39 知らないままで
それから毎日、父の部屋に通った。
奥の部屋に連れていけないのは、忍びたちの護衛を緩めたくないから。それは、まだ安全ではないことを示していた。
父の手を握り、その温もりに安心する。まだ、生きている。そう実感できた。
大丈夫。まだ奇跡はある。そう信じ始めたある日のこと。
父は、呼吸を止めた。
銃撃から2週間後のことだった。
「おとうさま……っ」
詩乃が泣いている。お面をつけたまま、子どものように。
姉が鼻をすする音がする。涙は見えないが、それでも泣いているのだとわかった。
雪は、呆然と立ち尽くしていた。いろんな感情が、頭の中も、心の中も、ぐちゃぐちゃに駆け巡る。
何を言えばいいのか。「お父様」と呼びかければいいのか。もう返事はないとわかっているのに。「お疲れさまでした」とその人生を労わればいいのか。
「……ごめん、なさい」
口から出たのは、そんな言葉だった。何に対しての謝罪だったのか、わからないまま。
ぶわっと溢れた涙が、全身の力を吸い上げる。
「ごめんなさい」
その場に座り、頭を畳みにこすりつける。
「ごめんなさい……!」
父を死なせてはいけなかった。この家にとって、忍びたちにとって、何よりも大切な存在だったのに。
外から突然入ってきた異物に過ぎない自分が、父を死なせてしまった。
兄に。姉に。妹に。たくさんの忍びたちに。そして、この家に。謝りたかった。
「はくあ……」
姉の声がした。いつも毅然として強かったその声は、弱く震えていた。鼻にかかった声で、その名を呼び、雪の体を起こす。
「はくあ……っ」
姉は雪を責めなかった。泣きながら、抱きしめてくれた。
「ごめんなさい、お姉様。ごめんなさいっ」
何度も、何度も謝りながら。
姉は、雪の頭を抱え、何度も首を振ってくれた。あなたのせいじゃない、と。そう言葉にはならなかったが、伝わってきた。
許されるとは思わなかった。許されなくていい。許されない方がいいと思った。
殴られた方がよかった。大声でののしられた方が、はるかによかった。
母に蹴られた時の痛みより、父を亡くした痛みの方が、大嫌いだった。
父を庭に誘わなければよかった。
散歩を断ればよかった。
表に出なければよかった。
知りたいと思わなければよかった。
そうだ。知りたいという気持ちが、間違っていたのだ。
知らないままでよかった。そこまでして知る必要なんて、なかったはずだ。
この家のことも、忍びたちのことも。
父と兄に教えられることだけを、知っていればよかったのだ。
真っ黒に染まる葬式で、雪はただまっすぐ前だけを見つめた。
昨日、あんなにあふれた涙は、もう今日は出てこなかった。
ただ毅然と父の遺体を見送る娘。涙もなく、背筋を伸ばす。忍びたちには、どう見えるのだろう。
もう、気にしない。忍びのことなんて、知ろうと思わない。
霧崎の娘として立っていることこそ、その名前にふさわしい人間なのだ。
父の遺体が火葬場に向かう。そこに同行できるのは、兄と数人の忍びだけ。
行かないで、という言葉が、喉に引っかかった。
引っかかってよかった。これは、きっと声にするべきではない。少なくとも、大勢の忍びの目がある、この場では。
深く一礼をし、父を見送る。車が遠ざかり、頭を上げた時。さぁっと冷たい風が吹いた。
あの時の父の温もりを、きっと一生忘れることはできないだろう。ひどく痛かっただろうに、最後の力で、力強く抱きしめてくれた。
この冷たい風に吹かれるたびに、あの温もりを思い出しては、悲しくなるのだろう。
それでいい。この家から当主を奪ってしまった痛みを、自分は引き受けるべきなのだ。
式が終わり、雪はひとりで父の部屋を訪れた。先ほどまで遺体があったとは思えないほど、綺麗になっていた。
その中央に座り、そっとお面を取る。ここは表。絶対に許されない。でも、今だけ。
「お父様」
静かに語りかける。そこにはもういない父に。
「ごめんなさい」
父は愛してくれた。実の娘でもないのに。そんな父に、返せるものなんてなかった。
ひとつ、涙がこぼれる。
「お父様」
返事を待つかのように、何度も呼んだ。
ふたつ、雫が落ちた。
「叱ってくだされば、よかったのに」
叱ってもよかったのに。わがままだと怒ってくれれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。
もう父に届かない言葉を、ぽつぽつ並べていく。
「わたし、本当にお父様には感謝していたのですよ」
直接伝えられればよかった。
「お父様にいただいた名前、大切にしますね」
どちらかの名前を選べと言われたら、雪は進んで「白鴉」を取るだろう。父がつけてくれた名前には、いろんな気持ちが込められているだろうから。
「お父様」
何度も、何度も、呼びかける。それでも、返事はない。
「……っ」
あふれてきた涙を、止められなかった。
「お父様……っ」
狐面には、不思議な効果があると思う。これをつけている間、雪は「白鴉」でいられる。でも、外している今、涙を止める理由がない。
「白鴉様」
彼の声がしたのは、その時だった。
「こちらにいらっしゃったのですね」
襖に手をかける音を、雪の耳は聞き逃さなかった。
「待ってください!」
慌てて背を向け、お面をつける。紐を結ぼうと後ろに手を回す。
「まって……っ」
指が震えているのか。紐が結べない。混乱からか、涙も止まらない。
「失礼いたします」
そっと紐に添えられた手。
「見えていませんから」
彼はそう言って、紐を結んでくれた。後ろにいる彼の位置から、きっと顔は見えていない。不自然に覗き込もうとするわけもなく、彼はそっと離れる。
「失礼いたしました」
「……ありがとう、ございます」
彼のこの態度に、好感を持ったこともあった。好意に近いものだった。でも、それもまた、「霧崎の娘」には必要のない感情。
「影隼さん」
ゆっくり振り返り、彼を見据える。
「わたしは、知ろうとすることをやめます」
ゆっくり、言葉を紡ぐ。
「知らないままで、いいんです」
自分自身に言い聞かせるように。
「これ以上、誰も失いたくないから」
誰かを失うくらいなら、自分の感情に蓋をする。
「だから、もうわたしに声をかけないでください」
友人のように過ごすのは、もうこれきり。
雪が表に出る度に、なぜ彼がいたのか。なぜ彼と会っていたのか。
今まで、知らないふりをしていた。気づかないふりをしていた。少し考えれば、わかることだ。
「お父様のご命令は、もう終わったのでしょう?」
彼は、父に命じられた、雪の護衛だった。そう考えると、全てが腑に落ちた。
「かしこまりました」
彼は、ただ静かに最敬礼をした。
「奥に戻ります」
もう振り返らない。雪の方から、彼に背を向けた。
雪がいた場所に、小さなしみができていた。




