41 命を繋ぐ覚悟
春の終わり、霧崎家に新たな報せが舞い込んだ。
「沙耶さん、おめでとうございます」
妹が隣で微笑む。その笑みに、沙耶は静かに答えた。
「ありがとうございます」
おめでたいこと、なのだろう。兄とその妻の間に、子どもが来てくれたというのは。
でも、なぜだろう。素直に「おめでとう」という言葉を向けられない。それどころか、兄に対する怒りさえも湧いてくる。
父が死んで、もう2ヶ月。それでも、兄は表で仕事に追われる日々。そんな日常のどこに、子どもを宿すきっかけがあったのか。
「雪姉様?」
口を閉ざす雪を不思議に思って、詩乃が顔を覗き込んでくる。
「どうかなさったのですか?」
「……ううん」
これは、兄嫁に言うべき言葉じゃない。そう思って口をつぐんだ。
「おめでとうございます、沙耶さん」
笑うことはできない。それでも口にした言葉は、空虚だった。
「雪、入るわよ」
その日の夜、姉が部屋に来た。
「どうしたのですか? お姉様」
驚いていると、姉はそっと手を伸ばす。なんだろう、と固まる。そんな雪の頬を、姉がつねった。
「な、なにを」
「それはこちらのセリフよ。なぜ怒っているの?」
姉の言葉の意味がわからなかった。だって、ちゃんと隠していたはずだ。
「夕食の時にも様子がおかしかったのを、お兄様も気にしていらしたわ。お兄様は今お忙しいのだから」
「す、すみません……」
兄にまで気づかれるとは思ってなかった。
「話してみなさい」
聞いてあげるから、と座る姉のそばに座り、雪は俯いた。
「これは……きっと、正しくない感情だって、わかってるんですけど」
本来なら、抱いてはいけない。素直に祝福するべきだ。
「沙耶さんのご懐妊がわかって、祝えなくて」
「どうして?」
姉は静かに言葉を促してくれる。その落ち着いた声音が、心を落ち着かせてくれた。
「お父様が亡くなって、まだ2ヶ月です。おめでとう、なんて言葉、言えません」
苦しい胸の内を吐き出すように、ひとつひとつ、言葉を紡ぐ。
「……お兄様にとっては、もう過去のことなんでしょう。それでも、わたしは……」
「そんなことないわよ」
姉の声は、すっと心に入ってきた。
「夜、お父様の部屋に入っていくお兄様の姿は、何度も見たわ。日中仕事ばかりしているのも、悲しみを思い出さないため。わたしはそう思ったけれど」
「そんな……じゃあ、どうして赤ちゃんなんて……」
「それが当主の義務だから」
姉の言葉に、ハッとした。
「お父様が亡くなって、お兄様が当主になって、後継者の座が空席。ここでお兄様にまで何かあれば、この家は崩れる。そう思ってのことではないかしら」
「でも……お兄様はまだ若くて……そんな、何かあるなんて……」
わかっている。父のように亡くなるなら、年齢なんて関係ない。それでも、信じたくはない。兄がいなくなるなんて、考えたくなかった。
「今はそうでしょうね」
そんな雪の心を理解しているように、姉は答えた。
「でも、その子供が後継者としての役目を果たせるようになるまで、18年。その子供が影名をもらうのが18歳とした場合ね」
その言葉で、ようやく理解した。
「18年の間、お兄様は風邪をひくことも、病に倒れることもできない。命を落とすなんてもってのほか。ここで子どもができていなければ、20年以上もその緊張が続くのよ」
「……そう、ですね」
「お兄様だけではないわ。忍びたちも、今の当主がいなければ、という緊張を無視できない。わたしたちだって、気にしていなければいけない。お兄様はそれを考えていらっしゃると思うわ」
兄だけの責任感で済むなら、兄はきっともっと他のことを優先したかもしれない。でも、家族や他の忍びまで巻き込むのなら。そう思って、家を安定させることを優先した。兄がそれを選ぶことは、自然とわかった。
「未来を見なさい。今にとらわれてはいけない。わたしたちは未来を生きていかなければいけないのよ」
姉の言葉が、重く心に響いた。
翌日、雪はひとりで、沙耶の部屋を訪れた。
「沙耶さん」
「どうしました?」
おめでとう、と言えばいい。でも、その前に。
「沙耶さんは、幸せですか?」
母になる気持ちを聞いておきたい。
「幸せというよりは、安心しました」
「安心?」
「はい。ようやくわたしの務めが果たせます」
その顔は、決して母親の幸せな表情ではなかった。
「もちろん、完全に安心というわけではありませんけれど。この子を無事に産み、育てるまでが、わたしの務めです」
母としてではない、ひとりの女として、霧崎家の嫁としての覚悟。
「……出産というのは、命がけだと聞きました」
母親になる喜びではなく、義務として子どもを産む彼女の心を、知りたかった。
「それは、蒼梧様も同じでしょう?」
沙耶は柔らかく微笑んだ。
「今は、表に出るだけでも命がけ。命をかけて、忍びたちを統率されています。そして、忍びたちも、任務に命をかけている。わたしだけ安全な場所で生きていく、なんて。当主の妻として、それはあまりにも身勝手なのでは?」
覚悟を決めて嫁に来たと言っていた、彼女らしい。
「蒼梧様が、謝っていらっしゃいました」
「え?」
「無理をさせてすまない、と。それを聞いて、わたしは首を振りました。無理はしていません、と。蒼梧様が忍びたちを従えるのが仕事のように、わたしはこの家を守り次世代へ渡すことが仕事ですから」
兄が謝るなんて。父の死から立ち直る間もなく、当主としての責務を負っている。その重圧の中、兄はどんな気持ちで生きているのだろう。
「……ごめんなさい」
少し前の自分の感情は、あまりにも子どものようだった。
「おめでとうございます」
ようやく出てきた、心からの言葉。深く、深くお辞儀した雪に、
「ありがとうございます」
沙耶の声が、優しく降りかかった。




