44 名を置いて
姉の結婚式の準備が進む。姉が渡り廊下に向かう姿を見ることが多くなり、時には外出用の着物を着ていることもあった。
結婚式の準備は大変なのだろう。相手と話し合って、意見を合わせてから調整するのだろう。そんなの、雪には無理だ。
好きでもない人と一緒にいるだけで、きっと苦痛でしかない。それが憎いという感情も混ざるなら、なおさら。
だからこそ、姉の尊敬できるところが、またひとつ増えた。
「お姉様は今日もお出かけみたいですね」
庭に出ていた雪のところに、詩乃が歩み寄ってくる。
「式の準備だから。寂しいけど、仕方ないね」
いつも3人でお喋りした縁側。その時間がなくなるのは、やっぱり寂しかった。
「急いでいるみたいです。沙耶さんのお腹が目立つようになる前までにって」
まだ膨らんでいないとはいえ、間に合うのか。
「忍びの後継者が生まれるのは、外の人間に知られてはいけないんだよね」
「はい。弱点になってしまいますから」
生まれた子は厳しい戒律のもとで育てられる。そしてその戒律は、生まれる前から始まっている。
姉や妹のようにこの家で育てられたかったと思いながら、これから生まれる甥か姪の行く末を案じる。どちらが正しい感情なのか。
「幸せになれるといいなぁ……」
ぽつり呟いた言葉は、いったい誰に向けられていたのか。湿った風にさらわれたその言葉に、妹は答えなかった。
「雪、入ってもいいかしら」
夜、姉が雪の部屋を訪れた。もう寝る準備をする時間なのに。珍しいことだった。
「どうされたのですか? お姉様」
障子を開け、姉を入れる。
「早く休まないと。明日は大事な日なのですから」
結婚式を翌日に控えた夜。姉もナーバスになっているのだろうか。
「雪」
ふわりと優しい温もりに包まれた。
「お姉様?」
そっと姉の肩に手を添えながら、突然の行動に驚いていると
「誰もあなたを責めていないわ」
耳のすぐ横で、姉の声がした。
「姉として、あなたを誇りに思う」
父を殺してしまった。そう自分を責め続けた雪の心を見透かしたかのように。
「……ありがとうございます」
そう答えた声は、鼻にかかっていた。
「お姉様、どうかお元気で」
「雪もね」
軽やかな返事。大きな転換点を控えているというのに、いつも通り落ち着いている。
「困ったら、呼んでください。いつでも」
「呼んだら来てくれるの?」
くすっと笑う姉に
「はい」
と真面目な顔で答える。
「外の土地勘はあるんですよ」
「……そうだったわね」
1年に数回あるかないかの社交界のイベント以外では、もう何年も外に出ていない。でも、外の世界のことを忘れたわけではない。
「あなたが動くのは、霧崎家のためであるべきよ」
姉の優しい声が、いつものように雪の心に突き刺さる。
「お兄様と、これから生まれる子のために。何かあってはいけないのだから」
「……はい」
もう二度と失わない。この家の風見鶏を失わせない。その覚悟だけはあるつもりだ。
「忘れないで。あなたは霧崎の娘。何があっても、その名前が、雪を守ってくれる」
その名前を名乗るには、それ相応の覚悟がいる。それに気づくのが遅かった。ただそれだけのこと。
「お姉様、もうお休みください。主役が寝坊してはいけませんから」
「そうね」
姉は頷き、出ていく。
「おやすみなさい」
「えぇ、おやすみ」
その背中は、すっと伸びていた。
いつもの白梅の着物に、白梅の柄のお面。いつもの外交スタイルで、国内でも有数の高級ホテルを訪れた。
姉の結婚式とはいえ、霧崎のスタイルは変わらない。兄夫婦は喪服のように真っ黒な着物。雪は白梅、詩乃は金木犀の柄があるとはいえ、黒を基調とした着物であることに変わりはない。
それに加えて、雪と詩乃には狐面もある。明らかに華やかなスタイルではなかった。
新婦側の参列者として選ばれた忍びたちも席に座り、それ以外にも護衛がつけられる。
他の結婚式を知らないが、異様な光景のように思えた。
「見て、霧崎様だわ」
小さな声が聞こえた。視線はずらさず、耳だけを傾ける。
「相変わらず人間味のない……。不気味ね」
違う。人間だ。自分たちも、忍びたちも。ちゃんと人間だから、声は聞こえているし、不穏な空気も察する。
『大丈夫よ。わたしたちはお人形。喋ることはほとんどないし、笑う必要もない。ただ黙って立ってればいいのよ』
いつだったか、姉が言った言葉。社交界に出る時の心構えとして、いつも忘れずにいた。
人間味がないのが正解なのだろう。少なくとも、外の人間にはそう見えるべきだ。
新郎新婦が入場する時も、新郎側の参列者が温かい拍手を送る中で、新婦側で拍手をしていいのは兄夫婦だけ。霧崎の顔であり、唯一人間であっていい人間。
白いウェディングドレスを着た姉は、シャンデリアの光を受けて、キラキラ輝いていた。
披露宴の衣装は赤い打掛だった。華やかで、どこか厳かなそれは、姉によく似合っていた。
一通りの式が終わり、参列者たちがそれぞれの時間を楽しむ中、姉は夫から離れた。
「お兄様」
兄の前に立ち、軽く膝を折る。狐面に隠されていないその表情は、いつものように凛としていた。
「今までありがとうございました」
「うん」
兄は頷いた。それ以上の言葉はなかった。
言葉が少なかった父の真似だろうか。それとも、霧崎家の当主として、多くを語らないでいるのだろうか。
「青燕さん」
次に姉はその隣に向き直る。
「妹たちをよろしくお願いします」
姉の心にあるのは、家に残す2人の妹の心配か。
「もちろんです。お任せください」
沙耶は柔らかい笑みで答える。
「紅霞さんも、どうかお幸せに」
綾乃という姉の本名は闇に置いていく。影名であった「紅霞」という名前を婚姻届に記し、「紅霞」として生きていく。
「白鴉」
伸ばされた姉の手を、そっと握った。
「橙鶯」
そして、妹もまた、姉の手を取る。
「愛しているわ」
語る必要はない。姉に向けた言葉は、昨夜伝えた。
静かに膝を折り、その手を額に当てる。これだけで伝わるはずだ。
喧嘩をしながらも受け入れてくれた姉の優しさ。普段は当主に逆らうべきではないとしながらも、家を守るためには自ら意見する強さ。ほんの一瞬の乱れも許されない美しさ。
その全てへの、労いと、お礼を。
母の愛を知らない雪にとって、姉からの愛はまさしく求めていたものだった。
大好きな家族を見送る寂しさを抑え込み、ただ幸せだけを願う。
父の仇でもいい。せめて姉だけは傷つけないでほしい。
そう祈りながら、姉の手を離した。




