第5話 名前ですよ
満員電車の揺れに耐えながら、俺はふと「あいつ、自分の名前を名乗っていなかったな」と思い出した。
あの晩、うちのアパートに転がり込んできた自称・下級女神。
金と銀のロボの仕分けをめぐって天界の上級神とレスバを繰り広げ、挙句の果てに「選別が完了するまで帰還禁止」という判決を下されて追放されたポンコツだ。
あの騒動のせいで、俺は彼女のことをずっと「女神」だの「お前」だのと呼んでいたし、向こうも特に自己主張してこなかった。
まあ、今さら名前を知ったところで、俺たちの関係性が変わるわけではない。
「小野寺〜、今日の午後イチの進捗会議、仕様書の差し戻しチェック終わってるか?」
昼休み直前、隣の席の先輩社員から声をかけられ、俺は思考を切り替えた。
「あ、はい。現場の運用に耐えられない無茶な設計だったので、修正箇所を箇条書きにして弾いておきました」
「お前ほんと、仕様の不備を見つけ出すのだけは容赦ないな……上層部が泣くぞ」
「妥協した仕様を通したら、あとで泣くのは現場ですから」
ふと、自室の押入れに眠る「金と銀のヴァルガイザー」と、昨日上級神を論破して追い返した時の光景が頭をよぎる。
IT企業のシステム運用担当としての職業病なのか、それともコレクターとしての美学なのか。相手が会社の上層部だろうが天界の上級神だろうが、バグや欠陥のある仕様を受け入れるわけにはいかないのだ。
「……そういえば」
デスクの引き出しから、帰宅時に買い足す予定のリストを引っ張り出す。
* 養生テープ
* プラモ用エアブラシの洗浄液
* 同居人の昼飯(徳用焼きそばパック)
「名前……一応、聞いておかないと呼ぶ時に不便か」
神様に向かって「おい」と呼び続けるのも風情がないし、何より内職の作業指示を出す時に名前があった方が都合がいい。
俺はPCの画面を閉じ、午後の業務へと意識を集中させた。
今日の残業をゼロにして速やかに帰宅し、まずはあの女神に「名前の確認」と「今日のバリ取りのノルマ」を突きつけてやることにしよう。
社内の複合機の前で、俺は出力された仕様書を束ねながら、今日一番のトラブルの気配を感じ取っていた。
スマホをポケットから取り出し、通知を確認する。
自宅のペットカメラ(本来は留守番中のペットを見守るアプリだが、今は実質『女神監視モニター』と化している)から、動体検知の通知が大量に届いていたのだ。
画面を開くと、そこには最悪の光景が映し出されていた。
『拓海〜! 大変よ! この金色と銀色のロボットが勝手に光りだして、部屋の中で浮き始めたのだけど!!』
カメラのレンズ越しに、居間の押し入れから引っ張り出された「純金製」と「純銀製」のヴァルガイザーが、神々しい粒子を撒き散らしながらフワフワと空中浮遊しているのが見える。
そしてその周りを、ポンコツ女神アステリアが「きゃー! 暴走してるー!」と半狂乱で走り回っていた。
「あいつ……押し入れの奥に仕舞っておけと言ったのに……!」
原因は明白だった。
昨日、上級神から「選別せよ」と命じられた際、俺は金と銀の仕様の甘さ(重量バランスと耐硫化コーティングの欠如)を徹底的に論破して追い返した。
だが、上級神が去り際に吐き捨てた「次元の楔」だの「天界の核」だのという余計な神力が、ロボの内部フレームに残留していたのだ。
選別を保留にされたことで神力が臨界点に達し、自律起動を引き起こしているらしい。
『ちょっとアステリア! 動画撮ってないで止めなさいよ!』
『止めろって言われても! 触ったら金のやつの肩パーツが「バキッ」っていいそうな嫌な手応えがしたのよ!!』
『また壊す気かお前は!! 触るな! 絶対に動かすな!!』
画面の中で、アステリアがビクッと跳ね上がる。
俺は画面越しにデスクへ向かって叫びそうになるのを必死で抑えた。
「小野寺? どうした、顔色が悪いぞ。腹でも壊したか?」
後ろから上司が心配そうに覗き込んできた。
「いえ……自宅の『精密機械の自動メンテナンスシステム』に重度のエラーが発生しまして」
「は? なんだそれ」
「急ぎ帰宅して、システムの緊急シャットダウンと関節の軸打ち補強を行わないと、我が家の貴重な資産が『全損(自壊)』します」
俺は即座に定時退社(定時ダッシュ)の申請書類を上司のデスクに叩きつけた。
「すみません、今日の進捗チェックは全て終わらせました! 残りの雑務は明日早朝に出社して片付けますので、本日はこれにて失礼します!」
「あ、おい小野寺!?」
上司の制止を振り切り、俺は鞄をひっつかんで会社を飛び出した。
神様の選別拒否が招いた現世でのバグ。
純金製の過重によるフレーム破損と、純銀製の硫化が進む前に、俺はあのポンコツ女神のもとへ駆けつけなければならない。
名前を聞くのは、あいつの手からハンダごてとピンバイスを守り抜いてからだ。
アパートの扉を蹴破らんばかりの勢いで開けると、そこはすでに崩壊の域に達していた。
「拓海ぃぃぃーっ! 帰ってくるのが遅いわよぉぉぉ!」
居間の真ん中で、金と銀のヴァルガイザーが神聖な光の粒子を撒き散らしながら高速旋回している。
そしてその中心で、頭から毛布をかぶったアステリアが涙目で叫んでいた。
「ちょっと目を離した隙に勝手に浮き上がって、金色の関節がグラグラし始めて……! 私のせいじゃないわよ! 上級神の残留思念のバグなんだから!」
「動かすなと言ったろ! 関節の摩耗が進む!!」
俺は即座に鞄を投げ捨て、作業デスクから精密ドライバーセットと自作の絶縁・神力シャットダウンアタッチメントをひっつかんだ。
「俺の指示通りに動け! エアブラシ用コンプレッサーのエアホースを持って、銀色の排気ノズルに冷風を送り続けろ! 硫化熱による固着を防ぐ!」
「は、はいっ!!」
「俺は金色の背部にあるバイパス回路にアタッチメントを割り込ませ、強制シャットダウンをかける!」
ふわりと浮遊する純金ヴァルガイザーの背後へ回り込み、白手袋をはめた指先で精密なフレームの隙間を捉える。
神力の過充填でフレームが軋む嫌な音が響くなか、ピンバイスで穴を広げたアタッチメントを一気に接続した。
カチッ。
「……神力出力、安全領域までダウン。回路カット完了!」
空中に浮いていた二体のロボが、スッと光を失って俺の腕の中へと落ちてくる。
間一髪、関節の焼き付きも装甲の歪みもゼロ。完全無傷での確保に成功した。
「ふぅ……間一髪だったな」
冷や汗を拭い、床にペタリと座り込んだポンコツ女神を見下ろす。
アステリアはハァハァと息を吐きながら、安堵の表情で胸を撫で下ろしていた。
「助かったわ……これで壊れてたら、私本当にお払い箱になるところだった……」
「壊れたらお前を分解して補修パーツにするつもりだったがな」
「容赦なさすぎるでしょ!?」
俺は工具を片付けながら、改めてその顔を正面から見据えた。
「……そういえば」
「なによ?」
「アステリア、ってのは上級神が呼んでいた名前だったな」
「ええ、そうだけど……」
アステリアは少し意外そうにパチパチと瞬きをした。
「人間界の書類……いや、今後の同居ルール(シフト表)を作るうえで、正式な表記を確認しておきたくてな。アステリア・ルクスとか、そういうファミリーネームみたいなものはあるのか?」
「ないわよ! 下級女神は『アステリア』だけ! ……ふん、今さら名前なんて気にするの? ずっと『おい』とか『お前』とか呼んでたくせに」
アステリアは少し照れくさそうに羽衣の端を弄りながら、ぷいと横を向いた。
「名前がある方が、内職のノルマ表にハンコを押しやすい」
「やっぱり仕事させようとしてるーーーっ! 感動的な雰囲気を返しなさいよ!!」
夕暮れのアパートに、いつも通りの怒声が響き渡る。
まあいい。名前が判明したところで、我が家の「ポンコツ居候兼・プラモ乾燥係」の扱いが変わるわけではないのだから。




