九話 潜入
それからの旅は、奇妙なほど静かだった。
魔王城へ近づけば近づくほど、魔物の気配は濃くなる。
以前、カイルたちと旅をしていた頃は、そう聞かされていたし、実際にそうだった。
魔王城へ向かう道では、魔物は強くなり、数も増える。
群れは大きくなり、知恵を持つ個体も混じり始める。
そして城の近くには、それらを統べる魔貴族がいる。
だが、今の俺たちの前に現れる敵は、驚くほど少なかった。
まったくいないわけじゃない。
森の奥で気配を感じることもあったし、夜に遠吠えのような声が聞こえることもあった。
けれど、それだけだ。
道を遮るような群れもいなければ、待ち伏せるような影もない。
こちらが身構えるたびに、拍子抜けするほど何も起きない。
最初のうちは、ただ運がいいのかと思った。
次に、俺たちが選んだ道が偶然よかったのかと考えた。
だが、日を重ねるごとに、その静けさは不自然さへと変わっていった。
「変だね」
夕暮れの焚き火の前で、エリシアがぽつりと呟いたのは、旅に出てひと月を過ぎた頃だった。
「ああ」
俺も短く返す。
焚き火の向こうで、彼女の横顔が赤く照らされる。
「少なすぎる」
「だよな」
「魔王城が近いなら、もっといてもおかしくないのに」
その言葉に、俺は黙って薪を火へくべた。
ぱちり、と火の粉が弾ける。
俺たちは顔を見合わせなかった。
見合わせなくても、考えていることは同じだとわかっていたからだ。
この静けさには、理由がある。
そして、その理由を、どちらも口にしたくなかった。
カイルたちが、ここを通りこの先まで進んでいったのだとしたら、魔物が少ない理由も説明がつく。
それでも、まだ確かめたわけじゃない。
確信に変えてしまうのが怖くて、俺たちはそれ以上言葉を続けなかった。
そうして数か月が過ぎた。
土地は徐々に痩せ、草木はまばらになり、吹く風の匂いまで変わっていった。
鳥の声は少なくなり、夜は異様なほど静かだった。
朝露に濡れる野草すら、どこか色を失って見える。
世界そのものが、少しずつ魔王城の領域へ侵されているようだった。
その日、俺たちは荒れた丘陵地帯を越えていた。
空は薄曇りで、陽は高いのに景色は妙に暗い。
乾いた土を踏みしめながら坂を上りきった、その時だった。
遠く、地平の先に、それは見えた。
城。
思わず足が止まる。
あまりにも大きかった。
王国の王城と比べても遜色のない、いや、あるいはそれ以上かもしれないほど、重厚で威圧的な城だった。
だが、立派という言葉だけでは到底足りない。
それは美しく整った城ではなかった。
どこか不気味だった。
高くそびえる塔は空へ突き刺さるようで、黒ずんだ石壁は遠目にも冷たく、城全体が巨大な生き物みたいに沈黙している。
ただそこにあるだけで、周囲の空気を変えてしまうような存在感だった。
「あれが」
エリシアが、かすれた声で言う。
「ああ」
俺もそれ以上の言葉が出なかった。
目を凝らす。
城そのものだけじゃない。
その周囲には、崩れた建物が点在していた。
かつて城下町か砦か、あるいは外郭施設だったのかもしれない。
石造りの建物の壁が崩れ、門らしき構造は半ばから砕け、屋根は落ち、柱は折れている。
長い時間打ち捨てられてきた廃墟のようでもあり、つい最近まで激しい戦いがあった跡のようにも見えた。
その光景を見た瞬間、胸の奥で何かがはっきりと繋がった。
ここまで魔物らしい者がほとんど現れなかったこと。
城の周囲に残る破壊の痕。
不自然な静けさ。
答えは一つしかなかった。
「来てたんだ」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
エリシアが俺を見る。
その顔は青ざめていた。
「カイルたちは、ここまで」
「到達してた」
言い切ると、喉がひどく乾いた。
魔王城の手前でやられたのではない。
城に届かなかったのでもない。
あの人たちは、ここまで来ていた。
そして、この景色のどこかで戦ったのだ。
剣を振るい、魔法を放ち、命を削って、その果てに...
その先を考えるのはやめた。
考えたら、この場で動けなくなりそうだったからだ。
俺たちは互いに頷き合うと、その場で腰を低くした。
ここから先は、見られていると思った方がいい。
距離はまだある。
だが、魔王城があれほど大きく見えるということは、こちらもまた、向こうの視界へ入りうる位置まで来ているということだ。
「回り込もう」
俺が囁くように言うと、エリシアも無言で頷いた。
それから俺たちは、岩場や枯れた低木を遮蔽にしながら、慎重に城へ近づいていった。
風向きに気を配り、足音を殺し、時には腹ばいになるように斜面を下る。
草を踏む音一つさえ、今は妙に大きく感じられた。
心臓がうるさい。
指先が冷たい。
けれど頭だけは、不思議なほど冴えていた。
少しずつ距離を詰める。
やがて、城の外周が肉眼ではっきり見える位置まで辿り着いた。
俺たちは崩れた石壁の陰に身を隠しながら、慎重に様子を窺う。
最初に見えたのは、門だった。
いや、門だったもの、と言った方が正しいのかもしれない。
巨大な正門は半ば崩れ、片側は大きく傾き、石材の一部は砕けて地面へ散乱していた。
その周囲には、さらに壊れた壁や抉れた地面が広がっていて、かつてどれほどの戦いがそこにあったのか、言葉がなくても伝わってくる。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
だが、目の前の光景は、それだけでは終わらなかった。
「修復してる」
エリシアの囁きに、俺は目を細める。
確かに、動いている影があった。
魔族だ。
人型に近い者もいれば、角や尾を持つ者もいる。
大柄な者、小柄な者、鎧をまとった者、作業着のような粗末な服を着た者。
その何人もが、崩れた門や周辺の建物の修復作業にあたっていた。
石を運び。
資材を組み。
何かの指示に従って動いている。
見張りらしい者もいるが、全体としては“守りを固めている”というより、“壊れた場所を急いで元へ戻している”ように見えた。
その光景に、背筋が寒くなる。
やはり、戦いはあったのだ。
しかも、城の防備が破壊されるほどの戦いが。
カイルたちはここまで辿り着き、確かに魔王城へ傷をつけたのだと、もう疑いようがなかった。
俺は拳を握りしめる。
爪が手のひらへ食い込む感触があった。
隣で、エリシアが息を殺している。
その横顔は、悔しさと悲しさと、そして冷静さを必死に押しとどめている顔だった。
だが、ここで感情に流されるわけにはいかない。
敵の数はまだ読めない。
城内の構造もわからない。
修復中ということは、警戒が通常とは違う可能性もある。
今ここで突っ込めば、それこそカイルたちと同じか、それ以下の末路を辿るだけだ。
俺は小さく手で合図する。
いったん下がる。
エリシアもすぐに理解し、静かに頷いた。
俺たちは来た時以上に慎重に、その場から後退した。
見つかれば終わりだという緊張が、今さら遅れて全身を強張らせる。
石壁の陰を離れ、丘の起伏を利用して視線を切り、さらに距離を取る。
十分に城から離れたところで、ようやく二人同時に大きく息を吐いた。
風が吹く。
冷たいはずなのに、背中はじっとりと汗ばんでいた。
俺は近くの岩へ腰を下ろす。
エリシアもその向かいに座り込んだ。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
見たものが大きすぎて、すぐには言葉にならなかったのだと思う。
やがて、先に口を開いたのはエリシアだった。
「間違いないね」
「ああ」
「カイル様たちは、あそこまで行った」
答えながら、視線は遠くの城へ向いたままだった。
沈黙が落ちる。
風の音しか聞こえない。
その静けさの中で、俺たちは同じことを考えていたはずだ。
ここから、どうする。
真正面から行くのか。
潜り込む道を探すのか。
修復中という状況を利用するのか。
それとも、まだ情報を集めるべきなのか。
俺はようやく視線をエリシアへ向けた。
「どうする?」
喉が少しだけ掠れていた。
「ここから先、どう動くか」
エリシアはまっすぐに頷いた。
俺たちは、魔王城を前にして、いったん立ち止まることにした。
結局、俺たちは正面からぶつかる道を選ばなかった。
修復中の門や周囲の警戒の様子を見た時点で、真正面から突破するのは愚策だとわかっていたからだ。敵の数も、城内の構造も、何も掴めていない。そんな状態で踏み込めば、待っているのは犬死にだけだ。
だから俺たちは、外壁の崩れた箇所を探した。
かつての戦いで砕かれ、そのまま修復が追いついていない場所。
城の裏手へ回り込み、崩れた石積みの陰に身を潜め、見張りの巡回の間隔を読む。
息を潜める時間は長かった。
風が吹くたび、砕けた石片がかすかに擦れ合う。
遠くでは修復にあたる魔族たちの声が響き、時折、金属を打つ乾いた音が城壁に反響した。
やがて、見張りの目が一瞬だけ切れた。
俺はエリシアを見る。
彼女もすでに頷いていた。
崩れた外壁をよじ登り、身を滑り込ませる。
石の裂け目は狭く、鎧も何も着ていないはずなのに、全身が引っかかるような錯覚があった。
だが、無事に内部へ降り立った瞬間、空気が変わった。
冷たい。
外の風とは違う、城そのものが吐き出しているような冷気だった。
肌に触れる空気が重い。
血と煤と、乾いた石の匂いが混じっている。
そこは、半ば崩れた回廊のような場所だった。
天井の一部は落ち、壁には巨大な爪痕や焦げ跡が残っている。
剣で裂かれたような傷もある。
それを見ただけで、ここでどれほどの戦いがあったのか、説明などなくてもわかった。
カイルたちは、本当にここまで来たのだ。
俺は無意識に拳を握る。
エリシアは周囲を警戒しつつ、低い声で囁いた。
「行こう」
俺たちは慎重に奥へ進んだ。
城内は、外から見た以上に損壊が激しかった。
崩れた柱、抉れた床、破壊された扉。
戦いの跡は至るところに残っていて、そのどれもが生々しい。外で見た修復作業は、あくまで表面だけなのだとわかった。城の内部は、まだ戦場の痕を色濃く残していた。
足音を殺し、角を曲がり、階を下りる。
途中で下級の魔族と二度、三度とすれ違いかけたが、エリシアの簡易な隠匿術と、俺の身のこなしでどうにかやり過ごした。
だが、魔王城がそんなに甘いはずがなかった。
大広間へ続くと思しき石造りの通路へ足を踏み入れた瞬間だった。
「また人間が来たのか」
低く、嘲るような声が響く。
俺たちは同時に足を止めた。
通路の先。
大きく砕けた扉の向こう、広間の中央に、一人の男が立っていた。
人の形をしている。
だが、人間ではない。
青黒い肌。
肩まで流れる銀灰の髪。
細く吊り上がった瞳は、夜の底みたいに冷たく、背には黒い外套を流している。
指先は異様に長く、その爪先には金属めいた光があった。
魔貴族。
見ただけでわかる。
こいつが、そこらの魔族とは格が違う存在だということを。
そいつは俺たちを見ると、唇だけで笑った。
「奴らと同じだな」
その一言で、背筋が粟立つ。
奴ら。
誰を指しているのか、考えるまでもなかった。
こいつだ。
こいつが、カイルたちと戦った。
こいつが、あの人たちの前に立ちはだかった。
確信した瞬間、胸の奥で何かが焼けるように熱くなった。
だが、怒りに飲まれるより先に、周囲の気配が膨れ上がる。
広間の左右、崩れた柱の陰や通路の奥から、魔族たちが次々と姿を現した。
配下だ。
「殺せ」
魔貴族が、まるで埃でも払うような口調で言う。
次の瞬間、一斉に襲いかかってきた。
俺は即座に刀を抜く。
鞘走りの音が、張り詰めた空気を裂いた。
一体目が飛び込んでくる。
爪を振り上げたその腕を半歩外して躱し、返す手で首筋を斬る。血が飛ぶより早く二体目が脇から突っ込んできた。刃を返し、胸を裂く。三体目の牙を持つ獣じみた魔族が低く跳んだが、それも踏み込みで間を外し、下から断つ。
刀はよく斬れた。
和の国で受け取ったこの刃は、今や俺の体の一部みたいに馴染んでいる。
迷いなく振り抜ける。
無駄なく殺せる。
その後ろで、エリシアの魔法が炸裂した。
「ラグ・フレア!」
火の線が弧を描き、通路の奥から迫ってきた魔族たちをまとめて焼き払う。続けざまに風刃が飛び、足止めの術が床へ走る。以前の彼女なら属性ごとに切り替えていただろう。だが今のエリシアの魔法は違った。学院魔術に各国の術式が溶け合い、実戦向けに鋭く変わっている。
いける!
一瞬、そう思った。
だが、その時だった。
魔貴族は、戦いに加わっていなかった。
広間の中央で、ゆっくりと片手を上げている。
その足元に、複雑な紋様が浮かび上がっていた。
術式。
しかも、ただのものじゃない。
床へ走る線は幾何学的でありながら歪み、幾層にも重なっている。中心から円環が開き、その上にさらに別の四角と斜線が重なる。まるで空間そのものを切り分けるような式だ。
そして、魔貴族の口から流れ出る詠唱。
聞いたことのない系統だった。
だが、エリシアは一瞬で顔色を変えた。
「時空系」
その呟きは、ほとんど悲鳴に近かった。
俺は次の一体を斬り伏せながら叫ぶ。
「わかるのか!?」
「術式と詠唱から読むわ!」
エリシアの目は、敵を見ているというより、浮かび上がる魔法式そのものを追っていた。
詠唱の音節。
紋様の重なり。
力の流れ。
彼女はそれを恐ろしい速さで解析している。
だが、その表情は青ざめていく一方だった。
「駄目!」
その声に、胸が冷える。
「何がだ!」
俺は刀を振るいながらさらに距離を詰める。
魔族の一体が背後から飛びかかってきたが、肘で顔面を打ち、振り返りざまに切り捨てた。
エリシアが叫ぶ。
「時を止める魔法!」
頭が一瞬、真っ白になった。
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「詠唱が終われば、私たちは殺される!」
その言葉だけが、はっきり届いた。
魔族たちはなおも迫ってくる。
広間の中央では、魔貴族の詠唱が止まらない。
術式はすでに半ば以上展開している。
俺は思いきり刀を振り抜き、正面の敵をまとめて退けると、エリシアの方へ駆けた。
「アルト!」
彼女もこちらへ走り寄る。
ぶつかる寸前の距離で、エリシアが早口に言った。
「動けなくなるのは私たちだけじゃないかもしれないけど、少なくとも術者はその間に私達を殺せる」
説明の最中も、俺は刀で横から来た魔族を斬り払う。
反対側から伸びてきた槍のような腕を弾き、足元へ落ちた敵の顔を蹴り飛ばす。
「退避は!?」
「今やってる!」
エリシアが片手で簡易式を描きかける。
だが、すぐにそれを打ち消した。
「間に合わない」
歯噛みするような声だった。
つまり、逃げられない。
広間を出る前に詠唱が終わる。
打ち消しも間に合わない。
止めに行くには敵の壁が厚すぎる。
詰みだ、と、頭のどこかが妙に冷静に告げた。
刀を振るたび、腕が重くなる。
だが、まだ止まれない。
「ここまでか」
自分でも驚くほど静かな声で、そう呟いていた。
エリシアが俺を見る。
恐怖もあったはずなのに、その目は不思議なくらい澄んでいた。
「皆と同じ場所なら」
次の瞬間、魔法光が彼女の頬を照らす。
「そして、あなたと一緒なら、本望だよ」
胸の奥が、大きく揺れた。
死ぬのだと、たぶん本当に理解したのは、その時だった。
怖くないわけじゃない。
悔しくないわけでもない。
それでも、最後に言うべきことだけは、はっきりわかった。
「最後の言葉だな」
俺は、迫ってきた魔族の腹を斬り裂きながら言う。
エリシアが、小さく笑った。
「うん」
俺は彼女を見た。
「お前だけでも、すぐに逃げろ!!」
その言葉は、驚くほどするりと出た。
エリシアの目が大きく見開かれる。
「え!?」
その瞬間だった。
エリシアの表情が変わる。
目が見開かれたまま、別の光が宿る。
「あれは?」
「エリシア?」
「先生の魔方陣!!」
何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
だが、彼女はもう迷っていなかった。
魔貴族の詠唱が、終わりに近づいている。
空間そのものが軋むような圧が広間を満たす。
エリシアは勢いよく俺の腕を掴んだ。
その手は力強かった。
「アルト!」
「なんだ!?」
「信じて!」
それだけ言って、魔方陣まで走り、魔方陣の上に転倒する。
確かに、床に魔方陣があった。
魔方陣は、淡い光を放つと、俺達を包み込んだ。
同時に、広間の中央で魔貴族の詠唱も終わった。
「時よ、止まれ」
世界がひっくり返った。
音が消える。
光が反転する。
床も、壁も、敵の姿も、一瞬で引き剥がされるように遠ざかる。
身体が落ちたのか、浮いたのかもわからない。
ただ、白だけが視界を塗り潰した。
次の瞬間。
俺とエリシアは、何もない真っ白な部屋に立っていた。




