第6章:500万の誠意と、山奥の管理者
重厚な革張りのソファに深く腰掛けた白鳥蓮の母親は、高級な扇子で顔を仰ぎながら、心底見下したような目を澪に向けていた。
「これで手を打ちなさい。たかが髪の毛数本で、500万円よ? あなたのような苦学生の家にとっては、一生かかっても拝めないような大金でしょう?」
ドン、とガラステーブルの上に置かれたのは、分厚い現金の束。
隣に座る父親も、尊大な態度で腕を組み、冷酷に鼻で笑う。
「うちの蓮は将来を嘱望された優秀な男だ。若いゆえの多少の行き過ぎはあったかもしれんが、前科がついては家名に傷がつく。示談書にサインして、被害届を取り下げてもらおう。それで全て丸く収まる」
彼らにとって、他人の尊厳や妹の心の傷など、金の力でどうとでも揉み消せる程度の「瑣末な問題」でしかなかったのだ。
蓮のあの異常なまでの特権意識と支配欲は、この両親にしてこの子あり、という環境で培われたものだった。
澪は、テーブルの上の札束をじっと見つめた。
怒りで身体が小刻みに震える。だが、不思議と声は冷静だった。
「……お金なんて要りません」
「は? あなた、自分が何を言っているのか分かっているの? 身の程を知りなさい!」
母親がヒステリックに声を荒らげた、その時。
澪の隣に座っていた神崎涼子が、クスクスと低く笑い声を上げた。
「相変わらず哀れな人たち。500万ぽっちで、自分の息子の犯した罪が買えると思っているの?」
「な、何だと……! 神崎の娘だからと、生意気な口を……!」
父親が涼子を睨みつける。
しかし、涼子は全く動じず、手元のスマートフォンを操作して、ある画面を父親の目の前に突きつけた。
「これ、白鳥不動産の直近三期分の裏帳簿。それから、役員報酬の名目で海外のペーパーカンパニーに流れている、不透明な資金のデータよ。うちの実家のネットワークを舐めないでくれる?」
「っ!? な、なぜそれを……!」
父親の顔から、さぁっと血の気が引いていく。
涼子の実家は、大学のスポンサーであるだけでなく、政財界に巨大な影響力を持つ神崎グループだ。
その情報網にかかれば、地方の中堅企業である白鳥家の「闇」を暴くなど造作もないことだった。
「脱税、私的流用、特別背任……。これを国税庁と検察に持ち込んだら、白鳥不動産はどうなるかしらね? あ、それから」
涼子はさらに書類をもう一枚、テーブルに叩きつけた。
「白鳥蓮の大学からの『退学処分通知書』よ。昨日、理事会で正式に決定したわ。内定していた大手企業も、すでに内定取り消しに動いているそうよ。当然よね、住居侵入と器物破損の現行犯で逮捕されたストーカーなんだから」
「そんな……っ! 蓮の輝かしい将来が……!」
母親が頭を抱えて悲鳴を上げる。
父親はガタガタと震え、額から大量の冷や汗を流していた。
完璧だったはずの彼らの世界が、一瞬にして音を立てて崩壊していく。
澪は、まっすぐに両親の目を射抜いた。
「最初から、示談に応じるつもりなんてありません。あなたたちの息子がしたことは、絶対に許さない。法の下で、きっちり罪を償ってもらいます」
澪は息を深く吸い込み、キーとなる言葉を、冷徹に言い放った。
「その汚いお金で、優秀な息子さんが山奥のイノシシを『管理』する手伝いでもしてあげてください」
「っ……!!」
白鳥家の両親は、返す言葉もなく、ただただ絶望の表情でその場に崩れ落ちるしかなかった。
その後、白鳥蓮には執行猶予付きの有罪判決が下った。
しかし、彼の破滅はそれだけでは終わらなかった。
大学を退学になり、就職先も失い、実家の企業も国税局の強制捜査で大打撃を受けた白鳥家において、蓮はもはや「厄介者」以外の何物でもなくなっていた。
蓮は親族の決定により、携帯の電波すら届かない、山奥の限界集落にある本家(農家)へと強制的に追放された。
皮肉なことに、彼は今、祖父の手によって足首に『GPS付きの監視端末』を付けられ、朝から晩まで過酷な農作業と、畑を荒らす害獣駆除の労働を強いられている。
他人を「管理」することに執着した男は、今や、最も自由のない環境で「管理」される身となったのだ。
翌年の春。
抜けるような青空の下、満開の桜が風に舞っていた。
「お姉ちゃん、見て! スーツ、変じゃないかな?」
くるりと嬉しそうに回ってみせるのは、晴れて第一志望の大学に合格した柚葉だった。
あの事件で切り刻まれた髪は、今はボーイッシュですっきりとしたショートヘアになっている。
だが、それがかえって柚葉の明るい瞳を引き立て、最高に似合っていた。
「ううん、すっごく可愛いよ。入学おめでとう、柚葉」
「うん! お姉ちゃんのおかげだよ、本当にありがとう!」
式典に向かう妹を笑顔で見送った後、澪は大学の近くにあるお洒落なテラス席のカフェへと向かった。
そこでは、相変わらずクールな佇まいの涼子が、アイスコーヒーを飲みながら待っていた。
「遅かったじゃない」
「すみません、柚葉の写真撮影に付き合ってて」
澪が席に座ると、涼子はフッと優しく微笑んだ。
「柚葉ちゃん、ショートカットも似合ってたわね。……そういえば、風の噂で聞いたんだけど」
涼子は悪戯っぽく目を細める。
「あのモラハラ男、今頃山奥の畑の真ん中で、自分の過ちに気づいたかしらね?」
澪は少しだけ考えてから、爽やかな苦笑いを浮かべた。
「いいえ。あの人はきっと、一生気づかないでしょうね」
「違いないわ。ま、一生土でも弄ってればいいのよ」
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑い合った。
居酒屋のバイトも辞め、奨学金の返済計画も見直しが進み、澪の生活には本当の平穏が訪れていた。
見上げた空は、どこまでも高く、清々しい青色に染まっていた。
(もう二度と、私の未来を誰にも管理させはしない)
澪は心の中でそう強く誓いながら、温かい紅茶を口にした。
(完)




