第27話 待ちぼうけの列
最初の正式な書簡が来た時、俺はそれを見て少しだけ笑ってしまった。
笑ったのは、内容が可笑しかったからじゃない。
逆だ。
あまりにも綺麗すぎたからだ。
工房の打ち合わせスペース。
机の上には、紙に印刷された英文と和文の文書が五通並んでいた。
どれも上質な紙。
どれも余白の取り方まで行儀がいい。
どれも、表現の角が丁寧に削られている。
要するに、全員が礼儀正しい顔で欲しがっている。
「……ほんとに来たな」
俺がそう言うと、向かいに座っていた天城澪は、紙の束を揃えながら短く答えた。
「来ました」
「しかも、思ったより早い」
「早いですね」
彼女は一通目を俺の方へ滑らせた。
差出人は経済産業省名義ではない。
表向きにはもっと柔らかい名前になっている。
次世代産業基盤研究連携会議 事務局
こういうのは、だいたい柔らかい名前の方が硬い。
本文はさらに綺麗だった。
東都マテリアルサイエンス株式会社の最近の研究成果に深い関心を有しております。
つきましては、今後の産学官連携の可能性について、情報交換の機会を頂戴できれば幸いです。
貴社グループの研究自主性を最大限尊重する形で、長期的視点に立った対話を希望いたします。
「すごいな」
俺は紙を置いた。
「欲しいって、一文字も書いてない」
「書きませんよ」
天城は平然としている。
「今の段階でそんな露骨な文面を出す方が二流です」
「日本政府が二流じゃない、って話か」
「少なくとも、この手の書簡を書く人間は一流です」
うへえ。
二通目は、英語だった。
差出人は米国の大学名義。
ただし、末尾の共同署名欄に見慣れない研究財団名と、もう一つ、妙に綺麗な頭字語の機関名が並んでいる。
「大学の顔してるな」
「ええ。かなり上手に」
文面もやはり隙がない。
We would welcome a discreet, exploratory conversation regarding future collaborative directions in advanced selective separation technologies.
Our intention at this stage is purely academic and strategic in the broadest sense, with full respect for your group’s proprietary framework.
先進的選択分離技術における今後の共同研究の方向性につきまして、機密性を保持した予備的な協議の機会を持たせていただければ幸甚に存じます。
現段階における当方の企図は、純粋に学術的で、広い意味で戦略的観点に基づくものであり、貴研究グループが保有する独自の知的財産および技術的枠組みを最大限に尊重する所存です。
「“purely academic and strategic in the broadest sense”」
俺はそこを声に出して読んだ。
「学術的で、広い意味で戦略的、か」
「良い言い回しです」
天城が少しだけ口元を緩める。
「学術です、と言い切ると浅い。戦略です、と言い切ると剥き出しになる。だから両方を混ぜて、広い意味で、と濁す。かなり綺麗です」
「綺麗すぎて逆に分かるな」
「分かる人には分かるように書いていますから」
三通目。
中国語文面に日本語訳が付いている。
送り主は、表向きには民間資源材料研究院。
だが、肩書きの長さと後ろに並ぶ賛同機関名を見る限り、民間という言葉はかなり飾りだ。
先端分離材料に関する国際協力の可能性について、相互利益に基づく対話を希望する。
特に長期的供給安定性と評価フレームワークに関し、建設的な意見交換が可能と考える。
「供給安定性、ってもう言ってるな」
「ええ」
天城はそこだけ指で軽く叩いた。
「この言葉を最初の書簡で出してくるのは、かなり早い。つまり、もう“面白い膜”ではなく“持っている側”として見ている」
「研究論文の感想じゃないよな」
「最初からそこだけ見ているわけではないでしょう。ただ、視線の向きが他より露骨です」
四通目。
ロシア語文面の英訳付き。
こちらは逆に、拍子抜けするほど柔らかい。
技術交流。学術対話。将来的可能性。共同評価。
だが最後にだけ、小さくこんな一節がある。
We believe that certain classes of separation technologies may have significance extending beyond conventional industrial sectors.
特定の部類の分離技術は、従来の産業分野の枠組みを超えた広範な意義を有する可能性があると、当研究チームは考えております。
「遠い言い方だな」
「遠いですが、充分です」
天城は紙を整えながら言った。
「“従来産業の範囲を越える意義がある”。要するに、こちらもただの材料論文では見ていない」
最後の一通は、欧州系の基金と研究連携機構の連名。
資源とも国家とも書いていない。
だが、文全体から漂う匂いが違う。
学術でもなく、企業でもなく、政策でもなく、もっと古い金融と研究の継ぎ目みたいな匂い。
We would be honored to explore whether your group’s recent materials achievements could find a place within broader frameworks of resilience, resource diversification, and strategic infrastructure dialogue.
貴研究グループにおける近年の材料分野での成果が、レジリエンス、資源の多様化、および戦略的インフラストラクチャーに関する議論といったより広範な枠組みの中で、いかなる位置づけを見出し得るかについて探求させていただく機会を賜れれば光栄に存じます。
「最後まで言わないな、みんな」
俺がそう言うと、天城はようやくこちらを見た。
「言わなくていいんです。むしろ、言わない方が強い。相手も、こちらも、本当に大事な単語は机の真ん中に置かないまま進めた方が得です」
その理屈は分かる。
分かるが、やっぱり少しだけ可笑しい。
南鳥島。
レアアース泥。
選択抽出。
国家戦略。
誰も口にしない。
でも、全員がそこを見ている。
「で、どう返すんだ」
「それを決めるために、今日は本館です」
天城は書簡をファイルへ戻した。
「御影さんが直に見ます」
◇
東都財閥本館の会議室は、前に来た時より少しだけ狭く感じた。
たぶん部屋が狭くなったんじゃない。
中身が濃くなったのだ。
戦略統括。
国際渉外責任者。
御影。
神代。
天城。
東都E&L側の専務。
それに今日は、財閥本流の資源投資室長まで座っている。
机の中央には、さっきの五通の書簡と、簡易分析メモ、それに模擬希土類混合液試験の社内限定要約が置かれていた。
御影がそれらを一通り見渡し、穏やかな声で言った。
「綺麗ですね」
その一言が、妙に効いた。
彼は続ける。
「皆、よく整えている。急ぎすぎていない。欲を隠しすぎてもいない。つまり、まだ“順番を守る気がある”」
「その言い方、好きですね」
戦略統括が少しだけ笑った。
「順番、ですか」
「ええ」
御影は頷いた。
「国家であれ企業であれ、本当に欲しいものが目の前にある時ほど、最初は丁寧になります。いきなり奪いに来るのは、相手が脆いと分かっている時だけです。東都はそうではない。だから皆、まずは並ぶ」
資源投資室長が書簡の一つを指で叩く。
「中国側が少し早いですね」
「ええ」
国際渉外責任者がすぐに答えた。
「供給安定性という言葉を初手で入れてきた。かなり露骨です。ただし、まだ許容範囲です」
「アメリカは?」
「一番上手いですね。大学と研究財団の顔で来ている。後ろに別のものがいても、書面上はそれを感じさせない」
「日本は」
「一番丁寧です。ただし、一番“待たせても離れない”相手でもあります」
それを聞いて、俺は少しだけ笑った。
「なんか婚活みたいだな」
一瞬、会議室が静まり、次の瞬間、天城が小さく咳払いした。
神代は口元を押さえ、戦略統括は目を逸らした。
御影だけが、ほんの少しだけ笑った。
「言い得て妙かもしれません」
「いや、すみません」
「いえ。順番待ちの列というのは、だいたいそういうものです」
この人、柔らかい顔してたまに変なところへ乗ってくるな。
◇
会議の中心は、返答文面の作り方に移った。
断らない。
受け入れない。
急がない。
そして、相手に“まだ希望はある”と思わせたまま止める。
それが今日の方針だった。
国際渉外責任者が、各国向けのテンプレートを映す。
日本向けには、産学官対話の枠組みへの前向きな関心。
ただし、現時点では学術評価と社内検証を優先している旨を明記。
アメリカ向けには、研究自主性と段階的対話を重視する姿勢。
共同探索の可能性を否定しないが、時期は明示しない。
中国向けには、国際協力の価値を尊重しつつ、供給やスケールに関する議論は時期尚早と返す。
ロシア向けには、技術交流と学術対話への一般論のみ。
欧州向けには、レジリエンスや資源多角化への関心を歓迎しつつも、現在は基礎評価段階であると押し戻す。
「全部、綺麗に待たせるわけだ」
俺が言うと、天城が頷く。
「ええ。全員に“扉は閉まっていない”と伝える。でも、誰も中へは入れない」
「感じ悪いな」
「一番上品な防御です」
その言い方は妙にしっくり来た。
上品な防御。
なるほど。
露骨な拒絶は角を立てる。
露骨な歓迎は足元を見せる。
だから、ずっと綺麗な顔で待たせる。
御影が、そこでゆっくりと口を開いた。
「大切なのは、“相手ごとに言葉の温度を変えること”です」
皆が視線を向ける。
「日本には、国内優先とも財閥防衛とも読めない表現を使う。アメリカには、共同研究の余地を匂わせながらも具体性を避ける。中国には、供給の話をこちらから一切広げない。ロシアには、可能性を曖昧なまま保つ。欧州には、持続可能性と研究の言語で時間を稼ぐ」
「……よくそんなに分かるな」
俺が思わずそう言うと、御影は微笑んだままだった。
「長く見ていれば、言葉の欲しがり方にも癖が出ます」
柔らかい。
だが、やっぱり怖い。
◇
会議が一段落したところで、戦略統括が話題を変えた。
「一つ、確認しておきたい」
彼は模擬希土類混合液試験の要約へ目を落とした。
「この件が外へ漏れた場合、どうなると思いますか」
部屋が静かになった。
これは誰もが分かっていることだが、こうして机の真ん中に置かれると重さが違う。
最初に答えたのは神代だった。
「学術界の空気が、研究から資源へ一気に滑ります」
「その次は」
「産業界が“欲しい技術”としてではなく“押さえるべき工程”として認識します」
「政府は?」
戦略統括が続けると、天城が短く答えた。
「本気になります」
それだけだった。
だが、それで充分だった。
御影が補足する。
「そして、本気になった相手ほど、最初はもっと丁寧になります」
「順番待ちが増えるわけですね」
国際渉外責任者が言う。
「ええ」
御影は頷いた。
「列が長くなるほど、こちらの価値は明確になる。もちろん、列が長すぎれば別の問題も出る。ですが今はまだ、その段階を楽しめる位置にいる」
楽しめる。
そう言い切るあたり、この人は本当に性格が良くないのかもしれない。
でも少しだけ、分かる。
全員が欲しがる。
でも全員が礼儀を守る。
その状態は、確かに強い。
「……じゃあ、今はとにかく漏らさない」
俺が確認するように言うと、戦略統括がはっきり頷いた。
「その通りです。南鳥島に接続しうる示唆は、現時点では本流・関連子会社・必要最小限の技術担当に留める。研究所でも共有は絞る。第二報にも乗せない。問い合わせ対応でも当然触れない」
「はい」
天城も即答した。
「そこを口にした瞬間、研究の時間が終わります」
たぶん本当にそうだ。
今の俺たちには、まだ少しだけ“研究の時間”が残っている。
相手を並ばせ、綺麗な顔で待たせ、こちらの内部を整える時間。
それを自分から終わらせる理由はない。
◇
会議が終わる頃には、外はもう暗くなっていた。
本館の窓から見る夜の都心は綺麗だ。
だが綺麗すぎて、逆に現実味が薄い。
廊下へ出ると、天城が隣に並んだ。
「どうでしたか」
「何が」
「財閥」
少し考えてから、俺は答えた。
「思ったより、ちゃんと壁なんだな」
「ええ」
「強い会社、じゃなくて。“並ばせることができる家”って感じだ」
天城はそこで、珍しく少しだけ目を細めた。
「良い表現です」
「そうか?」
「はい。会社は契約を作れます。でも家は、順番を作れる。東都が強いのは後者です」
その言い方は、妙に腑に落ちた。
だからみんなすぐには手を出せない。
東都E&Lや東都マテリアルサイエンスの後ろに、会社以上のものがあると知っているから。
「……となると、ますます見たくなるな」
「何がです」
「最初に順番を崩そうとするやつ」
天城は一瞬だけ黙って、それから小さくため息をついた。
「久世さんは、そういうところだけ本当に素直ですね」
「面白いだろ」
「面白いですけど」
「だろ」
「困ります」
そのやり取りが少し可笑しくて、俺は笑った。
でも実際、見たかった。
日本か、アメリカか、中国か、ロシアか、あるいは別の何かか。
誰が最初に“研究の顔”を少しだけ崩すのか。
その瞬間から、次の段階が始まる。
◇
夜、工房へ戻ってから、俺は机の上のメモをぼんやり見ていた。
返答テンプレート。
各国ごとの文言調整。
優先度。
順番待ち。
その横に、自分で書いた小さな一文がある。
「全員が欲しがっている。だから全員を待たせられる。」
「……だいぶ嫌な文章だな」
【はい】
骨伝導イヤホンの奥で、イヴが即答する。
「お前、そこはもうちょっと言い方あるだろ」
【より柔らかくしますか】
「してみろ」
【高い需要は、交渉余地を広げます】
「経営コンサルかよ」
【社会実装に適した表現です】
笑ってしまった。
だが、言いたいことは同じだ。
全員が欲しがっている。
だから、焦って誰か一人に渡す必要はない。
順番を作る側にいられる。
「なあ、イヴ」
【はい】
「ここから先、やっぱり早いかな」
【何がですか】
「研究じゃなくなる速度」
少しだけ間があった。
【速いと考えられます】
【模擬希土類混合液試験の方向性が社内で確定した時点で、技術の意味は学術から戦略へ近づいています】
「だよな」
【ただし、外部はまだその確信を共有していません】
「だからまだ一手ある」
【はい】
俺は椅子にもたれ、天井を見上げた。
南鳥島に繋がりうる。
それは今や、俺たちの内側ではかなりはっきりした事実になった。
でも、外はまだそこまで知らない。
知らないまま欲しがっている。
そこに少しだけ余白がある。
「……この余白、悪くないな」
【恒一は、駆け引きを学習しています】
「言い方が気に入らない」
【事実です】
最近、本当にそればっかりだ。
でも事実でもある。
俺はもう、ただの拾ったものを売る男じゃない。
どこまで見せるか、誰を待たせるか、どの言葉で包むか、そういうことまで考えるようになっている。
良いことか悪いことかは知らない。
ただ、ここまで来たなら最後まで見てみたい。
「次は、順番待ちの顔がもう少し見えてくるか」
【可能性は高いです】
「日本が早いかな」
【国内行政系照会は継続的に増加しています】
「アメリカも黙ってないよな」
【はい】
「中国も、たぶん静かに圧を増す」
【その可能性も高いです】
つまり全員だ。
分かっていたことだが、改めて口にすると少し笑える。
全員が並ぶ。
でも誰もまだ列を壊せない。
「……悪くない」
【はい】
「面倒だけど」
【はい】
「やっぱり面白い」
【知っています】
それで会話は終わった。
工房の照明を落とし、シャッターの隙間から夜の道路を少しだけ見る。
いつも通りの東京だ。
でもその裏で、国が順番待ちを始めようとしている。
研究の顔をした膜。
論文の外側にある工程。
南鳥島に繋がりうる選択透過。
ここまで来たら、もう次に来るものは大体決まっている。
綺麗な連絡。
綺麗な視察。
綺麗な面談。
そして、そのどこかで、最初に一枚だけ仮面が薄くなる。
たぶん次は、その顔を見る番だ。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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