19 穢れと香り
蝉の声が止まった。代わりに、何かわからない虫の声がする。図鑑で勉強しておけばよかったなぁ、なんて、そんなことをぼんやり考える、秋の昼下がり。
このピリピリした空気の中、部屋にいるのは息苦しい。縁側に座り、はぁっと息をつく。
姉の意見はわかる。雪にはわからないことばかりだが、姉が間違っていないということだけはわかる。だから、姉に従った。
でも、それによって、家族を受け入れないという現状が、正しいとも思えなかった。
1ヶ月後、何か変わるのだろうか。父の側近である蜻蛉が、側近であることを隠して侍女として仕えることになった。実力はあるのだろうし、きっと疑わしい行動を見抜いてくれるのだろう。
安全だとわかれば、1ヶ月後、謹慎が解かれる。その時、何が起きるのだろう。姉はどうなるのだろう。それが不安だった。
「あら、雪姉様、日向ぼっこですか?」
妹の声に、ハッと顔を上げた。
「そんなに金木犀の枝を持って……。また香り袋を作るの?」
両手いっぱいの枝に、星空のような金木犀の花がついていた。この花が大好きな妹は、毎年香り袋をたくさん作って1年間のお守りにしている。
「いいえ、もう作りましたわ」
詩乃はパッと笑った。
「じゃあどうして」
そう口にした雪の前で、妹は人差し指を立てて口にあてた。
「雪姉様も来てください」
「え?」
秘密、なのに。よくわからないまま、雪は彼女の後をついていく。楽しそうな軽い足取りで、いったい何をするつもりなのだろう。
「待って」
途中まで来て、雪は足を止めた。
「この先は」
雨の間に通じる廊下で、わかった。
「大丈夫」
しかし、妹は笑顔を崩さなかった。
「知られなければ、怒られませんわ」
そんなことが可能なのだろうか。そばには蜻蛉がいるはずなのに。
廊下を過ぎて、詩乃は部屋の前にはいかず、廊下で止まった。雨の間といわれる部屋の、すぐ隣。小窓のそばに、枝を置く。そして、そばの壁をひとつ、コツンと叩いた。
「参りましょう」
それで終わりか。詩乃に言われ、雪もそこから離れる。
「お土産です」
歩きながら、詩乃はそう言った。
「お部屋の中では、秋の匂いがわからないでしょう?」
「……それで、金木犀を?」
「はい」
父にはきっと報告がいく。金木犀の枝というだけで、犯人は丸わかりだ。しかし、きっと父は叱らない。父は彼女を嫁として受け入れることを決断したのだから。
「雪姉様」
その時、先を行く詩乃が振り返った。
「お出かけしませんか?」
「お出かけ?」
雪は首を傾げた。
「どうしてこの着物で……」
結婚式にも着た、柄物の黒い着物。特別な服なのに。
「表をお散歩するだけなのに」
「いいじゃないですか。わたし、まだ外に出られないんですもの。せっかく着物を作っていただいたのに」
狐面をしているのに、楽しそうな笑顔なのがわかる、弾むような声。雪は苦笑いをこぼし、保護者のように彼女の後をついていった。
少し歩き回り、詩乃はとあるところで止まった。そこで座り、
「お兄様」
と告げる。雪もその隣に座った。
「橙鶯です」
「白鴉です」
順番に名前を告げ、
「どうぞ」
と許可をもらってから障子を開ける。
「珍しいね」
いつも父とセットのように考えていたが、やはり兄には兄の仕事があるのか、たくさんの紙が積んであった。
「お兄様にお土産をお届けに参りました」
妹が袂から出したのは、小さな香り袋。
「かわいらしいお土産だね」
それを見て、兄が微笑む。
「うん、いい匂いだ」
「そうでしょう?」
兄に褒められ、妹が得意気になるのがわかる。
「白鴉は、付き添いかな」
「はい。橙鶯に誘ってもらったので」
「よかったね。お散歩もいいけど、肌寒くなってきたから、風邪をひかないようにね」
妹の前では、優しい兄。こんな優しい人に父のような立場ができるのだろうか、と心配になるほど。
「お兄様、青燕さんにはお会いになっていらっしゃるのですか?」
だから、自然と聞いた。自然な会話の流れでのことだった。
しかし、兄の表情が固まった。
「……会ってないよ」
その話題を避けるように、吐き捨てられるような言葉。
「彼女は穢れを落としているんだ。僕はまだ近づけない」
「穢れだなんて……。外から来たからって、そんな言い方は」
「白鴉」
兄の静かな声が、突き刺さる。止められた。遮られた。
「橙鶯も。まだ安全だと確かめられていないんだ。お土産を届けるくらいならいいけど、くれぐれも近づかないようにね」
兄もまた、外を忌避しているのか。この家の根付く問題は複雑だと思う。
「存じておりますわ、お兄様」
妹の静かな声が、どこか悲しそうだった。
続いて、父の執務室を訪れた。
「秋のお土産をお届けに参りました」
詩乃はそう言って、父にも香り袋を渡す。
「お父様、青燕さんはまだ謹慎が解けないのですか?」
なんとかできるのは、父しかいない。わずかしかないこの時間を活かそうと、雪がすかさず声をかける。
「早くお会いしたいです」
「……そうか」
父は静かに頷いて、
「目立った報告は上がってきていない。少なくとも危険思想を持った人間ではないだろう」
と答えた。
「では……」
「白鴉」
父の低い声で、その名前を呼ばれると、くすぐったい。嬉しくて、楽しくて、同時に逆らえない、と身体が判断している感じがする。
「お前なら、兄や姉の心を、溶かせるかもしれん」
それは、父からの期待の言葉。そう受け取ってもいいのだろうか。
「まぁ、ずるい」
そこに、妹が唇を尖らせた声をあげる。
「青燕さんにお会いしたいのは、わたしも同じですのに」
そう願っているのが、決定権のない下2人というのが、なんとも悩ましいものだ。
「お父様のお許しをいただければ、すぐにでも実行いたしますわ」
「橙鶯」
何やら計画がある様子の妹を、父が一言でなだめる。
「張り切るのはいいが、やりすぎるな」
「……はい」
まるで妹の心を見透かしているかのように。途端に大人しくなった妹に、雪はくすっと笑う。
「頼んだぞ」
父の力の限界か。きっと無理やりならなにか方法はあるのだろうが、それは父が望んでいないということだろう。
力のない少女たちに何ができるのか。それでも、何とかしたいという思いは、雪の中に確かにあるのだ。




