47 凍える心
「空くん」
コロコロとおもちゃを鳴らして遊ぶのは詩乃。まだ転がることもできない甥が、そのおもちゃに手を伸ばす。
「あ、見てください、雪姉様。空くんと目が合いました!」
「まだ目は見えてないって叔父様が言っていたはずだけど」
「そんなことないです! 空くんはすごい子ですね~」
まだ小さい命。表で忍びたちにお披露目をすることもなく、表に一度も出さずに奥で大切に育てられる命。この命を、守っていかなければいけない。そのせいか、雪は少し気が張っていた。
「沙耶さん」
そこに、沙耶が入ってきた。隣の部屋とはいえ、産後の身体に移動はつらいのではないか。
「目が覚めたので、少し様子を見に。空は大丈夫ですか?」
「大丈夫。元気ですよ」
雪が答えると、沙耶は穏やかに笑って息子が眠る布団のそばに座る。
「沙耶さん、休んでいなくて大丈夫ですか?」
「もうすっかり。お2人に甘えてばかりではいられませんからね」
そうは言っても、やっぱり心配だ。夜はほとんどひとりで見ているだろうし、眠れていないのではないか。せめて日中くらいは、沙耶の負担を減らしたいところだ。
布おむつの換え方はわかっているし、侍女たちも気を回してくれる。手伝えないのは食事の時くらいだ。
「沙耶さん、さっき空くんがこっちを見たんですよ。きっとおもちゃの音が聞こえているんですね」
「まぁ、そうですか。では、蒼梧様のように賢い子になりますね」
「どんな子になるんでしょう。今から楽しみです!」
きゃっきゃっと楽しそうな詩乃にも、沙耶は穏やかに笑うだけ。
「空くんは、忍びの教育を受けるんですか?」
そんな沙耶に、雪は少し聞いてみた。
「大きくなったら、そうですね。実務につけるくらいにはさせるつもりです」
「そんなに? 実務なんて……」
「もちろん本当に仕事をさせるつもりはありませんよ。ただ、知っておいて損はないことです」
忍びの実務の教育なんて、過酷なもののはずだ。後継者をそんな環境に置くのか。兄の幼少期を知らないから、それが通例なのか異例なのかもわからない。
「お兄様のお考えは何かご存知ですか?」
「相談はしていますよ。ただ、基本的にはわたしが判断していいと」
忍びの統率が当主の仕事だから、当主の妻は家を守り、後継者を育てることが仕事か。その判断は、間違いであってはいけない。
父ならどうしたのだろう、とふと考えてみる。そんなの、わかるはずがなかった。
「みんなここにいたんだね」
兄が来た。いつも通りの微笑みからは、疲労は感じられない。
「機嫌がいいみたいだね」
少し息子の顔を覗き、
「雪、少しいいかな」
と言われた。
「はい」
何だろう。
「わたしたちは席を外しましょうか」
沙耶がそう言うと、
「いや、大丈夫。沙耶と詩乃にも聞いてほしいんだ」
と告げる。改まった話のようだ。姿勢を正し、兄を見つめる。
「雪の結婚相手を決めようと思って」
一瞬、息が止まるかと思った。心臓が跳ね、それを抑えるように両手をぎゅっと握りしめる。
大丈夫。覚悟は決めたはずだ。
「誰ですか」
声は震えないように気をつけた。
「何人か候補はいたんだけど」
兄はそう告げて、続ける。
「影隼はどうかな」
ハッと息が漏れた。
「よく目立っている忍びでね。優秀だから、ゆくゆくは幹部に置きたいんだ」
それは、本当に当主としての合理的な判断だろうか。生前の父の命令と、その時の雪との関係性を知らないのだろうか。
いや、知らないはずはない。当時から後継者として屋敷内のあらゆることを把握していたし、当主となった今、その情報を知らないというのは、まずありえない。
「沙耶はどう思う?」
「蒼梧様がそう決められたのなら、反論はございません」
意見を求められた沙耶が、穏やかに答える。
「わたしも、いいと思います。お兄様がそれだけ注目している忍びなら、雪姉様を幸せにしてくださるはずです」
詩乃も嬉しそう。
雪だけが、素直に喜べずにいた。
もう捨てたはずだった。もう関わらないと告げた。あの感情は、もう過去のものなのだ。
それなのに、今になって。
「……少し、だけ……」
反論する余地なんてない。でも。それでも、言葉が口をついた。
「少しだけ、考えても、いいですか?」
弱く震えるその声に、
「もちろん。急ぐ話でもないから、ゆっくり考えて」
と兄は優しく答えた。
夜、小さな泣き声が聞こえた。まだ眠れずにいたため、軽くコートを羽織って外に出てみる。
「沙耶さん」
沙耶は庭の片隅にいた。
「寒くないですか?」
「寒いですね」
冷えないように毛布にくるまれた甥が、元気な声で泣いている。
「中に入らないのですか?」
「蒼梧様が休まれていますもの。お休みの邪魔はできません」
当主としての業務に日々追われて疲れている夫を気遣ってのことだったのか。
「では、お兄様の寝所から離れた部屋を使いましょう。少し暖かくした方が、空くんも眠れるかもしれません」
そう言って、奥の一室に入る。火鉢に火を入れ、布団をかぶせた。
「ありがとうございます、雪さん」
沙耶はホッとしたように微笑んだ。
「お兄様はご存知なのですか?」
「もちろん。気にしなくていいと仰っていただけました」
優しい兄のことだ。きっとそう言うだろう。むしろ一緒に子守りをするのかもしれない。
「でも、わたしが嫌なのです。蒼梧様をお支えすることがわたしの役目。足を引っ張る役であってはいけないのです」
沙耶の覚悟は相変わらず強い。姉と似ていて、でも種類が違う強い姿勢は、やっぱり憧れだ。
「雪さんも、気にせずに休んでください。夜更かしは身体に毒ですよ」
「……大丈夫です」
眠れない。それよりも、誰かのそばにいたかった。
「沙耶さんは、強いですね」
「そうですか?」
眠くなってきたのか弱く泣く息子を寝かしつけながら、沙耶が穏やかな声で答える。
「沙耶さんみたいになりたいです」
それは、雪の素直な気持ちだった。
「わたしも、覚悟はできているのに」
覚悟はできていたはずなのに。自分にだけ向けられた「許し」が痛い。
「この縁談は気が乗りませんか?」
沙耶の問いに、雪は言葉に詰まる。
正直に言えば、嬉しい。しかし、そんな感情、認められるはずがない。自分にその感情を許していいはずがないのだ。
「わたしは、わたしが嫌いです」
ふと、そう吐き出した。
「少しだけ、好きになっていました。お父様に愛されて、お兄様とお姉様に大切にされて、詩乃にも慕ってもらえて。自信が持てたんです」
幸せな記憶。過去のつらい記憶に蓋をすることができたのは、霧崎家の家族のおかげだ。
「でも、今は、嫌いです」
その思い出が、じわりとにじむ。
「お父様が亡くなる原因を作ってしまったわたしは、幸せになってはいけないんです」
姉に許されたとしても。家族が許してくれたとしても。
父を慕って従っていた多くの忍びたち全員に、許されたわけではない。
「そうですか」
沙耶の答えは、意外にもあっさりしていた。慰めるわけでもなければ、否定も肯定もしない。
「もしこの縁談が、一点の曇りもなくただの政略的なものであるなら、わたしは喜んで受け入れられたと思います」
兄が信じきれなかった。妹に甘いという彼の性格を知ってしまっているから。甘やかされていると思ってしまう。
「蒼梧様のお言葉に、嘘はありませんでしたよ」
沙耶がはっきり告げた。
「幹部に置きたいというのは、きっと本当だと思います」
政略的な意味合いもゼロではない。沙耶のその言葉は、きっと嘘ではない。
「同情が入っていないと言えますか?」
その言葉に、沙耶は答えなかった。それもまた、ゼロではない。
「詩乃に譲ってもいいと思います」
自分が幸せにならないために。本家の娘という立場なら、妹も一緒だ。彼の人柄は知っているし、妹を任せるのに申し分はない。
「もちろん、詩乃の意見は聞きますが」
沙耶はもう何も言わなかった。火鉢にかざす手は、いくら温めても冷たいままだった。




