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44/50

44 名を置いて

 姉の結婚式の準備が進む。姉が渡り廊下に向かう姿を見ることが多くなり、時には外出用の着物を着ていることもあった。


 結婚式の準備は大変なのだろう。相手と話し合って、意見を合わせてから調整するのだろう。そんなの、雪には無理だ。


 好きでもない人と一緒にいるだけで、きっと苦痛でしかない。それが憎いという感情も混ざるなら、なおさら。


 だからこそ、姉の尊敬できるところが、またひとつ増えた。


「お姉様は今日もお出かけみたいですね」

 庭に出ていた雪のところに、詩乃が歩み寄ってくる。

「式の準備だから。寂しいけど、仕方ないね」


 いつも3人でお喋りした縁側。その時間がなくなるのは、やっぱり寂しかった。


「急いでいるみたいです。沙耶さんのお腹が目立つようになる前までにって」

 まだ膨らんでいないとはいえ、間に合うのか。


「忍びの後継者が生まれるのは、外の人間に知られてはいけないんだよね」

「はい。弱点になってしまいますから」


 生まれた子は厳しい戒律のもとで育てられる。そしてその戒律は、生まれる前から始まっている。

 姉や妹のようにこの家で育てられたかったと思いながら、これから生まれる甥か姪の行く末を案じる。どちらが正しい感情なのか。


「幸せになれるといいなぁ……」

 ぽつり呟いた言葉は、いったい誰に向けられていたのか。湿った風にさらわれたその言葉に、妹は答えなかった。




「雪、入ってもいいかしら」

 夜、姉が雪の部屋を訪れた。もう寝る準備をする時間なのに。珍しいことだった。


「どうされたのですか? お姉様」

 障子を開け、姉を入れる。

「早く休まないと。明日は大事な日なのですから」


 結婚式を翌日に控えた夜。姉もナーバスになっているのだろうか。


「雪」

 ふわりと優しい温もりに包まれた。


「お姉様?」

 そっと姉の肩に手を添えながら、突然の行動に驚いていると

「誰もあなたを責めていないわ」

 耳のすぐ横で、姉の声がした。

「姉として、あなたを誇りに思う」


 父を殺してしまった。そう自分を責め続けた雪の心を見透かしたかのように。


「……ありがとうございます」

 そう答えた声は、鼻にかかっていた。


「お姉様、どうかお元気で」

「雪もね」

 軽やかな返事。大きな転換点を控えているというのに、いつも通り落ち着いている。


「困ったら、呼んでください。いつでも」

「呼んだら来てくれるの?」

 くすっと笑う姉に

「はい」

 と真面目な顔で答える。

「外の土地勘はあるんですよ」

「……そうだったわね」


 1年に数回あるかないかの社交界のイベント以外では、もう何年も外に出ていない。でも、外の世界のことを忘れたわけではない。


「あなたが動くのは、霧崎家のためであるべきよ」

 姉の優しい声が、いつものように雪の心に突き刺さる。


「お兄様と、これから生まれる子のために。何かあってはいけないのだから」

「……はい」

 もう二度と失わない。この家の風見鶏を失わせない。その覚悟だけはあるつもりだ。


「忘れないで。あなたは霧崎の娘。何があっても、その名前が、雪を守ってくれる」


 その名前を名乗るには、それ相応の覚悟がいる。それに気づくのが遅かった。ただそれだけのこと。


「お姉様、もうお休みください。主役が寝坊してはいけませんから」

「そうね」

 姉は頷き、出ていく。


「おやすみなさい」

「えぇ、おやすみ」

 その背中は、すっと伸びていた。




 いつもの白梅の着物に、白梅の柄のお面。いつもの外交スタイルで、国内でも有数の高級ホテルを訪れた。


 姉の結婚式とはいえ、霧崎のスタイルは変わらない。兄夫婦は喪服のように真っ黒な着物。雪は白梅、詩乃は金木犀の柄があるとはいえ、黒を基調とした着物であることに変わりはない。

 それに加えて、雪と詩乃には狐面もある。明らかに華やかなスタイルではなかった。


 新婦側の参列者として選ばれた忍びたちも席に座り、それ以外にも護衛がつけられる。

 他の結婚式を知らないが、異様な光景のように思えた。


「見て、霧崎様だわ」

 小さな声が聞こえた。視線はずらさず、耳だけを傾ける。

「相変わらず人間味のない……。不気味ね」


 違う。人間だ。自分たちも、忍びたちも。ちゃんと人間だから、声は聞こえているし、不穏な空気も察する。


『大丈夫よ。わたしたちはお人形。喋ることはほとんどないし、笑う必要もない。ただ黙って立ってればいいのよ』


 いつだったか、姉が言った言葉。社交界に出る時の心構えとして、いつも忘れずにいた。

 人間味がないのが正解なのだろう。少なくとも、外の人間にはそう見えるべきだ。


 新郎新婦が入場する時も、新郎側の参列者が温かい拍手を送る中で、新婦側で拍手をしていいのは兄夫婦だけ。霧崎の顔であり、唯一人間であっていい人間。


 白いウェディングドレスを着た姉は、シャンデリアの光を受けて、キラキラ輝いていた。




 披露宴の衣装は赤い打掛だった。華やかで、どこか厳かなそれは、姉によく似合っていた。

 一通りの式が終わり、参列者たちがそれぞれの時間を楽しむ中、姉は夫から離れた。


「お兄様」

 兄の前に立ち、軽く膝を折る。狐面に隠されていないその表情は、いつものように凛としていた。


「今までありがとうございました」

「うん」

 兄は頷いた。それ以上の言葉はなかった。


 言葉が少なかった父の真似だろうか。それとも、霧崎家の当主として、多くを語らないでいるのだろうか。


「青燕さん」

 次に姉はその隣に向き直る。

「妹たちをよろしくお願いします」


 姉の心にあるのは、家に残す2人の妹の心配か。


「もちろんです。お任せください」

 沙耶は柔らかい笑みで答える。

「紅霞さんも、どうかお幸せに」


 綾乃という姉の本名は闇に置いていく。影名であった「紅霞」という名前を婚姻届に記し、「紅霞」として生きていく。


「白鴉」

 伸ばされた姉の手を、そっと握った。

「橙鶯」

 そして、妹もまた、姉の手を取る。


「愛しているわ」


 語る必要はない。姉に向けた言葉は、昨夜伝えた。

 静かに膝を折り、その手を額に当てる。これだけで伝わるはずだ。


 喧嘩をしながらも受け入れてくれた姉の優しさ。普段は当主に逆らうべきではないとしながらも、家を守るためには自ら意見する強さ。ほんの一瞬の乱れも許されない美しさ。

 その全てへの、労いと、お礼を。


 母の愛を知らない雪にとって、姉からの愛はまさしく求めていたものだった。

 大好きな家族を見送る寂しさを抑え込み、ただ幸せだけを願う。


 父の仇でもいい。せめて姉だけは傷つけないでほしい。

 そう祈りながら、姉の手を離した。


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