第2章:笑顔の監視カメラ
カラカラと、安っぽい引き戸が開く音が、居酒屋の喧浪に紛れて響いた。
「いらっしゃいませー! 空いているお席へどうぞ!」
大衆居酒屋『酔いどれ横丁』。
油の匂いとアルコールの臭気が充満するこの店で、高梨澪はジョッキを両手に抱えて走り回っていた。
時給1,050円。
親の借金の返済と、高校三年生の妹・柚葉の冬期講習代を稼ぐため、澪にとっては一分一秒が貴重な労働時間だった。
額の汗を拭う暇もなく、新しく入ってきた客の方へ視線を向けた、その瞬間。
澪の身体が、凍りついた。
「……え」
大衆居酒屋の泥臭い空間に、およそ似つかわしくない、洗練された二組の男女が立っていた。
一人は、仕立ての良いカジュアルジャケットを着こなした、白鳥蓮。
そしてもう一人は、切れ長の瞳が印象的な、黒髪のクールな美女。
ブランド物のバッグを肩にかけ、退屈そうに周囲を見渡している。
「本当にこんな店にあるの? 蓮。君のおすすめの隠れ家メニューって」
「まあまあ、涼子先輩。たまにはこういう庶民の泥臭い空気を感じるのも、社会勉強になって面白いですよ」
蓮は、いつもの完璧な王子様の笑顔で、連れの女性――神崎涼子をエスコートしていた。
(あ……)
わざとらしく辺りを見回した蓮が、呆然と立ち尽くす澪と視線を合わせた。
「おや。奇遇だね、澪。こんなところで何をしてるんだい?」
まるで本当に偶然見つけたかのような、わざとらしい演技。
澪の脳裏に、前回のデートでバッグの中を漁られたのではないかという疑惑が、確信となって突き刺さる。
身体の芯から、冷たい汗が吹き出した。
「れ、蓮さん……どうして……」
「奥の席、空いてるよね? 案内してくれないかな」
拒否権などなかった。
澪は震える足で、二人を奥のボックス席へと案内した。
「ご注文が決まりましたら、お呼びください……」
逃げるようにその場を離れた澪だったが――地獄はここから始まった。
エプロンのポケットに入れたスマートフォンが、短い周期で『ブ、ブ、』と微振動を繰り返す。
バイト中は私用スマホの確認は禁止されている。
だが、あまりの頻度に不吉な予感を覚えた澪は、ドリンクカウンターの死角で画面を盗み見た。
画面を埋め尽くしていたのは、蓮からのLINEメッセージだった。
『今、二番テーブルのサラリーマンから注文取ってたよね。笑顔を作って愛想を振りまく必要、あった?』
『あいつ、君の胸元を見てたよ。どうしてそんなに安い女みたいに、男に隙を見せるの?』
『俺という完璧な管理者がいながら、他の劣等種に笑顔を安売りするなんて、ひどい裏切りだと思わないかな』
「ひっ……」
小さな悲鳴が漏れた。
蓮たちの席からは、店の全域が見渡せるわけではない。
それなのに、蓮は澪の動きを正確に把握していた。
まるで、見えない監視カメラが常に自分を追いかけているかのような、強烈な息苦しさが澪を襲う。
メッセージはまだ続く。
『返事がないね。悪い子だ』
『今、スマホ見てるでしょ。一分以内に注文を取りに来て』
心臓がバクバクと早鐘を打つ。
澪はスマートフォンの画面を消し、急いで蓮たちのテーブルへと向かった。
「お、お待たせいたしました……。ご注文は……」
「ああ、澪。この『鶏の唐揚げ』と『出し巻き卵』、それからウーロン茶を二つ」
蓮は、涼子の前ではどこまでも『優しい恋人』を演じていた。
しかし、涼子がメニュー表に目を落とした一瞬の隙。
蓮は、澪を射殺さんばかりの冷酷な視線で睨みつけ、声を潜めて囁いた。
「あそこの卓の男、注文取るのに15秒もかかってたね。俺という彼氏がいるのに、そんなに安売りしたいの?」
その目は、全く笑っていなかった。
言葉の刃が、澪の精神を容赦なくすり潰していく。
「……すみ、ません」
「君は本当に無知で、放っておくとすぐに泥にまみれる。俺がこうして監視して、教育してあげないと駄目なんだ。わかったら、早く仕事に戻りなさい」
憐れむような、しかし確かな優越感に浸った目で蓮は言った。
澪は涙を堪えながら、深く頭を下げてその場を離れた。
背中に突き刺さる蓮の視線が、皮膚をチリチリと焼くように痛い。
(もう、限界かもしれない……。でも、私がここで辞めたら、柚葉の塾の費用が……)
頭が朦朧とする中で、澪はひたすら動き続けた。
バイトの終了時間が近づいた頃、激しい胃の痛みに襲われた澪は、「少しお手洗いに」と声をかけてスタッフルームを出た。
居酒屋の薄暗い通路。
女子トイレに入ろうとしたその時、中から誰かが出てきた。
蓮の連れである、神崎涼子だった。
澪はビクッとして、道を譲るために壁際に身を寄せた。
関わってはいけない、そう直感が告げていた。
涼子は無表情のまま、澪の横を通り過ぎようとする。
――その、すれ違いざまだった。
涼子の細い指先が、信じられないほどの早業で、澪のエプロンのポケットに滑り込んだ。
カサリ、と小さな紙の音がする。
「え……?」
驚いて声を上げそうになった澪の耳元に、涼子が顔を寄せ、低く、しかし驚くほど澄んだ声で囁いた。
「あいつ、あんたのGPS監視してるわよ」
「――!」
「手遅れになる前に、逃げな」
それだけを言い残し、涼子はヒールの音を響かせて、何事もなかったかのように通路の奥へと消えていった。
静まり返った通路で、澪は震える手でポケットを探った。
中から出てきたのは、小さく折り畳まれた一枚のメモ用紙。
そこには、達筆な字で、ある個人の電話番号と、短い一言が書き残されていた。
『神崎涼子。本当に助けが必要なら、ここにかけなさい』
ポケットの中のスマートフォンが、また『ブ、ブ、』と、蓮からの執拗なメッセージを受信して震え出す。
だが、今の澪には――
その絶望的な振動よりも、握りしめた小さなメモ用紙の方が、かすかな、しかし確かな体温を持っているように感じられた。




