23 父の手、兄の声
泣いてはいられなかった。家族に知られたくない、という思い。
父はどこまで聞いているのだろう。彼は報告したのだろうか。父は何も言わなかったが、その日の夜、雪の部屋を訪れてくれた。
「まだ起きているのか」
その一言だけ。
「もう寝ます。おやすみなさいませ、お父様」
雪がそう答えると、父はひとつ、大きな手で頭を撫でてくれた。それだけが、特別な瞬間だった。
「お兄様と沙耶さんの距離が遠すぎます!」
それは、詩乃が言い出した。
「まぁ……。蒼刃様はお忙しいですから」
沙耶は自然に流す。気にしている風でもなく、ただそれが自分の務め、と言うように。彼女が未だに夫を本名ではなく影名で呼ぶのが違和感しかない。
「直近でお話したのはいつですか?」
「さぁ……、3日ほど前ですかね」
「夫婦なのに! 夫婦とは、仲睦まじく毎日お喋りしないと!」
詩乃の理想の夫婦像とかけ離れすぎていると訴える。
「詩乃、落ち着きなさい。お兄様と沙耶さんの事情もあるのよ」
それを綾乃が静かに諌める。
いつも通り。それなのに、何かが違う。
「沙耶さん、寂しくないのですか?」
「寂しくはありませんね。蒼刃様が妻を必要とされた時に、わたしのことを思いだしてくだされば」
「んもう! そんなのダメです!」
少女らしい理想に、姉が呆れている。
「ねぇ、雪姉様?」
「え?」
突然自分に飛んできた。
「聞いていらっしゃらなかったのですか?」
「あ、ううん。聞いてたよ。えっと、お兄様と沙耶さんのことだよね」
いつも通り。いつも通りに。霧崎白鴉という名前が、雪を支えてくれた。
寝台の布団の中はいい。外がどんなに寒くても、この中だけは別世界のように温かい。心の中に吹く冷たい風も、この瞬間だけは邪魔できないように思う。
「雪、入るよ」
「……お兄様?」
まだ日は高い。兄は仕事の時間のはずだ。障子を開けた兄は、部屋の奥の寝台で体を起こす妹を見て、苦笑した。
「元気みたいだね」
「はい?」
特に元気がないという話はしていないはずだ。
「風邪でもひいたのかと思ったよ」
「外が寒いので、暖を取っているだけです」
「じゃあ温かくしないとだね。横になってていいよ」
兄がそう言うから、雪はまた横になって布団に首まで入れる。兄は寝台のそばに座って、頭の上に手を置いた。
「お兄様」
「ん?」
「わたしは、大丈夫です」
「うん、知ってるよ」
じゃあこの手はなんだ。そう思いながら、その温もりが、重みが、気持ちいい。
「お兄様は、恋をしたことは、ありますか?」
ふと口をついて出た言葉に、兄は一瞬目を見開いた。
「……すみません。何でもないです」
「あるよ」
慌てて取り下げようとした雪の言葉を遮って、兄が答えた。
「……その方とは、どうなったのですか?」
「どうにも。僕は霧崎の後継者、彼女はただの忍び。簡単に交際ができる立場ではないからね」
そうか。兄の想い人は、忍びだったのか。
「辛くないんですか?」
「もう過去のことだから」
この閉鎖された空間でも、恋をすることができる。それを知っている人が、政略結婚だなんて。兄が沙耶に近づかないのは、それが原因かもしれない。
「わたしは」
心の中に浮かんだ言葉を口にしようとした瞬間、一気に涙腺が緩んだ。
「……わたし、は」
言いたい。言いたくない。相反する2つの感情に、心臓がぎゅっと押しつぶされそうになる。
「言わなくていいよ」
それを、兄の声は優しく包み込んで緩めてくれる。
「わかってるから」
何をわかっているのだろう。忍びの技術があったって、人の感情を正確に読み解くことなんてできないはずだ。
「わたしは、白鴉です」
「うん」
「お父様にこの名前を戴いた時、嬉しかったんです」
今でも思い出せる、あの喜び。誰よりも先に、彼に報告したくなった。
「でも、……雪という名前を、最初に好きにしてくれたのは……」
彼がいたから、雪は生きてこられた。母の気持ちも籠っていないような、かわいげもない雪という名前を、好きになれた。何度も、何度も、呼んでくれたから。
「僕も、雪の名前、好きだよ」
兄の声が、じわりと瞼に沁みる。
「白くて、可憐で、儚くて。綺麗な冬の風物詩だ」
今だからこそ、言える。この名前でよかったと。家族が呼んでくれるから。
「雪は集まると、硬く強くなる。雪みたいだね」
「……どういう意味ですか」
「何度も踏まれながら、雪は硬くなっていく。ひとりで成長していく。そして、硬くなった雪は強くなる。雪には、そういう力があると思うんだ」
もっと、もっと、これ以上好きにさせて、いったい何をしたいんだ。目の横をつたってシーツに吸い込まれていく雫たちを、雪は拭うこともできなかった。




