49 覚悟の朝
雪は眠れずにいた。一晩中祈り続けた。金属の欠片を握りしめ、見えない月に願う。どうか彼を無事に帰してくださいと。
そして、夜明け。
「雪姉様!」
詩乃が部屋に飛び込んできた。
「参りましょう」
詩乃に手を引かれ、渡り廊下へ急ぐ。そこには、姉の姿があった。
「お姉様!」
姉妹そろって、姉を抱きしめる。
「痛いわ。離して」
それを、姉は冷静に止めた。
「渡り廊下に近づくならお面をしなさいと言っているでしょう。誰に見られるかわからないのよ」
いつも通りのお小言。でも、それさえも嬉しい。
「お姉様が何かしたのですか?」
さすがに察することはできた。儀式のように始まった大規模作戦と、その翌朝に帰ってきた姉。何の関係もないはずはない。
「成功したのよ」
「何が、ですか?」
「秘密の作戦」
姉はおどけているようだった。何が何だかわからず困惑する雪に、
「奥で話しましょう。お姉様、お部屋に伺ってもよろしいですか?」
と詩乃が提案する。
「そうね。久しぶりにいつもの茶葉の紅茶を飲みたいわ。お気に入りのカップじゃないと、いつもの味じゃない気がしていたのよね」
いつも通りでありながら、いつもと違う日常。不安と心配を拭いたくて、雪は姉の後をついていった。
そのままに残された姉の部屋で、椅子に座る。マーブル模様の紅茶を軽く混ぜた。
「事前にお兄様からご命令を頂いていたの」
姉は教えてくれた。
「お父様の襲撃に小泉家が関与した証拠を探せ、って。わたしが嫁ぐ前から準備は始まっていたし、内部の協力者もいたから簡単だったわ。それが見つかったから、わたしが手引きをして忍びたちを引き入れたの」
裏切る前提での嫁入り。ある種の潜入任務のようなものだろう。雪ならそんなことはできなかった。忍びの教育を受けた姉だからできたことだろう。
「……最初からお姉様が嫁げばよかったのでは?」
ふとこぼした言葉に、
「バカね」
と姉が呆れる。
「それは結果論よ。結果として、わたしが成果を残せただけ。雪にもできる任務だと判断できたから、お兄様は雪に任せる予定だったのよ」
「それは……すみません」
自分が嫁げないというのは、その作戦の中で唯一失敗しそうになったポイントだろう。予想に反した行動をしてしまったことを謝ると、
「その程度のこと、何でもないわ。作戦の遂行に問題ないことだったのでしょう」
姉に変更されたのも、結果としてそれが成功に導いたのも、兄の判断だ。当主としての力量を見せつけられた気がした。
「でも、ひとつだけ、計画が失敗したわ」
「なんですか?」
「わたしが子どもを身籠っていれば、忍びをひとり増やせたの。それが叶わなかったことだけが心残りよ」
妊娠も出産も、決して楽なことじゃない。自身を削ってでも、この家のために生きる。そんな姉の覚悟を、改めて確認した。
「それと、雪」
姉の言葉に、顔を上げる。
「タグは早く返してあげなさい。あれを失くすとひどく怒られるらしいわよ」
「え」
なぜ姉がそれを知っているのだろう。家族の誰にも明かしていないのに。
いや、兄だけは把握しているかもしれない。この屋敷で起きたことを兄に隠すことはできない。それなら、兄が伝えたのだろうか。
「……行ってきます」
「えぇ」
それは後で聞こう。姉の話を聞き、無事を確認できた。それだけで、十分。次に確認するのは、彼の無事だった。
狐面を持って、渡り廊下を渡った。指笛で白猫を呼び出し、彼に手紙を送る。
「白鴉様」
障子の外から声がした。
「影隼です」
「どうぞ」
雪が答えると、障子が開けられる。私服姿の彼が入ってきた。
「怪我はありませんか?」
すぐに尋ねた。
「はい」
返事はすぐだった。
「よかった……」
ホッと息をつき、最敬礼をする彼の前に膝をつく。
「おかえりなさい」
ようやくその言葉が言えた。
「……はい」
どこか困惑した彼の声。答え方が難しいのか。
「これ、お返しします」
そして、持ってきておいたドッグタグを渡す。
「失くすと怒られるって聞きました」
「もう怒られました」
「えっ、ごめんなさい!」
雪が早く返さなかったからだ。慌てて謝る雪に、
「問題ありません」
と彼は端的に答える。彼にとっての「問題」とは何だろう。
「俺には、これがありましたので」
そう言って、彼はあのお守りを取り出す。
「ドッグタグより心強いお守りでした」
「そう、ですか? ただの手作りの香り袋ですよ」
お守りと言っているだけで、神社で買ったものでもなければ、特別な願いが込められたものでもない。ただお守りの形をしているだけだ。
「貴女様のご命令を忘れずにいられました」
それは、「忠誠」だろうか。主君の親族である白鴉に向けられた感情なのだろうか。
「お返しいたします」
「ありがとうございます」
ようやく返ってきた香り袋は、どこかいつもと違う香りがした。柚の香りが薄れ、代わりについていたのは、清潔そうな柔軟剤の優しい香り。彼のポケットの香りか。
「影隼さんは、どこまでご存知ですか?」
その香りに誘われるように、静かに聞いてみた。
「縁談の話ですか」
彼は躊躇なく答えた。
「ご当主様から直接お話を頂きました」
「どう思っていますか?」
彼の気持ちを聞きたかった。それは、雪だけの一方通行だと悲しいから。そんな不安を、直視したくなかった。
「光栄に思います」
彼の答えは、相変わらず硬派だった。何を考えているのか、察する幅がない。
「どうしたいですか?」
「白鴉様のご判断に従います」
相変わらず従者としての答えしか返ってこない。やっぱり彼に特別な感情はないのか。
「では、判断材料をください」
ずるい言い方をした。
「影隼さんの気持ちを知りたいです」
その言葉に、彼が一瞬困惑するのがわかった。
「……俺は」
戸惑いながら紡ぎ出された言葉に、耳を傾ける。
「俺は、忍びです」
「はい」
「今後も、忍びとして生きていくつもりです」
「はい」
急かす必要はない。少しずつ吐き出される言葉に、ひとつずつ相槌を打つ。
「貴女様を最も近いところでお護りできるのなら、おそばにいたいと思います」
あくまでも守護的な意味で。その守護に、どんな感情が隠されているのかわからない。でも、彼からの言葉は、これが精一杯だろう。
「わかりました」
雪はひとつ頷いた。
「忍びとしての影隼さんを、お支えいたします」
それは、雪の覚悟の表れだった。
次回最終話です。21時半頃の更新を予定しております。




