48 新月の誓い
小さな三日月が浮かぶ夜、雪はひとりで妹の部屋を訪れた。
「詩乃」
「どうしました? 雪姉様」
詩乃はいつものように明るく笑う。
「お入りください。外はまだ寒いですから」
どう声をかけていいかわからないまま来たせいで、黙り込んでしまう。しかし詩乃は、温かく迎えてくれた。
火鉢のそばに座り、綿入れを肩にかける。
「まだまだ寒いですね。早く春になるといいのですが」
何気ない世間話。そんな意味のない会話なんて。妹の時間を取りたくない。もう夜なのだから。
「詩乃、結婚する?」
一瞬、風が通り抜けた。驚くこともなく、詩乃がそっと息を吐く。
「雪姉様は、それをお望みですか?」
優しく柔らかい声。拒絶するのか受け入れるのか、全く読めなかった。
「雪姉様が本当に望んでいるのなら、わたしは喜んで引き受けます。もしそうでないなら、雪姉様が受け入れてください」
容赦がない。いつも明るく子どもっぽく振る舞っているのに。純粋だからこその言葉が、心に刺さる。
「わたしは無理だよ」
雪は首を振った。
「雪姉様のやりたいことはなんですか?」
詩乃が静かに問う。
「……お兄様の役に立つこと」
迷いはないはずだった。
「それでは、お兄様が決めた縁談を断るというのは、矛盾では?」
わかっている。そんなこと、わかっているのに。
「お兄様のご命令を、個の感情を優先して断ろうとされている。ご自分を甘やかしていらっしゃるのは、雪姉様ですよ」
ぎゅっと心臓を掴まれる。
「というのは、お姉様が言いそうなことです」
次の瞬間、空気が緩んだ。というより、詩乃の顔が緩んだ。
「わたしはお姉様ではありませんから」
今はいない姉の意見を、詩乃を通して聞けた気がした。
「雪姉様」
詩乃の手が伸びてきた。
「わたし、雪姉様が幸せになるところを見たいです」
詩乃の両手に包まれた手が、温かい。
「幸せになっていいんです。雪姉様は、今までたくさん頑張ってこられました。少しくらい、ご自分を甘やかしたって、いいんですよ」
優しい言葉。その言葉に甘えてしまいたい。
「……詩乃」
そっと息を吐く。それと同時に、涙がこぼれる。
「わたしは……」
震える声で、目で、妹を見た。
「準備をしましょう。お兄様も急ぐことではないと仰っていらっしゃいましたし。雪姉様のお気持ちが定まるまで、ゆっくり時間をかけましょう」
妹のいつも通りの明るい笑顔に、心が救われた。
『黒い着物を着て表においで』
兄から呼び出しがかかったのは、昼のことだった。
夕方から準備を始める。格が高い真っ黒な着物が指定された。一門内の儀式の時にだけ使われる特別なものだ。
そして、月があがる時間。といっても今日は新月で、月は見えない。暗い闇の中、ろうそくの光だけを頼りに渡り廊下を通る。
表の広間に、忍びたちが集まっていた。それは、梅雨の時期に行われる雨禊の儀式に匹敵するほどの人数だった。ほとんど全員が集まっているのではないか。
御簾でしきられた上段に座る。大勢の忍びたちを御簾ごしに見ていると、すぐ隣の障子が開いた。
その音だけで、手をついて深く頭を下げる。静かな衣擦れの音とともに、兄夫婦が入ってきた。
何やら儀式のような何かが始まることは察していた。ここまで大仰に、そして厳かにするほどなのか。いったい何が起きるのだろう。
「今日この日、決行の時が来た」
兄の声が響く。父のように地を這うような低さではなく、かといってハスキーでもなく。静かに落ち着いた、夜の闇に溶ける声。
「月が隠れる夜。闇に生きる我らにふさわしい夜だ」
新月の夜。月の下で生きる忍びたちさえも眠るはずのこの夜に、何かが起きようとしている。
「これは敵討ちだ。それを否定するつもりはない。我らの怒りこそ正当なものだ。だからこそ、裏切りには制裁が必要である」
あぁ、そうか。これは、父の仇討ちなのか。
「蒼刃が命じる。命を賭して戦え。それが、先代、玄狼の供養と思え」
そこに音はなかった。一糸乱れぬ姿勢で命令を受けた忍びたちの返答はない。ただ、頭を下げるだけで伝わる。
「以上」
その瞬間、ザッと音が溢れる。一斉に動き出すのは、戦準備のようだった。
雪の心は、ひどく焦っていた。あの人が、行ってしまう。手の届かないところに。また失ってしまうかもしれない。
奥に戻った直後、詩乃と沙耶が去ったのを確認して、指笛で猫を呼んだ。
「お願い。あの人を連れてきて」
雪の願いに答えたのは、鈴のない白猫。屋敷内の空気を察するかのように、鳴くこともなく去っていく。
渡り廊下で待っていると、音がした。
「白鴉様」
影隼、その人だった。
「行くのですか」
雪は尋ねた。聞かなくてもわかっていた。戦闘服と言わんばかりのファストファッション。あの厳かな儀式の後だというのに、忍び装束ではなかった。
「生きてください」
返事のない彼に、雪は訴えた。
「死なないで」
奥と表を隔てる扉を越えることはない。超えてはいけない一線のように。でも、触れられなくてもいい。
「白鴉様」
彼がそう呼びかけた。
「これを」
差し出された何かを、雪は両手で受け取る。金属の破片のような何かがネックレスについていた。
「遺体の識別に使われるタグです」
「……っ」
遺体、という強い言葉に、思わず身体に力が入る。
「預かっていてください」
「……は?」
何を言われているのかわからなかった。
「俺は死にません。それは必要ありませんから」
真っ直ぐな目が、お面を通して刺さる。
「必ず帰ります。それは、誓いの証です」
嘘はない。この目を信じたい。それでも、祈りたい。
雪は着物の袂から小袋を取り出した。
「……これを、持っていてください」
白梅の柄が刺繍されたお守り。中に柚の皮が入っている。作ったばかりということもあって、まだ匂いを感じられた。
「いいのですか」
彼は意外そうだった。
「大切なお守りなんです。必ず返してください」
命令ではなかった。願いだった。
それなのに、彼はその場に膝をつく。最敬礼の姿勢で、
「はっ」
短く答えた。
新月の夜、暴力団の拠点が何者かによって襲撃された。多くの死傷者を出した中、その家の嫁だけが行方不明になった。セキュリティが万全だった屋敷になぜ侵入できたのか。何者かが手引きした可能性を残しながらも、真相には誰もたどり着けない。




