第二話
華恋から相談を。いや違う、正確には、相談という名の事後報告を受けてから二日後。昼過ぎ。私と華恋は心霊スポットの最寄り駅前にあるファミレスにいた。何故ここにいるのかと言うと、心霊検証動画を提案してきた、かつ心霊スポットの案内をすると申し出て来たコメント主とここで落ち合う約束をしていたからである。
「着くまでもう少しかかるってー」
「そう。じゃあ、何か頼んで待ってる?」
「うん。そうしよー」
私と華恋は四人席に案内してもらい、私はレモンスカッシュを、華恋はチョコレートパフェを頼んだ。
「はぁ……」
「もー、結子またため息ついてる」
「仕方ないでしょ。行きたくない場所に無理やり連れて行かれるかもしれないんだから。そりゃため息も出るでしょ」
「そ、そんな言い方しないでよー。大丈夫だって、今回だって何も起きないよ、多分」
「はぁ。華恋には霊感が無いからそんなこと言えるんだよ」
「そんなことないよー。霊感が無くても怖いものは怖いし」
「まぁ確かに、その怖さは否定しないよ。けど、華恋と私じゃ怖さのベクトルが違うよ」
「怖さのベクトル? 怖さに違いなんてないでしょ?」
「いいや、あるよ。多分、その感じだと知らないでしょ。実は前回の心霊検証動画を撮った時、霊障が起きてたってこと」
「えっ……」
「フッ。なんてね。嘘だよ」
「な、なぁんだ、嘘かぁ」
「うん、嘘。でも、今ので分かったでしょ。例え何か起きたとしても、例え霊が出たとしても、華恋は異変に気付けないし、霊の存在を感知出来ない。だから私の怖さを完全に理解することは出来ないってわけ」
「そ、それは……。うん、そうかも!」
「諦め早」
「うん。だって私霊感無いし。てかさ、結子こそ諦めなよ。もーここまで来ちゃったんだからさ、今回は潔く動画撮ろうよー」
「相手に怪しいところが無かったらね」
「やったぁー」
毎回こうだ。私の方が優勢に話を進めていたはずなのに、何故か最後は華恋に丸め込まれている。というか、華恋の勝ちみたいな雰囲気になる。今回も結局そうなってしまった。しかしまだだ、今回はまだ挽回のチャンスがある。私は心の中で独り言ちながら、会話の途中で届けられていたレモンスカッシュを飲んだ。
それから約一、二分後、
「あっ、着いたって」
パフェを食べている華恋がそう言った。かと思うと、私が何か反応するよりも前に華恋は席を立ち、出入り口の方を見て右手を挙げた。すると数秒後、私たちの前にあのコメントの主が現れた。
「こんにちは。遅れてしまってすみません」
現れたのは意外にも女性だった。服装は肌の露出が少ない落ち着いた色でまとめられたパンツスタイルで、化粧はナチュラルに仕上げられている。故に全体的な印象としては、清楚で大人しそうと言った感じ。年齢は恐らく、三十代半ばくらいだろうと思われる。
「いえいえ。私たちが早く着いちゃっただけなので気にしないでください。というか、こちらこそごめんなさい。急かすような形になっちゃって」
「い、いえ、そんな……! カレンちゃんが謝る必要はありません」
「まあ、こういう時はお互い様? 両成敗? ってやつにしときましょ。てことで、さぁどうぞ、続きは座ってお話ししましょー」
「は、はい。失礼します」
コミュニケーション強者の華恋はペラペラ話を進めると、ひとまず相手を対面の席に座らせ、華恋自身は私の隣の席に移動した。
「さてと、それじゃあまずは……。何か頼みましょー」
「えっ、は、はい」
相手の女性は平気な顔をしているが、その表情の上に滲み出ている汗や、やや荒い息遣いから瞬く間に相手が無理をしていると看破した華恋は、一旦相手に飲み物を注文してもらい、注文の品が届き、相手が喉を潤し終えてからようやく本題に入る。
「では改めまして、自己紹介からします。私はカレン。今日はよろしくお願いします。そしてー」
自分の紹介を終えると、華恋は私の方に手を向け、私に自己紹介を振ってきた。私は慌てて、
「え、わ、私は、えっと、彼女のその、アシスタント。みたいなことをしてます。結子です」
と、しどろもどろに自己紹介をした。そんな私たちのやり取りを見て、相手の女性はクスリと微笑み、
「私はモミです。よろしくお願いします」
と、幾分か緊張の解けた様子で名乗った。
「も、モミさん。ですか?」
珍しい名前だと感じた私は思わず聞き返してしまった。すると女性はまた微笑みを浮かべ、
「ふふっ。もちろん、本名じゃないですよ」
と答えた。それに続いて、
「そー。モミってのはね、この人のアカウントネームなんだよ」
華恋が補足説明をしてくれた。モミさんはそれに対し、「認知してもらっているなんて、嬉しいです」と目を輝かせ、嬉しそうな反応を示す。動画投稿者と視聴者。この関係でしか分からない、この関係ならではの盛り上がりなのだろう。私にはそれがよく分からなかったので、そうなんですね。と言いながら、二人に合わせて愛想笑いだけ浮かべておいた。
「とまぁ、自己紹介も終わったことですし、そろそろ本題に入りますかー」
やや脱線した会話が一段落したタイミングを見計らい、華恋が話を本筋に戻す。私とモミさんは頷いて応える。
「まずはえっとー。そうそう、企画コメント、ありがとうございました。モミさんが貼ってくれたブログ、面白かったです」
「ありがとうございます。と私が言うのも変ですね。私が書いたわけではないので。でも、こうして採用していただいて嬉しいです」
「なんかこう、ビビッと来たんですよね。それに今は夏ですし、丁度いいかなって」
「そうかもしれませんね」
「はい。でですね、今日は下見も兼ねて案内してもらうってことになってるわけですけど、その現場に行く前にですね、少し気になることがあるので、それを伺ってから行くか行かないか決めても良いですかね?」
「は、はい。なんでしょうか」
ここまでは順調だ。私の指示通り話を進めてくれている。と言うのもあの日、華恋が事後報告をして来たあの日、私と華恋は約束を交わしたのだ。「連絡を取ってたのは許すし、既に会う約束をしちゃってたのも許す。でもその代わりに、気になることがあるから、そのコメントの主と会う日は私も同行して、私の指示通りに動いて欲しい」と。華恋は今、その約束を忠実に守り、事前にしていた指示通りに動いてくれているというわけだ。そしてこの質問こそ、私の挽回のチャンスだ。
「えっとですね、いつも動画見てもらってありがたいですし、こうしてコメントしてくれたのもありがたいと思ってるんですけど、なんで心霊スポットの案内まで申し出たのかなーと。そこがちょっと気になってまして……」
「そ、それは……」
大分くどい枕詞があったが、まぁ一応想定通りに話が進んではいるので、私は黙ってモミさんの答えを待つ。モミさんは十数秒ほど沈黙を経て、静かに口を開く。
「すみません。全部正直に話します。実は、私も体験者なんです。聞いたんです、女性の声を。それも、あのブログが書かれる前に」
「そ、そう、だったんですね……」
答えながら、華恋はチラリとこちらに目配せする。どうやら私の指示を待っているようだ。しかし私としても、まさか体験した当人だったとは思ってもいなかったので、すぐに次の言葉が浮かんでこなかった。するとその内にモミさんが話を再開する。
「私、あの道の近くに住んでいるんです。少し前まではよくあの道を通っていました。どこへ行くにもあの道を通れば時短になるので。でも、あの声を聞いてからは、例え昼間でも利用するのが怖くて、今はあの道を避けて遠回りしています。多分、今のまま遠回りの道を使って生活していれば何も問題は起きないのだと思います。けど、あの道が使えないのは不便ですし、他の人は普通に使えているのも違和感がありますし、何より、家から近いというのが怖くて……。そんな時、カレンちゃんが企画募集の動画をあげたんです。そしてそれを見ている時に、ふと思い出したんです。カレンちゃんの心霊検証動画のことを。心霊現象なんて無い! って言ってた前回の動画のことを。それで、もしかしたらカレンちゃんなら解決してくれるかもと思って、今回、企画ネタの募集にかこつけて、この心霊現象を検証して欲しいとコメントしました。本当にすみませんでした……」
モミさんは全て白状して頭を下げた。
「い、いえ、全然大丈夫ですよー」
華恋は咄嗟にそう答えたが、コミュ強の華恋でもその後に続く言葉がなく、私同様黙り込む。
「こんなのお門違いですよね。頼まれたって迷惑ですよね。本職でもないのに。それこそこのブログの人とかに頼めって話ですよね。本当にすみませんでした……」
モミさんは項垂れたまま言葉を続ける。その様子から、本当に困っているのだろうとも思えたし、華恋のファンだからこそ、本気で華恋なら解決してくれるかもしれないと思ってコメントをしたのだろうとも思えた。しかし残念ながら、彼女自身がそう言ったように、お門違いだ。私たちは霊能力者でも、祈祷師でも、エクソシストでもない。私たちは凡人で、霊を払う特別な力など有していないのだ。つまり私たちから掛けられる言葉はないし、出来ることもない。今回の件はお流れだ。脳内で私がそう結論付けたその時、
「分かりました!」
と華恋が声を上げた。一体何を言い出すんだ、この子は……。そう思ったのも束の間、
「私が証明します!」
意気揚々と、最も恐れていた言葉を言い切った。
「ほ、本当ですか?」
「はい。確かに私たちの専門ではありませんし、除霊なんてもっと無理な話です。でもですね、私はこう思うんです。私が検証動画を撮り、それで何も起きなければ、そこには霊がいないと証明することが出来るって」
「た、確かに……?」
想像の斜め上を行く脳筋理論にモミさんは困惑しているようだ。勿論私も困惑している。が、悔しいことに、一理あるとも思う。恐らく華恋の言い分はこうだ。我々は平凡な一般人で、霊を払う特別な力など有していない。しかし前回の検証動画同様、何も起きなければそこに霊がいないと証明できる。つまり、そもそも霊を払う必要なんて無い。そこに霊が存在しないという証明が出来ればいい。と。こう言いたいのだと思う。これは大分偏った言い分だと思うし、霊がいた場合はどうするんだ? という疑問もあるが、現状、まだ現場を見ていないので、華恋の言い分を完全に否定することも出来ない。だから私は何も言わないことにした。というのが論理的な理由付けで、本心では、ここまで来たらもう、私が何を言っても華恋は行くと言って聞かないだろうと思ったから、私は何も言わないことにしたのだった。
「幽霊なんていないって、私が、いえ、私たちが証明してみせますよ!」
「あ、ありがとうございます……!」
私の無言を黙認と捉えたのか、華恋はあっという間に約束を交わしてしまった。全く面倒なことに巻き込まれたものだ。私はそう思うと同時に、もうどうにでもなれという諦念、行雲流水の心で華恋とモミさんの握手を見つめた。
その後、華恋がパフェを食べ終わるのを待ってから、私たちは例の心霊スポットに向かった。その間に私たちは、モミさんが心霊体験をした時の話を聞いた。
「私が初めて声を聞いたのは、大体一か月半くらい前のことです。残業で少し帰るのが遅くなった日で、いつも通りあの道を通っていたら、突然女性の声が聞こえて来たんです。でも、その日は残業の疲れで幻聴を聞いたのかもなと思ってあまり気にしませんでした。それから数日が経って、今度は休みの日、夕飯の後にアイスを食べたくなってスーパーに行ったんです。そしたらその帰り道でまた聞いたんです、ハッキリと、女性の声を。それ以降、あの道は避けるようにしています」
「なるほど……。ちなみに、どんな声を聞こえたか覚えてます?」
会話の応対は華恋が行う。
「確か、こっちに来て。って聞こえた気がします」
「こっちに来て、か。ブログにも書いてありましたねー。二回ともですか?」
「はい。二回とも同じだった気がします」
「ふむ。その他には?」
「いえ、それ以外には」
「そうですか……」
呟きながら、華恋はチラリと私を見た。次の質問は? という意思表示だろう。私はスマホを構え、開いたままにしている華恋とのトークルームに次の指示を送る。
「えっと、一旦モミさんの話をまとめると、残業の日に初めて女性の声を聞いて、その数日後の休日、つまりはあまり疲れていない日に、もう一度声を聞いたんですね?」
「はい。そうです。あの日は一日中家にいたので、疲れていなかったと思います」
「声が聞こえた場所は大体同じ場所でした?」
「大体同じ、だったと思いますけど、鮮明には覚えていないですね」
「そりゃそうですよねー。あっ、コホン。すみません。えっとそれで、その他に何か、気になることとか、気付いたこととかありませんかね?」
「そうですね……。一応一つ挙げるとしたら、イヤホン、ですかね」
「イヤホン?」
「はい。残業をした日も、スーパーに買い物に行った日も、どちらもイヤホンをしていたんです。音楽を聞いていたのですが、その流れる音楽に紛れて女性の声が聞こえて来たんです」
「イヤホンからねー」
華恋は呑気に重要そうな単語を復唱する。私はそんな華恋を肘で突き、話を再開させる。
「あっ。えー、それは、歌手の声を空耳したとかではないんですか?」
「違います。クラシックを聞いていたので」
「クラシック聞くんですね! カッコいいなー」
「い、いえ、小さい頃にピアノをやっていた名残で、たまに聞くだけです」
「ゴホン」
「あっ、え、えっとですね、声が聞こえた後、イヤホンは外しました?」
「うーん。すみません。そこまでは覚えていません。でも、声が聞こえた時は、確実にイヤホンを着けていました」
「ふむ、そうですかー」
華恋はそれらしく相槌を打ちながら私の方を見る。満足した? まだ聞きたいことある? そう言っているように見える。私としては、正直もう少し聞きたいことがある。しかしあきらかに華恋の集中力が切れて来ているし、多分、このまま華恋を操っていたら、いつかボロが出て、華恋のブランディングに傷をつけてしまいかねない。それは私の生活を守るためにも避けた方が良い。そう思った私は、「もういいよ」とメッセージを送った。
「分かりました。お話聞かせていただき、ありがとうごさいました。すみません、質問ばかりしてしまって」
「いえ、少しでも参考になれば幸いです」
こうしてモミさんの心霊体験談が終わった。その数秒後、
「あっ、あそこです」
私たちは、ついさっきまで話していた例の心霊スポットに到着した。パッと見た感じ、普通の高架下トンネルといった感じに見える。強いて気になる点を言うとしたら、昼間だというのに少し暗いように思える。くらいだろうか。
「ここが……」
華恋は小さく呟き、周囲を見回しながら早速トンネルに入って行く。不用心だな……。私は心の中で呟きながら華恋の背中を見守る。すると、
「結子さんは行かなくていいんですか?」
隣に立つモミさんが言った。
「え? はい。私はその、心霊とかが苦手でして」
「そうなんですね」
「えぇ。それに、撮影の時に嫌でも入りますので」
「それもそうですね。すみません、余計なことを」
「いえ」
まるで友人の友人と会話をしているような、いや、恐らくそれよりも気まずい空気が流れる。まぁ、このまま気まずくても私は一向に構わないのだが、折角話しかけられたわけだし、先ほど聞けなかった現場の情報についてもう少し聞いておこうかな。そう思い、私は再度口を開く。
「さっき、このトンネルの近くに住んでるって言ってましたよね?」
「はい」
「こっち側ですか? それとも、トンネルの向こう側ですか?」
「トンネルの向こう側です。向こうは住宅地になっているんです」
「なるほど。つまりこのトンネルは、住宅地から駅までの時短の道ってことなんですね」
「はい。そういうことです」
それは確かに使えないと不便だな。私はそう思いながら、立ち話をしている私たちの横を抜け、悠々とトンネルを歩いて行くおばあさんの背中を見た。先ほどモミさんが言っていた通り、普通にこのトンネルを利用できている人もいるらしい。となると、モミさん以外の体験者にも話を聞いてみたくなってきた。明確な理由があるわけではないが、もしかしたら心霊体験をしている人には何かしらの共通点があるかもしれないし、それに何となく、この心霊現象には違和感を覚えていたから。
「あの、他にこのトンネルで心霊体験をしたって人、周りにいたりしますか?」
「え、えぇ。いますよ」
「話、聞けたりしませんかね? 動画の導入とかに使えたら、心霊現象があったとしても無かったとしても、盛り上がるかなぁと思って」
「あぁー、そうですよね。動画にするならそういう要素も大事ですよね」
「すみません。無理そうなら全然大丈夫ですので」
「いえ、連絡してみます」
「ありがとうございます」
「なーに話してるのー?」
モミさんとの話がまとまった折、華恋が戻って来た。
「今、他に心霊体験をした人はいませんかって聞いてたの」
「ふーん、そうなんだ。それで?」
「いるみたい」
「はい。私の知り合いで二人、ここで声を聞いたって子がいます。あと、この心霊現象を通じてメッセージのやり取りをしている子が一人います。多分、知り合いの二人は明日休みだと思うので、都合が良ければ会えると思います。ネットの子は、連絡してみないと分かりません。どうしますか?」
モミさんの話を聞いた華恋は即座には答えず、私の方を見る。私はその無知な瞳に、気の抜けた表情に頷いて見せる。それだけで私の意志は伝わった。
「会いたいです! 出来れば全員!」
「分かりました。連絡しておきます」
私と華恋は感謝を述べ、今日は一旦モミさんと別れた。まだまだ気になることはあるし、まだまだ何とも言えない状況だが、ここから先は明日、三人の新たな情報提供者から話を聞けば、色々と判明して来るだろう。私たちは明日に賭け、明日に備え、帰宅した。
……はずだったのだが、その日の夜、十一時頃。私と華恋は心霊スポットに、昼間に訪れたトンネルの前にいた。
「本当に撮るの?」
「うん。撮るよ。だってその為に撮影用のスマホとライトとイヤホン持って来たんだから」
「まぁ、そうだよね……」
昼間の下見が終わって解散した後、私たちは一度各々の家に帰った。そして十時前、そろそろ寝支度でも整えようかと思っていた折、突然華恋が訪ねて来て、「結子はきっと、明日の情報を聞いてから動きたいと思ってると思う。けどその前に、どうしても一度、夜のトンネルを自分の目で見ておきたいの。お願い!」と言って聞かず、今に至る。
「はい、スマホ」
こうなってしまったら華恋は止まらない。私は渋々スマホを受け取る。
「あとこれも。片耳だけど、一応着けておいて」
そう言って渡されたのは無線のイヤホン。
「モミさんは確か、イヤホンから声が聞こえたって言ってたもんね?」
「うん。言ってたね」
「だから結子も着けといて。霊感があるのは結子なわけだし。で、なんか聞こえたらすぐに言ってね」
「分かった」
「じゃ、行こっか」
華恋の準備が終わると、私たちは高架下のトンネル入り口に向かい、私がスマホの録画ボタンを押し、オーケーの合図を出してからトンネル内に踏み入る。
トンネル内には等間隔に電灯が設置されている。しかし数箇所の電灯はバチバチと明滅し、寿命の限界を訴えかけており、その役目を果たせずにいる。故にトンネル内は薄暗く、不気味な雰囲気を漂わせている。加えて、昼間来た時でさえ少ないなと感じていた人通りが、もうこの時間になると皆無であった。最近心霊の噂が広まって来ているせいもあるのだろう。それに心なしか、空気も少し冷たいように感じる。その中を、私と華恋は慎重に進む。
「どう? 何か聞こえた?」
明滅している電灯があるトンネルの中程辺りまで来たタイミングで華恋が立ち止まり、こちらを振り返って小声で聞いて来た。
「ううん。何も」
私の左耳にはドビュッシーの月の光が聞こえるばかりで、他には何も聞こえない。
「うーん。どうする? 戻る?」
「まぁ、どっちでもって感じかな」
出そうな雰囲気は満載だが、今のところ霊気は感じなかったので私はそう答えた。
「じゃあ、折角だし、一往復はしてみよっか」
「うん」
短い話し合いの結果、一往復しようということになった私たちは再び歩き出す。しかし次の瞬間――
「ダメ……」
演奏が激しさを増す中、声が聞こえた。私はすぐに、
「華恋」
と彼女の名前を呼んだ。華恋は振り返り、私の目を見てすぐに表情を引き締めた。するとまた、
「ダメ……」
囁くような声がピアノの音色と共に脳内に流れ込んで来る。私はイヤホンを取った。それは恐怖のためでもあるし、検証のためでもあった。
「聞こえたの?」
小さく問いかけて来た華恋に私は小さく頷く。問いかけてきたということは、華恋には聞こえていないのだろう。私はそう推測し、戻ろうと提案しようとする。しかしその前に、急に背筋に悪寒が走った。かと思うと、前方から冷ややかな風が私に吹きつけた。風はじんわりと汗をかいている私の首元を抜けた。その直後、ひたり。と私の首元左側に手が添えられたような感覚。次いで、ひたり。と今度は右手首を掴まれた感覚。そしてその二つの感覚は一瞬、微弱に私を後ろに引っ張ると、右の耳元に、「ダメ……」と残し、吹きつけた風と共に消えた。
「戻ろ」
風と声から強い拒絶を感じた私は、ようやく動かせるようになった口で要点だけを伝えた。華恋は心配そうな顔で頷く。間も無く私たちは一斉に駆け出し、トンネルを引き返した。
トンネルを出てからもしばし走った。そして、充分離れただろうと思うところで私たちは立ち止まった。
「はぁはぁ……。へーき?」
華恋の問いかけに私は頷く。
「聞こえたの?」
「うん」
「なんて?」
「ダメ。って」
「そう」
起きたことを端的に伝えると、私は姿勢を正し、今走って来た方を、トンネルの方を見る。霊気はもう感じない。追って来ている気配もない。というか、感じたのはあの一瞬だけだった。明滅する電灯の先に進もうとしたあの瞬間だけ。
「今日は帰ろっか」
「う、うん」
まだ整理がついていないが、ひとまず今はここを離れたい。そう思った私は、華恋の提案に賛同し、二人でブラブラと寄り道をした後、コンビニに寄り、気休めの塩を買ってから帰宅した。




