第5章:切り裂かれた黒髪
翌朝。
冬の冷たい日差しが差し込む中、澪はアパートの近くにある喫茶店にいた。
裏階段の死角で張り込んでいた蓮が、明け方の寒さに耐えかねてうたた寝をしている隙を突き、足音を忍ばせて家を出てきたのだ。
向かいの席には、神崎涼子と、彼女が手配してくれた初老の弁護士が座っている。
「昨夜はよく眠れた? 早速だけど、彼に対する接近禁止命令と、被害届の具体的な手続きに入りたいの」
「はい、よろしくお願いします。……あの、涼子先輩。本当に何から何まで、ありがとうございます」
深く頭を下げる澪。
アパートの部屋には、澪の大きめのスウェットを借りて、長旅と昨夜の恐怖の疲れから泥のように眠る妹・柚葉を残してきていた。
早く話を終わらせて、温かい朝ご飯を作ってあげよう。
そう思いながら弁護士の書類に目を通していた時だった。
「……そういえば、澪」
涼子がふと、コーヒーカップを置いて眉をひそめた。
「昨日の夜、あいつが持ってた『合鍵』……警察は没収したのよね?」
「えっ……?」
澪の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
昨夜の光景がフラッシュバックする。
警察官に囲まれ、必死に弁解していた白鳥蓮。
だが、彼が鍵を警察に渡す決定的な瞬間を、澪は見ていない。
「……ま、まさか」
「チッ、あの無能警察……! 澪、走るわよ!!」
涼子が椅子を蹴るようにして立ち上がる。
澪も血の気を失った顔で、弾かれたように喫茶店を飛び出した。
嫌な予感が、全身の産毛を逆立てる。
(お願い、神様。どうか間に合って。あの子だけは、巻き込まないで……!)
全力で走り、アパートの階段を駆け上がる。
澪の部屋のドアは――半開きになっていた。
「っ……柚葉!!」
悲鳴のような声で叫びながら、澪と涼子が部屋に飛び込む。
薄暗い室内。
カーテンが閉められたままのベッドの上で、恐る恐る目を疑うような光景が広がっていた。
「いやぁあああっ!! やめて、何なの、誰っ!?」
パニックに陥り、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして泣き叫ぶ柚葉。
うつ伏せで寝ていた柚葉の背中に馬乗りになり、右手に銀色に光るハサミを握りしめている男――蓮。
ジャキリ、ジャキリ。
無情な金属音が響くたび、柚葉が何よりも大切に手入れしていた、艶やかな長い黒髪が、無惨に切り落とされて宙を舞う。
ベッドのシーツは、切り刻まれた黒髪で無数に汚されていた。
「あ……ぁ……」
澪は絶望に喉を詰まらせ、その場にへたり込みそうになる。
背後から駆けつけた弁護士が、すぐさま警察に通報を入れた。
「……おや」
背後の物音に気づいた蓮が、ゆっくりと振り返る。
その顔には、今まで見たこともないほど醜く歪んだ、狂気の笑顔が張り付いたままだった。
彼はベッドの下に立つ澪と、自分の下で乱れた黒髪に顔を覆われて震える柚葉を交互に見比べ、自分の「勘違い」に気づいたようだった。
だが、彼の狂った思考は全く悪びれる様子を見せない。
「なんだ、澪は出かけてたのか。澪の服を着て、澪と同じ綺麗な黒髪をしてるから、てっきり君だと思ったのに」
悪びれるどころか、蓮は血の通っていない冷たい声で笑った。
「でも、ちょうどいい。ほら、これで外に出られないね! 俺以外の男に見られなくて済む! 全部、言うことを聞かない君への教育だよ!」
狂気の笑顔で言い放つ蓮。
その言葉が、澪の中で、今まで抑え込んでいた何かのストッパーを完全に破壊した。
「……ふざけんな」
「え?」
気づけば、澪は無我夢中で駆け出していた。
恐怖などなかった。
ただ、大切に育ててきた妹を、その誇りである髪を弄んだこの男に対する、純粋で絶対的な殺意だけがあった。
「ふざけるなあっ!!」
澪は蓮に飛びかかり、その頬を渾身の力で平手打ちした。
パァンッ!!
という破裂音が部屋に響き、不意を突かれた蓮がベッドから転げ落ちる。
澪はすぐさま柚葉を抱き寄せ、震える背中を強く、強く撫でた。
「ごめん、ごめんね柚葉……! お姉ちゃんがついてるから、もう大丈夫だから……!」
遠くから、けたたましいパトカーのサイレンが近づいてくる。
床に倒れ込んだ蓮は、赤く腫れ上がった頬を押さえながら、信じられないものを見るような目で澪を睨みつけていた。
「き、君……俺を打ったのか? この、俺を……! 君みたいな底辺の女が……っ!」
「動かないで。現行犯よ、このクズ」
涼子が冷酷な声で言い放き、逃げ道を塞ぐ。
数分後、踏み込んできた数人の警察官によって、蓮はついに手錠をかけられた。
「離せ! 俺が誰だか分かってるのか!!」
腕を捻り上げられ、パトカーへと連行されていく最中も、蓮の口から出るのは反省の言葉ではなく、醜い自己保身だけだった。
「俺は悪くない! 親に言えばこんなのすぐ揉み消せる! お前ら全員、俺の親父の力で……!!」
無惨な叫び声が、サイレンの音と共に遠ざかっていく。
部屋に取り残された澪は、切り落とされた柚葉の髪を握りしめながら、静かに、しかし確かな怒りの炎を燃やしていた。
――数日後。
都内の一等地にある弁護士事務所の応接室。
そこに、高価なスーツと着物に身を包んだ、初老の男女がふんぞり返って座っていた。
「全く。うちの優秀な息子をたぶらかした挙句、警察沙汰にするとは……どんな卑しい育ちをしているのかしら」
鼻で笑うのは、白鳥蓮の両親だった。
彼らもまた、息子の異常性を育て上げた「元凶」そのもの。
澪と涼子は、冷ややかな視線でその傲慢な顔を見据えていた。
本当の反撃は、ここから始まる。




