46 蒼弓の夜
寒い冬がやってきた。父の命日を控え、また気分が沈む。
しかし、落ち込んでいる暇はなかった。
シュッシュッと靴下が地面を擦る音。駆け足になってしまう気持ちを押さえ、でもできるだけ急いで、その部屋に向かう。
「詩乃!」
そこにいた妹に呼びかけた。
「沙耶さんは?」
「中です」
沙耶が産気づいたと聞いた。ついに生まれるのだ。慌ててしまうのは仕方がなかった。
「失礼いたします」
お産部屋を出入りするのは、助産経験のある女性たち。奥に仕えている忍びといっても、普段はほとんど気配さえ感じないのに。今日だけは、慌ただしく動いている。
「お兄様はどちらに?」
「表です」
「え?」
驚いてしまった。
「いらっしゃらないの?」
「役に立たないから、と。生まれたらお呼びするようです」
出産はひどい痛みと苦しみがあると聞く。それなのに。夫は妻を支えるのではないのか。
「雪姉様」
「詩乃、ここをお願い」
すぐに動き出した。
部屋に戻り、狐面を取って渡り廊下へ。手早くつけて、表へ出た。
「お兄様、白鴉です」
兄の執務室の前で息を整え、一気に襖を開ける。兄は驚いた表情で見ていた。入室の許しを請わなかったからか。
「白鴉、そんなに慌ててどうしたの?」
いつも通りの優しい兄の姿。妻が苦しんでいる中、冷静に働く姿と同じ人なのか。
「お兄様、すぐに奥にお戻りください」
「どうして?」
「青燕さんが頑張っていらっしゃるのです。お兄様がいらっしゃらないと」
どんなに抑えても、抑えられない。恐れと焦りが混ざり合って、雪の方も苦しくなる。
「白鴉」
その時、兄の声が、すっと脳内に響いた。
「落ち着きなさい」
静かな声が、頭から胸に落ちて、心を鎮めてくれる。
「僕がいても何もできないよ。経験のある者たちに任せているから、安心して」
「でも……っ」
せめて近くで応援してあげないのか。それが夫のあるべき姿ではないのか。
「僕は僕にできることをしているだけだ。離れていても、応援はできるんだよ」
兄の目は真剣だった。真っ直ぐに向けられたその視線に、もう返す言葉はなかった。
「わかったら、白鴉は奥に戻って。僕の代わりに、青燕を頼んだよ」
「……はい」
それが兄の指示なら。当主としての決断なら。雪は、それに従うしかなかった。
「雪姉様、どちらにいらっしゃったのですか?」
お産部屋に戻ると、詩乃が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「沙耶さんの様子は?」
「頑張っていらっしゃいます。先ほど聞いたのは、お産は順調だと」
ホッと息をつき、両手を合わせる。
忍びが祈る先はどこだろう。どんな神様だろう。それさえもわからないまま、雪はぎゅっと強く握りしめる。
「頑張って……っ」
どうか無事に生まれますように。沙耶も赤ちゃんも元気でありますように。
そう願って、しばらく時間が経った。
「ぎゃああぁぁぁっ」
それは、屋敷中に響き渡るような産声だった。
「……うま、れた……?」
ハッとあげた顔は、どこか気が抜けていた。
「雪姉様」
詩乃が雪の手を握る。彼女の目には、涙が溜まっていた。
「お生まれになりました!」
侍女が部屋から出てきた。
「沙耶さんは?」
「お元気です」
はぁぁっと一気に息が漏れた。気が抜けて、その場に座り込む。
「お兄様にお知らせを」
その中で、詩乃は冷静に指示を出す。
「中に……」
「お兄様を待ちましょう」
沙耶を労いたくて、赤ちゃんを見たくて、焦ってしまう。そんな雪を、詩乃が優しく止めた。
すぐに兄が来た。
「早かったですね、お兄様」
詩乃がふふっと笑う。
「あれだけ元気な産声だからね。知らせを待たなくてもわかったよ」
兄も笑っていた。
「さ、お兄様、中に。沙耶さんが大丈夫そうなら、わたしたちも呼んでください」
緊張していたのは、怖がっていたのは、雪だけだったのだろうか。そう思えるほどに、家族はあまりにもいつも通りだった。
「雪、詩乃、入っておいで」
しばらくして呼ばれた。
「こんな姿で、すみません」
沙耶は布団に横になっていた。
「気にしないでください。沙耶さん、お疲れさまでした」
まずは深く一礼する。そして、兄の方に目を向けた。
あんなに元気な声で泣いていたのが嘘のように、その子は眠っていた。
「お兄様、わたしも抱いてもいいですか?」
「いいよ。おいで」
詩乃がさっそく兄のそばに駆け寄る。
「空と名付けた。雪と詩乃の甥っ子だ」
甥。男の子。空という名前。全てが心を急速に満たしていく。
「雪」
ハッとする。兄の顔が歪んでいた。
命の誕生というのは、こんなにも綺麗なのか。その感動で、頬が濡れていた。
「おいで、雪。雪も抱いてあげて」
「……はい」
兄に誘われ、雪も家族の輪に混ざる。
「ふふ。かわいい」
詩乃に頬をつつかれても気にせず眠る甥は、きっとゆったり穏やかな子になるのだろう。
ふと窓を見た雪の目に、庭の池に浮かぶ白い月が見えた。




