27 壁の向こうの声
温かくなってきた。こういう時期に黒い着物を着たら、ちょうどいいだろうな、と思う。暑い時期には着られない羽織りも、この時期ならきっと。
その日も、雪は表に出ていた。今日の服装は、淡いピンクの着物。庭に咲いていた桜の花を見て、今日はこれにしようと決めた。
狐面の下で、抑えめに鼻歌を歌いながら。今日はいつもと違う廊下を歩いてみよう、と角を曲がる。しばらく歩くと、声が聞こえてきた。
「おい、そろそろ終わろうぜ」
男性の声。ハスキーとまではいかないが、少し高め。
「あぁ」
それに答えたのは、低い声。父ほどではないにしても、最低限といった感じまで、父に似ている気がする。
「影隼は心配性だな。そこまで危なくないだろ」
「お前が楽観的すぎるんだ」
影隼、あの人か。そこまで親しいわけでもないが、ちょっとだけ顔見知りというだけで、少し気になる。壁に近づき、室内の会話に耳を澄ませる。
カタン、カタン、と何かを置く音。終わりと言っていたから、片付けているのだろうか。息を殺し、気配を消し、そっとその場に座る。
「だからぁ……」
突然、ガラッと戸が開いた。
「うおっ!」
開けた本人が、思わず驚いて後ずさる。
「は、白鴉様!」
そして、すぐに膝をついて忍びの最敬礼。見つかってしまった。
仕方なく、その場に立ち上がって背筋を伸ばす。
「驚かせてしまってごめんなさい。声がしたから、誰かいるのかと思って」
まさか聞き耳を立てていたなんて、言えるはずがない。
「さっきのお話は、次の任務のお話ですよね」
「はい。仰る通りにございます」
影隼は落ち着いていた。焦りも驚きもなく、ただ淡々としている。
「どんな任務なのか、聞いてもいいのですか?」
忍びがどんな仕事をしているのか。危険だ、みたいな言葉が聞こえてきたから、きっと忍びがつく任務の中でも危険度は高いものなのだろう。
「任務の内容は、口外禁止ですので」
返ってきたのは、そんな言葉だった。
確かに。忍びというのは、そういうものだ。たとえ主の縁者であっても、誰が聞いているかわからない場では何も言えないだろう。
「そう、よね。困らせてしまってごめんなさい。頑張ってくださいね」
やっぱり父か兄に聞くしかないのか。忍びの口から聞きたいというのは、無理のようだ。
「お父様、忍びの任務に同行させてください」
さっそく行動に移した。といっても、奥での食事の場面で。表では話せることも限られてしまうと思った。
「雪、何を言っているかわかってる?」
兄が呆れている。それもそうだろう。
「危なくないもので大丈夫です。勝手な行動はしませんし、足手まといにもなりません」
「それは無理ね」
姉があっさり言い放つ。
「忍びの技術を知らない人間が同行して、足手まといにならないなんて、不可能でしょう」
「……お姉様」
「諦めなさい。度を越えてるわ」
姉にまで言われてしまった。いつも味方だったのに。
「知りたいことがあるなら、僕が教えてあげるよ」
兄も気を使ってくれる。でも、違う。兄の言葉は、きっと現場の声じゃない。綺麗なオブラートに何重にも包まれているものだ。そんなものが聞きたいわけじゃないのだ。
「お父様……」
父の返事は聞いていない。最後の希望と言わんばかりに、父の目を見つめる。
「忍びの方に護衛をしてもらえばいいのでは?」
それは、妹の言葉だった。
「忍びのお仕事には、要人護衛もあるのでしょう? 本当の任務ではないかもしれませんが、それっぽいことはできるのではありませんか?」
「詩乃……!」
妹が味方になってくれるとは。本家内での権力はなくても、発言力はかなりあるはずだ。
「それでもいいです!」
「忍びは忙しいのよ。そんな子どものおままごとに付き合わせるわけにはいかないわ」
再び姉が反対する。やっぱり、最後の希望は何も言わない父だ。
じっと父の言葉を待つ。きっといい方法を思いついてくれると信じて。
「……考える」
父はそう一言言っただけ。叱られなかっただけマシか。
「よろしくお願いいたします」
せめて、と頭を下げて。
「お父様は雪に甘いですわね」
「父上、変に期待させるよりもはっきりおっしゃった方が、雪のためになりますよ」
「おもしろそうなことなら、ぜひわたしも一緒に」
姉も兄もひどい。が、妹だけはやっぱり合う。
「もちろん、詩乃も一緒だよ」
姉妹は手を取り合ってはしゃぎあった。
夜、兄が雪の部屋に来た。
「雪、楽器でも買ってあげようか。沙耶が琴なら教えてあげられるって言うから」
「楽器? どうして?」
「娯楽が少ないから退屈なんだろう。茶道や華道の道具を買ってもいいよ」
なるほど、兄の中ではそう結果になったのか。
「違いますよ、お兄様」
娯楽を求めているわけではない。ただ純粋に、知りたいだけ。忍びたちのことを。
「お兄様は、何でも知ってる人だから、わからないんです」
「どういう意味?」
「なんでもありません。おやすみなさいませ」
兄を追いだし、雪は障子を閉める。ふうっと吐いた息は、冷たい畳に吸い込まれた。




