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22 柚の落ちる音


 寒くなってきた。和風な造りの屋敷は湿気を逃がすことができるが、寒気を防ぐことはできない。特に昔に比べて寒さも厳しくなっているから。


 暖房器具なんて全くなくて、服を重ね着して、火鉢に手をかざして温めるくらいのことしかできない。部屋の中でもコートを着るような冬も、もう慣れてきた。


 こういう時のライフハックを、詩乃に教えてもらった。丸い石を火鉢で温めて、カイロのように服の中に入れておく。すぐに冷たくなるが、その都度変えていけばいい。こういう不便も、雪は楽しんでいた。




「はぁ……」


 吐いた息が白い。火鉢に手をかざしながら、雪は外を見た。こういう時でも、やっぱり障子は開けておきたくなる。冷たい風が入ってくることよりも、閉じ込められた空間の方が苦手だ。

 そんな時だった。


「にゃぁお」

 猫の声がして、白い猫が入ってきた。


「あれ?」

 呼んでもいないのに。猫の首輪に紙がついている。

「お父様かお兄様のお使い?」


 猫は暖かさを求めて、雪の膝の上に乗る。その温もりにふっと微笑み、手紙を取った。


『表に出て来られる?』

 それは、彼の字だった。嬉しかった。


 最近、手紙のやり取りの頻度が減っていた。雪が忙しかったのもあるし、大学に通う彼の都合も考慮して、あまり出さないようにしていたから。


 ただのお手紙ではない。呼び出しということは、会えるのだ。父の許しを得たのだろう。


「猫ちゃん、ごめんね」

 せっかくの温もりを手放して、雪はさっそく支度を始める。普段から意識して整えてはいるが、彼に会うのだから中途半端な恰好ではいけない。


 髪に櫛を入れ、洋服も着替えて。

「そうだ。柚も持っていこう」


 庭の柚の木から取っておいた実がたくさんある。お風呂に入る時に浮かべて匂いを楽しむ用だが、彼にもおすそわけしたい。


「ふふ」

 子どものようにはりきって、雪は立ち上がる。


「あ、そうだ」

 表に行くなら忘れてはいけない、狐の面。しっかり紐を結んだ。


 駆け足になってしまう。廊下を走るのははしたない、と姉に怒られてしまいそうだ。

 でも、彼を待たせてしまっている。それ以上に、彼に会いたい。

 せめて姉に見つからないように、足音を殺した。


 渡り廊下に来た。お面の位置がずれていないことを確認して、ふうっと息を整える。


「開けてください」

 扉の番人にそう告げて、開けてもらう。彼は、そのそばに立っていた。


「悠真……!」

 嬉しかった。パッと駆け出しそうになる。あと一歩、扉を越える直前に、


「雪」

 彼の声に、止められた。飛び込めなかった。彼の声が、硬かったから。まるで怒っているかのように。


「悠真?」

 どうしたのだろう。


「雪は、強くなったな」

「え……?」


 突然、何の話だろう。


「もう俺がいなくても、大丈夫だよな?」

「待って、悠真……」


 そう手を伸ばすのに、届かない。手に持っていた柚が、ゴトン、と落ちる。その音さえも、聞こえなかった。


 あと一歩、扉を越えればいいのに、足が動かない。まるで、見えない壁が隔てるように。


「留学するんだ」

「りゅー、がく?」

「うん。今度はヨーロッパの方に」

「……そっ、か」


 寂しい。その気持ちは、飲み込んだ。


「頑張って、ね」


 彼を応援すると決めたのだ。寂しくても、我慢しなければ。


「任務を受けるんだ」

「忍びの?」

「そう。留学先から、有用な情報を流してほしいって。実務訓練は受けてないから、あくまで協力者的な立ち位置だけど」

「それでも、すごいよ」


 雪には立てない場所、歩けない場所を、彼は歩いていく。


「いつ帰ってこられるか、わからないんだ」


 行かないで、と言いそうになった。それだけは、彼を引き留める言葉だけは、言いたくない。唇を硬く結び、ただひとつ、コクンと頷く。


「待ってる」

 かろうじて伝えた言葉は、鼻にかかっていた。


「雪」

 彼の目が、雪を見る。真っ直ぐに。寂しそうに。


「別れよう」


 いやだ、と叫びたかった。それを止められたのは、霧崎という名前だった。


「雪は、強くなった。もう俺は、必要ないだろう?」


 違う。そんなことはない。


「昔の約束、覚えてる?」


 忘れたことはない。ただの一度たりとも。


「生きろ、って。逃げていい、頼むから生きてくれ、って。雪は、その約束を守ってくれた」


 待っていてくれ、とは言われなかった。でも、あの日、空港で会うというのは、約束のひとつだった。


「それだけで、嬉しかったんだ」


 その言葉に支えられてきた。その言葉があったから、雪は立ち上がれた。この家に来られたのも、彼のおかげだ。


「俺がいなくても、雪は大丈夫だよ」


 泣きたくない。この場所で、表が見えている時に、涙をこぼしたくない。


「……わか、った」


 嗚咽を殺し、雪は小さく頷く。これだけでは足りない。もっと、もっと、伝えたい言葉がある。


「この5年間、あなたに支えられていました」


 泣くな、と心に訴える。


「ありがとうございました」


 深くお辞儀をして。お面の内側に、ひとつ、雫が落ちる。


「じゃあね」


 彼が去っていく。行かないで。そう縋りつきたい気持ちを、霧崎白鴉という名前が抑え込む。


 扉が閉まった瞬間、雪はその場に崩れ落ちた。


 抑え込んだ涙は、出てこない。ただ、心に残った空虚感。息をしているのか、わからなかった。まるで自分という存在が消えかかるように。




 どれだけそうしていただろう。鼻の先を、お香の香りがかすめる。


「雪さん?」

 沙耶だった。

「雪さん、こんなところでどうしたのですか?」


 その心配そうな顔で、声で、一気に蓋が取れた。感情が、涙が、溢れてくる。


「ぅあ……あぁ……っ」

 小さく押し殺した声をこぼしながら、雪は子どものように涙を流す。


「雪さん」

 そんな雪を、沙耶は優しく包み込んでくれた。


「大丈夫、大丈夫ですよ」

 何も知らないはず。それなのに、彼女の声が、空っぽになった心に染み込む。


「涙が流れるのは、雪さんがまたひとつ大人になった証。その感情は、間違っていませんよ」

 母でも、姉でもないのに。優しい温もりに包まれながら、雪は泣くことしかできなかった。


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