42 命と使命
「沙耶さん、赤ちゃんは元気ですか?」
「えぇ。朧狐さんのお墨付きです」
縁側でゆったりくつろぎながら、妹が楽しそうに尋ねる。医者である叔父は、頻繁にお屋敷を訪れては様子を見ていてくれる。
「性別っていつからわかるのでしょうか」
「生まれるまでわかりませんよ。エコー写真を撮る気はありませんから」
本来、妊娠すると病院にかかる。でも、ここは違う。出産経験のある女性たちを中心に、基本的には外出せずに命を育む。だから、性別がわかるようになるのは、まだまだ先だ。
「詩乃、あまり期待しすぎないのよ」
姉が穏やかになだめた。
「過度な期待は負担になるわ。沙耶さんには身体を大事にしてもらわないと」
「大丈夫ですよ。ただのお喋りですから」
そんな会話を聞きながら、雪は沙耶のお腹を見た。まだ膨らんでいないのに、そこに命があるというのが、なんとも不思議だ。
「雪さん」
呼びかけられて、雪は顔を上げる。
「触ってみますか?」
「い、いえ。大丈夫です」
慌てて断ると、
「では、わたしが触ってもいいですか?」
と妹が身を乗り出す。沙耶のお腹を優しく撫でながら、
「元気に生まれてきてね。一緒に遊んであげるから」
と呼びかけた。
「お姉様、霧崎家の当主は女性でもなれるんですか?」
その様子を見て、雪はつい疑問を口にした。すぐに気付いて、ハッと口を押さえる。
「ごめんなさい。何でもないです」
もう知りたいと思うこともやめたのに。未だに無意識に知識欲への答えを求めてしまう。
それにこれは、デリケートな問題だ。妊娠中の沙耶の前でするべきではないだろう。
「前例はあるわ」
取り消したのに、姉は答えてくれた。
「基本的に長子継承なの。性別は関係ないわ」
それを聞いて、少し安心した。女の子でもいいのなら、生まれてくる子を心から歓迎できる。そんな打算的なことを考えてしまうのが、正しいのか間違いなのか。その判断さえも、自信がなくなっていた。
「でも、女性当主は長い間いらっしゃいませんね。もう4代くらいは男性ばかりで」
詩乃の容赦のない言葉に、
「詩乃、その言い方はあんまり……」
と控えめに止める。
「ふふ。雪さんは、心配してくださっているのですね」
それを見て、沙耶が微笑んだ。
「大丈夫ですよ。男の子でも女の子でも、賢くて元気な子を産みますから」
相変わらず覚悟を決めている沙耶が、かっこよく見える。自分もこうありたいものだ。
父のために生きると決めた。今、父のためと言うなら、兄に従うのが正解だ。それが父にとっても嬉しいことだろう。
だから、もしこの先、自分に縁談が来るなら、それを喜んで受け入れる気でいた。どんな相手でもいい。それがこの家のためになるなら、と。
その日、兄に呼ばれた。表に呼ばれなかったのは、きっとまだ安全ではないからだろう。奥の一室で、家族全員が集まる。
「これを、見てほしい」
兄の顔が強張っていた。差し出されたのは、大きな写真。明らかにお見合い写真だった。
「縁談ですか」
姉は意外にもあっさりしていた。一番に縁談を振られやすい立場のはずなのに。
「18歳の大学生だ」
若い。まだまだあどけない少年のような顔立ちなのに。
「どういう方なのですか?」
「小泉翔。小泉組っていう大きな組織の嫡男だ」
兄ははっきりと言わなかったが、なんとなく裏社会に住む人間なのだろうとわかった。情報を売るという家業の都合上、そういった人たちとも関わりがあるのだろう。それにしては写真から荒れている様子が見受けられないのが不思議なくらい。
「わたしとは少し年が離れていますね」
「そうだね。だから、雪がもしよければ」
ドクン、と心臓が跳ねた。ついに来た、と思った。
全身の血が騒ぐ。それは、興奮か、拒絶か。それが何かもわからないまま、
「わかりました」
と声を絞り出した。
「学生結婚だから不安だと思うけど、その分顔合わせとか好きなだけやっていいからね。僕も同席するし、必要であれば忍びたちにも護衛させるよ」
「お兄様、ひとつ確認ですが、婿入りではありませんよね?」
綾乃の問いに、兄は軽く笑った。
「雪が望むなら、それでもいいけど」
「外部の人間です。奥に入れるのは危険かと」
やはり姉の意見は昔から変わらない。
「大丈夫です。わたしがお嫁にいきます」
雪の答えは、ひとつしか許されなかった。
「他にも必要なことがあれば、教えてください。霧崎のお家を捨てる気はありませんので」
沙耶は実家を捨てて嫁に来た。雪は実家を守るために嫁に行く。それとは反対だ。
「最初の顔合わせは、お兄様も一緒にお願いします」
「うん、わかった。それで調整しておくよ」
大丈夫。頑張ろう。そう言い聞かせることしかできなかった。
『気になるなら地下で調べてもいいからね』
兄はそう言ってくれた。これは知ってもいいものだとわかった。
結婚相手のことを何も知らないのは不安だ。兄の許しがあるからと、雪は久しぶりに自分の「知りたい」という感情を認めてあげることにした。
「詩乃、手伝ってくれる?」
「もちろんです!」
妹の協力も得て、雪は地下に入る。
たくさんの資料の中、忍びの術を使えば目的のものは簡単に見つかる。といっても、三毛猫なのだが。特別な墨で書いた紙をかざせば、三毛猫が連れて行ってくれるのだ。
「ありましたね」
大量の紙の束に、詩乃と一緒に目を通していく。
「……暴力団のお家なんだ」
声は震えていなかった。ただ事実をこぼしただけだった。
「怖いですか?」
隣から妹が聞いてくる。
「ううん。ただ、本当にあるんだなって」
どこか映画やドラマの中のような感覚だった。忍びという時代遅れの世界にいながら、こんな感覚になるのはおかしかった。
「大丈夫ですよ。今は形だけで、暴力なんてしない、と決めているところもあるそうですから」
妹は励ましのつもりなのだろう。しかし、ここに残った資料は、決してそう言ってはいない。
「……ぇ」
小さく声が漏れた。ページをめくった時のことだった。
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