20 雨の間に灯る声
ついに雪が動き出した。狐面だけを持ち、部屋を出る。行き先は、雨の間。
足音を消すのは慣れた。靴下を履いていれば、自然と音を消して歩くことができる。誰にも見つからず、ひとりでその場所を訪れた。
障子が開いていた。今まで、ぴったり閉じられていたものが。まるで、雪が来ることをわかっていたように。
廊下に立ち、どうしよう、と足を止める。誰にも見つからずに雨の間に行く、ということができてしまったため、この先を考えていない。
「金木犀の妖精さん?」
その時、静かな声が聞こえた。気配を感じたのだろうか。
お面を顔の前にかざし、そっと顔だけを覗かせてみる。
「あら、白梅の妖精さんでしたね」
その人は、綺麗に座っていた。落ち着いた色合いの着物に、黒髪を綺麗にまとめ上げて。その手に持っているのは、本だろうか。
「白鴉さん、だったかしら」
「……!」
名乗ってもいないのに。思えば、名乗らずに部屋を訪れるのは失礼だ。
部屋には入らず、廊下で彼女の方を見て座る。
「そう、です」
戸惑いながら口にした言葉は、それだけだった。
「よかった。勉強しているのよ。影名だけは覚えてもいいって、お義父様にお許しをいただいたの」
「……お勉強、ですか?」
「えぇ。この場所のことは、何も知らないもの。今の間に、外に出ても恥ずかしくないくらいに知識をつけておこうと思って」
何も知らずに外には出られない。そんな彼女の気持ちが伝わってくる。
「金木犀を届けてくれたのは、白鴉さん?」
「いえ。妹です」
「そう。お礼を伝えてくださる? 素敵な秋の香りをありがとう、って」
これくらいなら伝えても問題ないだろう。妹は喜ぶかもしれない。
「嫌じゃ、ないんですか?」
不思議だった。一言も、責められない。こんなところに閉じ込めて、などと怒鳴られることも覚悟の上だったのに。いや、それがないとわかっていたから、ここの来る覚悟ができたのかもしれない。
「嫌? どうして?」
彼女は首を傾げた。
「軟禁じゃないですか。部屋から出ちゃいけない、なんて」
「それは、ここにとって必要なことでしょう?」
まるでそれが当然かのように、青燕はそう告げた。
「わたしは、何も知らないから。言われたことを受け入れるしかないの」
その気持ちは、わかった。彼女より少し前に感じたことがある。
あの時、どうして兄は、自分を受け入れてくれたのだろう。姉は部屋に来てくれたのだろう。
「大切な場所だってわかっているから、お義父様や蒼刃様のご命令には従うわ。郷に入っては郷に従え、と言うでしょう?」
「でも……」
「わたしは、命を捨てるつもりで嫁いできたの。縁談が決まった時、父に言われたわ。ほんの少しの失敗で命を奪われると思え、って」
それはどうなのだろう。雪はそんな危険な現場を見たことがない。でもそれは、忍びについて知っていることが少ないからではないか。
忍びたちは、それこそ命を賭して任務に就いている。ミスで命を失うことも、なくはないのではないか。
「……っていうのは、表向きでね」
彼女はそう続けた。
「わたしね、小さい頃から決めていたの」
小鳥のように軽やかな声だった。
「嫁ぎ先のために生きよう、って」
「……え?」
それは、意外な言葉だった。
「ご実家は……?」
「まだ恋愛のれの字も知らないような子どもに、お前は家のために犠牲になれ、なんて教える家庭よ。この家に骨を埋めよう、なんて気にはなれなかったわ」
雪の育った環境とはまた違う。でも、その空虚な感じは、どこか似ている気がする。
「わたしを愛してくれた人のために生きる。それが一番幸せなことなんだって」
「……愛されていると、感じますか?」
結婚式まで顔を合わせることもなく、夫となった人間には「穢れ」とされ、1ヶ月間、近づいてももらえない。そんなの、幸せだと言えるのか。
「愛される自信はあるわ」
彼女はそう答えた。
「そうなれるように、努力してきたんだもの。努力は裏切らない、ってよく言うじゃない? 綺麗事かもしれないけれど、わたしはその言葉が好きなのよ」
かっこいい。あの結婚式で見た黒い花嫁は、打掛を脱いでもなおこんなに輝くのか。
「父には、高野家をよろしくお願いしますと言え、と言われたわ。でも、結婚式では言わなかったでしょう?」
「はい」
「高野家のためによろしくするつもりなんて、微塵もないの。わたしは、わたしが幸せになるために、この家に尽くすと決めたのよ」
またひとつ、目標ができてしまった。彼女のようになりたい、と。
彼女の覚悟が、ひしひしとつたわってきた。




