29 影のことわり
一晩考えた雪は、やっぱりわからず、さっそく表に出た。父は忙しい。でも、兄なら? そんな希望を持って、兄の部屋を訪れる。
「お兄様、白鴉です」
「どうぞ」
兄の返事を聞いて、室内に入る。そこには、忍びらしい男がいた。
「白鴉様」
彼はその場で膝をついて頭を下げる。
「風鷹、下がっていいよ」
「はっ」
兄の側近だろうか。見たことのない忍びだった。
「珍しいね、白鴉。昨日は楽しかった?」
「はい。とてもいい経験になりました」
お面をしているが、その下は満面の笑み。兄しかいないとはいえ、廊下を誰か通れば聞こえてしまう。だから、言葉だけは気をつけた。
「それはよかった。でも、もう父上を困らせちゃダメだよ。おもちゃなら買ってあげるから」
「……お兄様、わたしはおもちゃで遊ぶほど子どもじゃありません」
「僕から見たら、まだまだ子どもだよ」
最近は沙耶も大切にしているとはいえ、まだ妹をかわいがりたいという気持ちも捨てきれないらしい。子どもができればまた変わるのだろうか。
「お兄様、教えていただきたいことがあります」
「なにかな。僕に教えられることならいいんだけど」
何を言う。兄は、忍びのことで知らないことなんてない。それだけの勉強をしているはずだ。
「外の防犯カメラに映らないのは、どうしてですか? お父様がそうされてるっていうのは聞いたのですが、そこまで徹底される理由がわからなくて」
その言葉に、兄は一瞬驚いて。そして、笑った。
「白鴉は、まだまだ勉強が足りないね」
「え?」
「霧崎は影に生きるって、何度も聞いているだろう?」
「それはもちろん」
儀式でも何度も聞いているし、それ自体はちゃんと覚えている。
「忍びたちと違って、僕らは顔を変えない。影に生きる人間は、生きている証拠を外に残しちゃいけないんだよ」
「え、でも、戸籍とかあるんじゃ……」
戸籍があるなら、生きている証拠になってしまう。それがある限り、全ての防犯カメラに全く映らないというのは、不自然ではないか。
それに対し、兄は答えなかった。ただ、困ったように微笑むだけ。その答えは、わかったようで、わかってはいけない気がした。
「……なんでもありません」
「白鴉は賢いね」
さっきとは真逆の言葉。でも、「知らない」という言葉を褒められたことはわかった。
まさか「知らないでいること」が正解の時もあるなんて。ずっと「知りたい」と思ってきた雪には、新しい発見だった。
「忍びは顔を変えるんですか?」
「任務によって名前も姿も変えるはずだよ。同じ人が複数人いるのも変だからね」
やっぱり、徹底している。「影に生きる」意味を、雪は再確認した。
知りたいことを知った雪は、奥に戻った。涼し気な浴衣で、日陰に座る。夕方になるのに、まだまだ日差しは熱い。うちわでパタパタと扇ぎながら、頭の中を整理する。
気づいてはいけないこと。知ってはいけないこと。知りたいという気持ちに、蓋をする必要もあること。それが「影の中で生きる」ということ。
思えば、道路で止まらないのも、防犯カメラを意識してのことだったのかもしれない。信号で止まっている間、そこが映るカメラの画角がずれていても不自然だろうから。
そして、任務ごとに名前も顔も変えるという忍びたち。雪が知っている彼らは、本当にあの顔なのだろうか。名前だって、影名しか知らない。全てが覆される気分だった。
本家の未婚の女性だけが狐面をつけ、忍びにさえもその顔を明かさない。それもまた、特別な意味があるのだろう。なぜそうするのか、また気になってしまう。でもこれは、知っていいものなのか。
「雪さん」
そこに、沙耶が来た。ただ黙って隣に座り、
「気持ちいいですね」
と微笑む。きちんとした着物で、うちわで扇ぐこともない。それなのに、表情は涼し気。こんなに暑いのに、と不思議だった。
「沙耶さんは、知りたいって思ったことはありますか?」
そんな彼女に、雪は尋ねた。
「もちろんありますよ。小さい頃から今まで、知りたいことだらけです」
幼い子が、なんにでも「なんで?」と聞くように。雪は今、その状態なのだろう。
「どうやったら止められるのですか?」
「止めたいのですか?」
「……わかりません」
止めたくはない。でも、止めるべき時が来る。そんな感じがする。
父や兄だけが知っているべきもの。姉や妹は、自然とそれをわきまえている。彼女たちのように、与えられるものだけを喜べたらいいのに。
「知りたいことは、知っていいと思いますよ」
沙耶は風に髪を揺らしながら、静かに答えた。
「本当にダメなことは、お義父様や蒼梧様が止めてくださいますから」
それはそうだ。先ほどのように、兄が静かに教えてくれる。これは知らないでいい、と。それ以外のことは知ってもいい、ということだろうか。
「沙耶さん、お兄様とは仲良しですか?」
これ以上気にしても仕方がない、と、話題を変えてみる。
「えぇ。とても大切にしていただいています」
「シスコンすぎてイヤになりませんか?」
「ご家族を大切にされるのは、いいことですよ」
本当に器が広すぎると思う。この人でなければ、兄はすぐ離婚していたかもしれない。
「それに、綾乃さんも雪さんも詩乃さんも、とても素敵な方なのは知っています。かわいがりたい蒼梧様のお気持ちもわかりますわ」
「……沙耶さんがお兄様のお嫁さんでよかったです」
外から来た人ということでいろいろあったものの、やっぱり雨降って地固まる。これでいいのだ。
なんとかなる。そう思えた。




