33 影隼の由来
「雪には困ったものだよ」
それは、兄夫婦の部屋から聞こえてきた、兄の声だった。
「わたしがお話に行きましょうか? 少しは気晴らしになるかもしれませんし」
沙耶と話すのは楽しい。母の愛情を知らない雪が、姉の他に母のように甘えられる存在だ。でも、雪は寂しいわけじゃなくて、知りたいだけ。
「あまりにも目に余るようだったらね。今は父上が護衛として見張りをつけてると聞いているから」
「ふふ。お義父様らしいですわ」
あれから何度も表に出ていて、全く気づかなかった。それだけ忍びの技術がすごいのか、雪が鈍感なのか。どちらにしろ、あまりいい気はしない。
「見張りなんて、ひどいと思いませんか?」
そんな愚痴を聞いてくれるのは、影隼だった。
「まるでわたしを信用していないみたいな」
「はぁ……」
雇い主の愚痴なんて、彼も聞きたくはないだろう。でも、他に話せる人がいないのだ。
「お父様とお兄様は表に出ているんです。なのにわたしだけダメなんて言うから。理由を教えてもらえれば、わたしだって……」
いや、理由を聞いても、納得できなければ出るかもしれないな、と思った。
「ご当主様は、白鴉様がご心配なのでは?」
そんなの、影隼に言われなくてもわかってる。心配されているのも、愛されているのも。
黙り込んだ雪に、彼もなんとなく察したのか、
「まぁ、それで閉じ込めるのもどうかとは思いますが」
と続けた。
「白鴉様のような方は、ひとつのところに留まり続けるのも苦痛でしょうから」
「……別に、奥が嫌というわけじゃないです」
家族の場所だ。この家のどこにいても、居心地が悪いなんてことはない。
「ただ、知らないって、怖いんです」
それは、ずっと蓋をしてきた感情。
「お姉様と妹は知っている。でも、わたしは知らない。それが嫌なんです」
まるで、この家の人間じゃないと言われているよう。
わかってる。家族の誰も、そんな冷たいことは言わない。ただ、そう感じとってしまう自分がいる。
それを否定したくて、必死に知ろうとした。それを家族が認めてくれる、少なくとも止められることはない。だから、自分はこの家にいていいのだと、そう思えた。
「……影隼という名前は、忍びになる時に、ご当主様にいただきました」
ふと、彼が口を開いた。
「それまで、俺は、いろんな名前を名乗っていました」
「……いろんな?」
「外の学校に通っている時はひとつでしたが、それも本名ではありません。忍びの修行をしている時も、本名を誰にも伝えないことがルールでしたので」
本名を知られない。忍びとして当然のことだろう。雪だって彼の本名は知らない。
でも、どんな気持ちなのだろう。誰もその名前を呼んでくれないというのは。
「俺の本名を知っているのは、親とご当主様だけです」
「お父様もご存知なのですか?」
「おそらく。両親が忍びだったので、報告しているはずですから」
忍びは、その全てを報告している。任務外のことも、求められれば明らかにする必要がある。
「ご当主様が、俺の本名を知ったうえで、影隼という名前をつけてくださったこと、とても嬉しく思います」
「……本名と縁がある名前なのですか?」
そう聞いてしまって、あっと思った。本名を探るようなことを言ってしまった。
「ごめんなさい。なんでもないです」
すぐに訂正する。だから、彼も答えなかった。
「ご当主様は、とても優しい人です。顔が怖いとか恐れ多いとか、そういう感情もなくはないですが、単純に尊敬します。俺がお仕えするのがあのお方でよかったと、心から思います」
父は顔が怖い。感情もわかりにくいし、正直子供ウケはしないだろう。でも、雪は知っていた。その表情の裏で、いろんなことを考えているのだ。
「……ありがとうございます」
気づくと、そうお礼を言っていた。
「なぜ白鴉様がお礼を言われるのですか?」
「わかりません。ただ、言いたくなって」
忍びには忍びの感情があること。彼らなりの意思を持って仕事をしていることを知った。
「お父様にお伝えしてもいいですか?」
「ダメです。恥ずかしいので」
その言葉に、雪はハッとした。
「……恥ずかしいって、思うんですね」
「思います。人間ですから」
そうだ。彼らは人間だ。人間味の薄い無機質な感じを出しながら、それでも人として呼吸しているのだ。
「影隼さんのおかげで、お父様がもっと大好きになりました」
もし自慢できるところがあるなら、自信を持ってこの人の娘だと言えるだろう。そんなところなどないのだが。
もし父から政略結婚を命じられれば、喜んでその言葉に従おうと思えた。昔は絶対に嫌だと思ったのに。その時は恋人がいたからだが、今なら父の役に立ちたい思える。それは、雪にとって大きな転換点となった。




