
だが、そんな甘い話ではないのだと、セレスは最初にはっきり示した。
白い空間の中に、短い沈黙が落ちる。
やがてセレスは、エリシアへ視線を向けた。
「何にせよ、もう一度会えて嬉しいわ」
「私もです」
セレスは微笑んだまま続けた。
「貴方達は、必ず来ると信じていたわ。ネームタグを持ってね。ネームタグがこの場に来ると、この空間が発動する様に、ちょっとした細工をね」
セレスは、周囲の白を見回すようにゆっくり振り向いた。
「この空間は、現実世界から切り離されている。言ってしまえば、狭間。四角く区切られた、小さな隔離領域」
「じゃあ、外は」
俺が問うと、セレスはすぐ答えた。
「止まっているわ」
その言葉に、俺は息を呑む。
「正確には、この空間の周囲にある時間は、貴女たちが飛び込んできた瞬間で固定されている。魔貴族の時止めの術と、この空間の発動が一緒になったからかしら」
セレスは淡い指先で、宙へ簡単な図形を描く。
光の線が、四角を作る。
その外側に円が生まれる。
「敵は時間を止めようとした。そして、空間の発動。その結果、止まるはずだった時間の外側に、貴女たちだけが滑り込んだ」
難しい話だ。
けれど、言いたいことはわかった。
俺たちは死んでいない。
だが、助かったわけでもない。
ただ、死ぬ寸前の一瞬へ、無理やり猶予をこじ開けただけだ。
「長くは持たないわ」
俺の考えを読んだみたいに、セレスが言う。
「この空間は未完成だもの。時間は止まっているけれど、無限ではない。いずれ歪みは戻るし、現実へ引き戻される。その時、何も変わっていなければ、貴女たちはあの場所で死ぬ」
はっきりした言葉だった。
エリシアが小さく肩を震わせる。
だが、もう泣き崩れはしなかった。
代わりに、まっすぐセレスを見る。
「じゃあ、先生はそれを伝えるために?」
「それだけではないわ」
セレスの表情が、少しだけ変わった。
教師の顔ではなく、何かを託しに来た者の顔になった。
「私は見せたいの」
「何を?」
「私たちの記憶を」
その言葉に、白い空間がかすかに震える。
宙に浮かぶセレスのネームタグが、淡い脈動のように光を放った。
「最後に何があったのか。どうしてあの時、貴女たちを置いていったのか。何を思って、何を託したのか」
セレスはそこで一度、俺へ視線を向けた。
「貴方も、知るべきよ、アルト」
胸の奥が痛む。
知りたかった。
でも、同じくらい知るのが怖かった。
もし、本当に全員があの時から俺たちのことを思ってくれていたのだとしたら。
もし、追放がただの拒絶ではなかったのだとしたら。
俺は何を憎めばよかったのか。
何を支えに、ここまで歩いてきたのか。
その迷いを見透かしたように、セレスは柔らかく微笑む。
「大丈夫。貴方がここまで来た時間も、苦しみも、無駄にはしないわ」
その一言が、ひどく胸に刺さった。
エリシアは涙を拭いながら、震える声で言う。
「私、あの時、追放の時、先生に言われたこと」
「恋をしなさい、でしょう?」
先回りするようにセレスが言った。
エリシアの頬が、一瞬だけ赤くなる。
こんな状況なのに、そういう反応をするところが、少しだけ昔の彼女に戻ったみたいで、胸が締めつけられた。
セレスは、そんなエリシアを見る目をほんの少しだけ和らげた。
「貴女はちゃんと応えたのね」
エリシアは言葉を失ったまま、ただ小さく頷く。
「嬉しいわ」
セレスの声には、深い安堵が滲んでいた。
「貴女が復讐だけで終わらなかったこと。愛するものを見つけたこと。それが、どれほど救いか、貴女にはまだ全部わからないかもしれないけれど」
言いながら、セレスの輪郭がほんのわずかに揺らいだ。
時間がないのだと、直感でわかった。
エリシアもそれに気づいたのだろう。
一歩踏み出し、泣きそうな顔で言う。
「消えないで先生、まだ、たくさん」
「私は貴女の記憶の中に」
セレスは首を横に振る。
「でも、安心して。私だけじゃない」
そう言って、宙に浮かぶ他の四つのタグへ目をやる。
「この空間では、依代に残された思念が順に応じる。記憶も言葉も力も必要なだけ」
力。
その言葉に、俺はわずかに眉をひそめる。
セレスはそれを見て、小さく笑った。
「焦らないで。いきなり何かを授けるわけじゃないわ。けれど、貴女たちはここまで来るだけのものを、もう十分積み重ねてきた。その扉を、最後に少しだけ開くことはできるかもしれない」
そう言って、セレスはエリシアの方へ近づいた。
透けた手が、そっと彼女の頬に触れる。
実際には触れていないはずなのに、エリシアはびくりと肩を震わせた。
「貴女は、私の自慢の生徒よ」
その言葉に、エリシアの目からまた涙が溢れた。
「先生」
「強くなった。賢くなった。ちゃんと自分の足でここまで来た」
セレスは微笑む。
白い空間の中央に、薄い膜のような光が広がった。
それは鏡のようでも、水面のようでもあった。
表面がかすかに波打ち、その向こう側に、別の景色が滲み始める。
瓦礫。
崩れた門。
焼け焦げた石壁。
そして、荒れ果てた魔王城の中庭。
記憶だ。
セレスの、最後の記憶。
俺もエリシアも、言葉を失ってその光景を見つめた。
セレスはその隣に立ち、静かに言う。
「これは、私が見た最後の景色」
声が少しだけ遠くなる。
「貴女たちに知ってほしいの。私達の最後を」
エリシアが震える声で問う。
「先生は、怖くなかったんですか」
セレスは少しだけ目を細めた。
「怖かったわ」
俺は思わず目を見開いた。
「死ぬのは怖い。失うのは怖い。後ろに残すものがあるなら、なおさらね。でも……」
セレスは、記憶の光景の中で戦う自分たちへ視線を投げる。
「怖くても、立つしかない時があるのよ。教師として。大人として。そして、貴女たちより先を歩いた者として」
その言葉は、静かなのに重かった。
俺はようやく少しだけ理解する。
この人たちは、最初から強かったわけじゃない。
怖くない人間だったわけでもない。
怖くても、逃げられないものの前に立ち続けたから、あそこまで行けたのだ。
セレスはふっと俺を見た。
「アルト」
「何?」
「エリシアをよろしくね、とは、もう言わないわ。今の貴方は、言われなくてもそうするでしょうから」
言葉が出なかった。
俺は、そんなにもわかりやすかったのだろうか。
あるいは、この人には最初から見えていたのか。
セレスはそのまま少しだけ笑い、今度はエリシアを見る。
「そしてエリシア」
「何ですか?」
「復讐の事は、もう忘れなさい」
エリシアが息を呑む。
「貴女の中では、復讐の事は、すでに小さくなっている筈と思うわ。でもね、ふとした事で、それは顔を出すわ。ただひたすらに、幸せのみを考えて生きなさい」
その言葉は、祈りみたいだった。
セレスの輪郭が、また一段、淡くなる。
別れが近いのだと、今度こそはっきりわかった。
「先生!」
エリシアが叫ぶ。
だが、セレスは穏やかなまま首を振った。
「私はここで終わり」
視線が、宙のタグへ向けられる。
「次に呼ばれるのが誰かは、きっと貴女たちに必要な順番なのだと思う」
白い空間の中央で、記憶の膜がさらに明るくなる。
そこへ足を踏み入れれば、セレスの最期までの記憶を追体験するのだと、直感でわかった。
セレスは最後に、俺たち二人を見比べた。
「さあ、見届けなさい」
その声には、もう迷いがなかった。
エリシアが涙を拭い、俺も静かに息を整える。
セレスの言葉を、もう聞き漏らしたくなかった。
この人の最期を、目を逸らさず受け止めなければいけないと思った。
俺たちは並んで、光る記憶の膜の前へ立つ。
その時だった。
セレスが、ごく小さな声で、けれど確かに言った。
「一つ言うの忘れてたわ。結婚おめでとう。そのまま幸せになりなさい。この言葉が最後に出す私からの課題よ。いいわね?」
振り返る。
そこに立つセレスは、もうほとんど光の輪郭でしかなかった。
それでも、微笑みだけははっきり見えた。
エリシアが泣きながら頷く。
「はい」
俺も、ようやく喉の奥から言葉を押し出した。
「セレス、ありがとう」
セレスは満足そうに目を細める。
そして、その姿は淡い光となって、静かにネームタグへ溶けるように消えていった。
そして、目の前にセレスの記憶が映し出される。




