35 震える風
薬品の匂いがする。本当にかすかだが、狐面をしていてもわかるくらいには、はっきりしている。きっと、あの人が残していったものだろう。
叔父と呼んでいいのか、よくわからなかった。血縁上は異母兄。でも、異母兄である父人を「お父様」と呼んでいるくらいなのだから、あの人は「叔父様」なのだろう。
「またですか」
影隼の声に、足を止める。
「表を出歩かれるのは危険だと何度も」
「……怪我?」
彼は腕に包帯を巻いていた。
「軽い打撲です」
「そんな……」
昨日見た、あの光景。血の匂いと、怪我をした忍びたち。彼もまた、怪我をしてしまったのか。
「お医者様に見ていただきましょう。まだいらっしゃいますか?」
慌てて彼の怪我をしていない方の手をつかみ、昨日の部屋に連れて行こうとする。
「落ち着いてください」
そんな彼女を、影隼は一言で止めた。
「治療は受けました」
「……本当、ですか?」
「包帯を巻いているのが、その証です」
確かに。それを聞いて、ホッと息をつく。
「痛くありませんか?」
そっと手を触れようとして、でも痛かったら、と途中で止める。
「そんなには」
痛くない、とは言わなかった。痛くないはずがない。怪我をしているのだから。
「痛みには強いので」
「でも、痛いのでしょう?」
忍びがどれだけ鍛えていても、彼らが人間だと知ってしまった雪には、心配しないということはできない。
「どうして怪我をしたのですか?」
心配だった。だから聞いた。
しかし、彼は口をつぐんだ。これもまた、「知らなくていいこと」なのか。仮にも知っている人が怪我をしたというのに。
「……わたしは、頼りないですか?」
当主だからとか、後継者だからとか。どちらにも当てはまらない雪に報告する義務なんてない。雪が報告を聞く権利もないのかもしれない。
でも、知人から怪我の理由を聞くくらい、いいのではないか。
「なぜ、あなたが泣きそうなのですか」
彼の声が、優しかった。今まで淡々としていて硬かったその声に、柔らかい声音が混ざった。
「泣いてません」
狐面をしている間、感情を表に出してはいけない。それが姉の教えだ。だから、笑ったり泣いたりというのは、本来許されないものだった。
「ただ体術の訓練で打撲しただけです」
「……本当ですか?」
「はい。嘘はつきません」
「今までわたしに嘘をついたことがないと、言えますか?」
「はい」
彼の言葉に、迷いはなかった。たとえ嘘でも、よかった。その言葉を信じたいと思ったから。
「今日も散歩ですか?」
彼が尋ねた。表に出た時、必ずと言っていいほど彼に会うようになっていた。その度に、時間があったら散歩に付き合ってもらう。でも、今日は違う。
「怪我をした方をつき合わせるほど、鬼ではありません」
彼に無理をしてほしくなかった。
「わたしには護衛がいるそうですし、ひとりでも大丈夫です」
寂しくはあるが、ひとりでも問題ない。気分転換程度に少し歩き回って、今日はすぐに奥に戻ろう。
「ただのかすり傷です。白鴉様の暇つぶしくらいならできます」
「暇つぶしって」
「違うのですか?」
はっきり言ったことはなかったのに。あくまで視察だったのに。
「……そんなことを言うのなら、付き合ってください」
だから、雪は「命令」した。彼は頷き、いつものように隣を歩く。従者とするなら、少し後ろのはずなのに。
「湿布の匂いがします」
「貼りましたから」
そんな言葉をぽつぽつと交わしながら、雪は庭が見える縁側に出る。
秋の音に耳を澄ませるように、そっと目を閉じた。冷たい風にカーディガンが揺れる。軽く抑えた時、
「……っ」
周囲の空気が動く気配がした。そっと目を開けると、目の前に彼の背中があった。
「影隼さん?」
「下がってください」
「え?」
なぜ。よくわからないまま、彼はポケットから小さな笛を取り出し、一息入れる。ぴーっと鳥の鳴き声のような音がした。
すぐに、忍びたちが集まってくる。
「影隼か。どうした」
「罠の音がしました。白鴉様を」
「白鴉様、こちらに」
何か大変なことが起きたらしい、ということしかわからない。みんな表情が違う。それは初めて見る「忍び」の顔だった。
「白鴉!」
そこに、兄が走ってきた。
「奥に戻りなさい!」
「お兄様、いったいなにが」
「早く!」
兄の声が強かった。こんなに怒鳴られるのは初めてだった。
「白鴉様、移動しましょう。ここは危険です」
忍びたちに誘導されるままに、雪はその場から遠ざけられる。
「罠を確認しろ」
忍びたちに指示を出す兄の声が、いつもよりずっと冷たくて。
「父上のところは安全か?」
これが忍びだと、雪に踏み入る隙はないのだと、はっきり実感した。
「この家の周りには、たくさんの罠があるのよ」
状況を理解できないのが悔しくて。雪はその足で姉に説明を求めた。
「罠?」
「本来、こんな森の中まで外部の人間が入ってくることはない。だから、その罠にかかるのは、この屋敷を探りに来た人か、もしくは忍びを追ってきた人、ということになるわね」
「敵が近くまで来たということですか?」
雪の問いに、姉は少し間を置て、はぁっと息を吐く。
「普段は何ともないのよ。野生動物がかかることだってあるのだから」
「でも、そんな空気じゃありませんでした」
「そうでしょうね」
またか、みたいな感じではなく。本当にその場で戦闘でも起きそうな空気だった。影隼の固くこわばった声を、兄の怒鳴り声を、雪は聞いたことがなかった。
「お姉様は、何かご存知なんですか?」
「言えないわ」
姉は静かに答えた。
「教えてください」
「あくまで予想よ。はっきりお父様から聞いたわけじゃないの。そんな不確定な情報を広めたくないのよ」
姉はここで育った経験から、あらゆることを予想する。予想できてしまう。そんなの、ずるいではないか。
ここで育っていない雪には、圧倒的に知識が足りない。予想しようにも、どんな選択肢があるのか思い浮かべることだってできないのだから。
「とにかく、危険なことはわかったでしょう。もう表には出ないことね」
「……もう、いいです」
姉も教えてくれない。悔しかった。惨めだった。
『あなたはこの家の娘じゃないから』
そうはっきり言われた方が、何かが救われる気がした。




