25 影の教え
ひとりで渡り廊下の扉を潜る。狐面に、明るいパステルカラーの着物姿。
多くはないが黒以外の着物も持っていて、気分によってはこうして着て出歩くことがある。着物もワンピースもある今は、ファッションの自由度が増した気がした。
今日は、姉や妹は一緒じゃない。誘ってもよかったのだが、なんとなくひとりで歩きたい気分だった。
表の空気は、どこか張りつめていた。やっぱりここは「仕事の場」なのだと察する。このピリッとした空気も、たまに吸うくらいならちょうどいい。
表の廊下を歩いていると、前から洋装の男性が歩いてくるのが見えた。彼は、雪に気づいた瞬間、さっとそばに避けて膝をつく。
忍びのひとりか。気配というものを感じないのは、すごいと思う。
でも、少しだけ気になる。声をかけてもいいのだろうか。戸惑いながら、雪は彼の前で足を止める。
「……あの」
困らせたくない。自分の立場を考えると、こういった行動はしない方がいいのだろう。それでも、好奇心に抗えなかった。
「お名前は?」
「影隼と申します、白鴉様」
雪を認識しているのは、お面の模様のせいだろう。着物だけなら、妹と間違われてもおかしくないはずだ。
「影隼さん、ひとつ、お聞きしてもよろしいですか?」
「はい」
何の迷いもない返事は、断るつもりが全くないからか。
「忍びの方も、洋服を着ることはよくあるのですか?」
こんな疑問、姉に聞けば解決するだろう。姉がわからなくても、兄なら知っているはずだ。
しかし、忍びの言葉を聞いてみたかった。
「洋服、は、着ます」
戸惑っていそうな言葉だった。困らせてしまったか。
「ごめんなさい。儀式の時は黒い忍び装束だったから。任務外では洋服なのですね」
「は……」
困惑した声に、さらに申し訳なくなる。
「忍び装束は式典用で、任務中も基本的には洋服でございます」
「そうなのですか?」
「はい。忍び装束では目立ちますので。よくあるファストファッションが目立たずに潜入できます」
全く知らなかった。でも、言われてみればそうだ。忍び装束の人なんて、明らかに目立ってしまう。
「……ふふ」
自分の勘違いがおもしろくて、思わず笑ってしまった。
「あ、ごめんなさい。洋服姿の忍びっておもしろくて」
目立たないことが基本とはいえ、忍びという存在が洋服を着て街に紛れ込んでいるというのが、イメージするだけでなんともおもしろい。
「呼び止めてしまってごめんなさい。お仕事、頑張ってくださいね」
「はっ」
そう残して、雪の方が先に去る。そうでないと、彼は動けないから。振り返った時には、もうその姿はなかった。
「忍びって、洋服なんだ」
そう言葉にしてみて、また笑う。忍び装束はかっこいいと思ったのに、洋服と知った途端、なんだかかわいらしい。それで立派に仕事をするのだから、かっこいい。
自分は忍びについて知らなすぎる。そう自覚した。
忍びの細かいところはほとんど口伝で伝わるため、残された記録は少ない。それらにも目を通したつもりではいたが、基本を知らないほどに、雪は無知なのだ。
もっと知りたい。その感情は、自然なものだった。
忍びについて知りたいと思ったら、奥にこもってばかりではいけない。雪は表に出ることが増えた。
といっても、表は静かなもの。たくさんの人が頻繁に出入りしているわけではなく、本当に最低限なのだろう。
そんな時、ある部屋から出てくる人影を見た。
「次」
聞いた事のない声。きっと、忍びのひとりだろう。そっと気配を消して、耳をすませる。
「桐生電機の依頼でしたね」
「はい。ネオリス・システムズの開発部に潜入し、情報を抜きました。こちらを提出いたします」
報告の現場だった。口にする情報は最低限で、どうやって抜き取り、どうやって持って帰ってきたのかわからない。そういうところを聞きたいのに。
「はい、お疲れ様でした」
どうやら話は終わったらしく、襖の開く音がした。
そちらを見てみると、見た事のある顔。影隼だった。彼なら知ってる。教えてくれるかもしれない。そんな軽い気持ちで、雪は1歩踏み出した。
「……白鴉様」
途端、影隼を含めた数人がその場に膝をつく。あぁ、用があるのは影隼ひとりなのに。
「影隼さん、久しぶりですね」
「はっ」
硬い言葉。この前ほど話してくれそうにない。
「失礼ながら」
そう口を開いたのは、先頭にいた壮年の男性だった。
「影鬼と申します。白鴉様は、影隼をご存知なのでしょうか」
「はい。少しお話をしたことがある程度ですが」
「それは……ご無礼を」
当主の娘と話すと無礼になるのか。雪は全くそんなこと思っていないのに。
どうやらこの影鬼という男性以外は、比較的若い。この男がこのグループのリーダーのような存在なのだろう。
「影鬼さん、どんな任務をされたのか、お聞きしてもよろしいですか?」
それならこの男に聞いた方が早い。
「はっ。私にお答えできることならば」
「会社に潜入したと聞きました。どうやって潜入したのですか?」
「は……?」
当然、彼は驚いていた。それに対し、雪は、あれ?と首を傾げる。そんなに難しい質問をしたつもりはないのに。
「ハハハッ、なんともおもしろいお嬢様ですな」
そこに笑いながら現れた老人。父の側近だと、すぐにわかった。一度会ったことがあったから。確か名前は、朧鶴だったか。
「白鴉様、そのようなこと、お嬢様に尋ねられたらみな怯えますぞ」
「怖がらせるつもりじゃ……」
ただ知りたいだけなのに。
「影鬼、ご当主様のお許しは得ている。白鴉様の質問に答えて差し上げろ」
朧鶴の言葉に、雪は安堵した。おそらく父の指示で来てくれたのだろうが、雪を止めるつもりではないらしい。
「はっ」
影鬼は静かに一礼し、
「派遣社員として入社し、開発部に潜入、社内データにアクセスしてUSBにコピーして持ち出しました」
「そんなに簡単に持ち出せるのですか?」
「日本企業のセキュリティであれば可能です」
随分現代的だ、と思った。
「忍びの戦闘のようなことは? 手裏剣とか……」
「使いません。今回は不要と判断しました」
想像と全く違う。現代に適応した忍びの形だ。
「では、しばらくその会社の社員として働くのですか?」
「昔はそうでしたが、今は入社して数日で辞める若者も珍しくありません」
そういった細かい時代の状況まで分析されているのか、と驚いた。
「では」
「白鴉様、その辺りで」
つい熱くなりすぎて、朧鶴に止められた。
「この者たちも次の任務の準備がありますので」
「あ……」
そうだ。時間を取らせてしまうのも申し訳ない。
「お話を聞かせてくれて、ありがとうございました。お疲れ様でした」
そう言って、雪はその場を離れる。そして、ふっと息を吐いた。
「朧鶴さん」
「はい」
気配はなかったが、彼が後ろにいることはわかっていた。
「お父様から何か聞きましたか?」
「どうでしたかな。最近少々物忘れがひどくて」
さすがにこれは嘘だとわかる。でも、父が止めたわけではなさそうだ。見守っていただけだろうか。父の意思があることは間違いなさそうだ。
「朧鶴さんは、手裏剣や苦無を使った任務も経験ありますか?」
「ないですな」
「ない……」
「私の若い頃には、もうそんなものは歴史の遺物でした。他に便利なものが出ているのですから、そちらを使いましたな」
やっぱり雪が思う忍びとは大きく解離がある。この家は何百年も時が止まったように感じていたのに。忍びの中でもかなり高齢の方の朧鶴で使ったことがないのなら、若い忍びなんて見たこともないのではないか。
「白鴉様、好奇心は時に牙を剥きますぞ」
「え?」
「ご当主様はお喜びでしたがね」
ハッハッと笑いながら、彼は去っていった。
当主の娘に背を向けるなんて、と腹を立てるところだろうか。しかし、不思議とそんな気分にはならない。むしろこれくらい気楽に接してくれる方が嬉しい。
今日もまたひとつ、忍びについて知った。目標を達成した喜びとともに、雪は帰途についた。




