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43 役に立ちたい

 部屋に戻った。何も手につかなかった。


 雪の嫁ぎ先、小泉家は、極道のお家。古くから霧崎とつながりがあり、何度となく情報を買っていた。

 そんな情報だけならよかった。何を依頼したのかとか、何を買ったのかとか。そんな情報だけなら。


 最近の動向として記されていたのは、この屋敷の周りで目撃情報があったこと。構成員が何度か見かけられていた。


 そして、父が襲撃されたあの日も。


 それはつまり、父の命を奪った可能性があるということだった。


 父の仇。そんな人のところに嫁ぐのか。結婚して、一緒に暮らすのか。そんな人の顔を、これからずっと見なければいけないのか。


「……っ」

 その瞬間、強い嫌悪感を覚えた。口元を抑え、こみあげてきた何かをぐっと抑え込む。


 嫌だ、なんて、自分の感情でしかない。この家のために嫁ぐと決めたのだ。そんな感情なんて、蓋をしてしまえばいい。


「雪」

 ハッと顔を上げた。部屋の前に姉が立っていた。

「顔色が悪いわ」


 そう言いながら、姉は隣に座る。ツンと澄ましながら、優しいその顔に、雪は縋りたくなった。

「……お姉様」

 小さく呼びかけた。しかし、それに続く言葉はなかった。


「雪が無理なら」

 そんな雪に、姉が言った。

「わたしが嫁いでもいいのよ」


 姉の声は静かに落ち着いていた。何も知らないはずはない。雪以上に、姉はこの家のことを知っている。だからこそ、その言葉が理解できなかった。


「年は離れているけれど、政略結婚でこの程度の年の差なんて珍しくないでしょう」

「お姉様は、いいのですか……?」

 さらりと答える姉に、震える声で確かめる。


「お父様を……殺めた人かもしれないのに」


 認めたくなかった。言いたくなかった。言葉にしたくなかった。だから、ほんの一瞬の間が空いた。


「それがこの家のためになると、お兄様は判断されたのでしょう」

 そうだ。この縁談は兄が了承したもの。だからこそ提案された。兄の判断は間違いないと思う。


 受け入れなければいけない。兄が家のためと判断したのだから。霧崎家の娘である白鴉なのだから、当主が決めたことには従いたい。そう願う気持ちはあるのに。

 思考と感情は別だった。




 家族での夕食の時間。忙しい兄も、家族の中に戻ってくる時間。この後すぐ仕事に戻るのだから、家族全員が集う時間はこの時だけだった。


「沙耶、食べられないものはない?」


 身重の妻を気遣う兄の様子を見る。仲睦まじいと言えるかはわからないが、以前のように兄が避けることはなく、それなりの夫婦になっている。

 雪も結婚したら、兄夫婦のような関係になれるのだろうか。こんな関係になりたいと思えるのだろうか。


「そうだ。雪、顔合わせはいつにしようか」

 その瞬間、肩がビクリと跳ねた。


「そ、う、ですね」

 返事がぎこちなくなってしまった。


 顔合わせか。婚約者となる人間との初めての出会い。しっかり考えなければ。

 それがわかっているのに、思考がまとまらない。ぐるぐると回る思考に気を取られていると、


「雪さん」

 そっと差し出された手に、思わず頭を庇った。


「あ……」


 違う。ここでそんな警戒は必要ない。それが必要だったのは、もう何年も前のことなのに。兄が驚いた表情でこちらを見ている。その視線がつらくて、そっと逸らした。


「ごめんなさい。沙耶さん、何かご用ですか?」

 いつも通りの笑みを作り、沙耶を見た。


「怯えているようでしたので。大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ。顔合わせでですよね、お兄様。お兄様のご都合がいい日に決めてください。わたしはいつでも大丈夫ですので」


 いつも通り、いつも通りに。ただそれだけを気をつけて。それなのに、どうしても早口になってしまう。先ほどのとっさの行動を誤魔化すように。


「……いや」

 兄が静かに息を吐いた。

「やっぱり、綾乃にしよう」

「え?」

 唐突な言葉に、雪だけが驚く。


「かしこまりました」

 姉は静かに頭を下げた。その声に、驚きも動揺もなかった。


「お、兄様」

 驚きながら紡いだ言葉は、不自然に途切れた。

「どうしてですか? 元々わたしの予定で……」


 なぜ急に変えられるのか。なぜ姉になるのか。説明を求めた言葉に、

「そんな顔をしている妹を嫁がせられないよ」

 兄の顔が、心配そうに歪んでいた。


「大丈夫です」

 役に立つと決めたのに。こんなことで、兄に迷惑をかけたくない。


「雪」

 そんな感情は、姉の一言で諫められた。

「当主の命令に逆らうべきではないわ」

「でも……っ」


「元々わたしの方が先に嫁ぐものでしょう。多少の年の差なんて気にしていないわ」

 姉は既に覚悟が決まっていた。小さい頃からそのために育てられたと自負しているからだろう。


「……っもう、いいです!」

 姉の覚悟を否定することもできず、雪は家族の部屋を後にした。




 自分が情けなかった。自分を救ってくれたこの家のために生きると覚悟を決めたはずなのに。ちっぽけな感情に振り回される自分が、嫌いになりそうだった。


「雪さん」

 部屋の外から沙耶の声がする。

「お夜食をお持ちしました。夕食が途中でしたので」

 そういえば、途中で出てきてしまった。でも、空腹も何も感じられなかった。


「入ってもよろしいですか?」

 雪の了承を取ってからしか入らないのだろう。沙耶はそういう人だ。


「……どうぞ」

 だから、静かに答えた。


「お腹は空いていませんか?」

 沙耶の手に、おにぎりが乗った皿があった。

「いりません」

 小さな声で答える。食欲はなかった。


「お水だけでも飲みませんか? 少し落ち着きますよ」

 沙耶の声は優しい。雪の気持ちを察した上で、でも夫の事情も察している。


「……わたしは、役に立ちませんか?」

 母のように甘えられる存在だからこそ、素直な気持ちを吐き出せた。


「お父様の役に立つって、決めたんです。今は……お兄様の役に立つことこそ、必要なことなのでは?」


 父の役に立ちたい。その願いが叶わなくなった今は、兄の役に立ちたい。この霧崎という家を支えたい。それは、確かな感情だった。


「役に立つ機会は必ず来ますよ。それが今じゃないというだけです」

 沙耶はそんな雪の感情を否定しなかった。

「でも、最初はわたしが嫁ぐ予定でした。お兄様だってそれで納得されていたはずです」

 自分への不甲斐なさが興奮へと膨らみ、沙耶に身を乗り出して訴える。


「雪さん」

 沙耶が静かに呼びかけた。


「蒼梧様は、部下からの報告を全て覚えていらっしゃいます」

「……そ、れは……」

 わかっている。父は仕事を大事にしていた。それを兄も受け継いでいる。


「雪さんのことも、きっとご存知でした」

「わたしのことって……?」

「雪さんが、この縁談をどう思っているのか。どんなことを考えているのか」


 そんなの、誰にも伝えていない。奥に仕える使用人はもちろん、姉妹にも。言葉にしていない感情を、いったいどこで知るのだろう。


「今日のご判断も、わたしは間違っているとは思いません。綾乃さんも、判断が早いのは素晴らしいことだと仰ってしましたし」


 兄の判断は早すぎた。一瞬の間に、雪から綾乃へ、すぐに意見を変えた。だからこそ不満なのだ。もっと説明があれば、雪だって納得できるかもしれないのに。


「雪さん、どうか焦らないで」

 沙耶が雪の手にそっと手を添える。


「蒼梧様は、雪さんのことを見捨てたわけではありません。今じゃないと判断しただけ。いつか必ず、蒼梧様にお役目を任される日が来ますから」

 妻である沙耶が言うなら、きっと間違いないのだろう。


「……お兄様に言われたんですか? そう言ってこいって」

「蒼梧様がそう言われると思っていますか?」


 沙耶がふっと笑う。ずるい。そんなこと、あるはずがない。沙耶よりも雪の方が、兄と過ごした時間は長いのだ。兄の優しさを、知らないふりはできない。


 きっと兄も何かを考えているのだろう。そう信じることしかできなかった。


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